장재형목사 HBS 회장 성경보급 집중

새가 날고있는 일러스트.
  • 十字架と救い – 張ダビデ牧師

    1. 十字架に架かられたイエス・キリスト イエス・キリストの十字架の出来事は、キリスト教信仰の中心であり、最も頂点をなす場面といえる。ヨハネの福音書19章18節から続く本文は、イエスがゴルゴダの丘に登られ、二人の強盗と共に十字架に釘打たれて苛烈な苦痛を受けられる姿を具体的に伝えている。本文によれば、イエスは「真ん中の」十字架に架けられたが、これはイエスが世の罪人たちの只中で、彼らの罪を代わりに背負って死なれる贖いのみわざを最も鮮明に示している。強盗たちの間に置かれたイエスの姿は、全能の神の御子が、最も恥辱に満ち悲惨な場所で人間の罪を負われたという点で衝撃的であり、同時に深い霊的含意をもつ。 張ダビデ牧師はこの箇所を解釈し、イエスの十字架の出来事が決して単なる「敗北」や悲劇で終わらない事実に注目する。本文でピラトが書いた「ユダヤ人の王」という札がヘブライ語・ギリシア語・ラテン語で掲げられたことは、当時ユダヤ人だけでなく、ギリシア人やローマ人にもこの知らせが伝わるよう、主権的な摂理が働いていたことを示す。これはイエスが単にユダヤ人だけの王ではなく、全人類を救うメシアであることを明らかにする象徴的な出来事と解釈できる。張ダビデ牧師はこの点を強調し、イエスの救いのみわざが特定の民族や特定の階層だけに限られていないことを力説する。イエスが万王の王であることを告知したピラトの判決文は、皮肉にもピラト自身の意図とは反して、イエスの威厳と真の正体を宣言する結果をもたらした。 ピラトの判決文は、イエスを政治犯または暴動罪として十字架刑に渡すという重大な罪を犯したにもかかわらず、彼がどうにか固執しようとした「ユダヤ人の王」という主張が、実はイエスの本当の正体を暴露していたことを示している。「私が書いたものは書いたままにしておけ」と言い切ったピラトの態度は、歴史の車輪の中で、彼自身が知らなかった神の救済のご計画をあぶり出すために用いられた、一種の「道具」であったとも考えられる。張ダビデ牧師は、こうしたアイロニーの中に神の摂理が隠されていると語る。人間の歴史において、偶然のように見える瞬間や権力者の高慢な決定でさえも、結局は神の意図した方向へ帰結せざるを得ないという事実が、ここで明白に示されるのだ。 このように「ユダヤ人の王」と公表されたイエスは、十字架の上で激しい侮辱と苦痛を受けながら、世の罪を代わりに担われた。弟子たちでさえ大半が逃げ去り、そこに残ったのはわずかな女性たちと愛する弟子ヨハネだけであった。それに対して、ローマの兵士たちは十字架に架けられた者の所持品を略奪するかのように分け合い、特にイエスの最後の所有物だった「一続きに織られた服(下着)」さえも、くじを引いて手に入れようとした。これは表面的には死刑囚に残された最後の物まで奪い取る行為に見えるが、霊的な観点から見ると、世にあるあらゆる「貪欲」を映し出す典型的な姿だといえよう。主は罪人である私たちのためにすべてを放棄してくださったが、それに反して世はイエスの最後の服さえも分け取りたいと争う愚かな姿をさらけ出したのだ。 張ダビデ牧師は、この場面が教会の現実やキリスト者の内面を省みさせる「鏡」のような役割を果たすと言う。教会や信徒だからといって、いつも十字架の前で謙遜と自己否定を実践しているわけではない。教会共同体の中でも、ときに世のやり方そのままに、より多くを所有しようとし、より高い地位や名誉を得ようとする競争心をあらわにするときがある。ゆえにヨハネの福音書19章に登場するローマ兵たちの貪欲な姿は、古代の話ではなく、今日の教会にも繰り返され得る警告として聞くべきだ、というのである。張ダビデ牧師は私たちに自己を省察するよう促す。果たして私たちは、キリストの十字架の下で主の苦難と慈しみを深く黙想するよりも、いまだに世俗的な目的を満たすために信仰を利用してはいないだろうか、と問いかけるのだ。 十字架のそばに立っていた四人の女性は、恐れて逃げ出さず、最後まで主の苦痛を見守り、共にいた。主の母マリア、彼女の姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアである。その現場は、単なる悲しみを超え、ローマ兵たちが見張り、無慈悲に人を処刑していた恐ろしい場所であった。しかし、この女性たちは十字架にしっかりと寄り添い、イエスを愛をもって見つめた。ペテロのように恐れに駆られて逃げることもできたはずだが、彼女たちの愛は恐れに勝ったのである。これは今日の信徒にも重要な手本となる。十字架の道は苦しみを伴うが、キリストの愛を知るならば、その道から退くことはない。張ダビデ牧師は、この女性たちの献身こそ教会が見習うべき勇気と愛の象徴だと語る。彼女たちは男性の弟子たちが逃げ去った場に残り、最も悲惨な瞬間まで同行したからである。 この本文を黙想するとき、王でありながら同時に祭司でもあるイエスが、いかにして最も低いところへと降りてこられたかを、さらに深く理解することができる。ヨハネの福音書でイエスは何度もご自分の正体を「羊のために命を捨てる良い牧者」とほのめかしておられる(ヨハネ10章参照)。実際にイエスはすべてを差し出し、最後に身につけていた下着さえも奪われる状態にまで至った。世の罪を背負って十字架にかけられたイエスが示された愛は、単なるこの世の道徳的善行をはるかに超えている。それは罪人に与えられた完全な犠牲であり、神がイエスを通して直接示された、最も劇的な救済史的出来事である。張ダビデ牧師は、イエスが最も偉大な王であると同時に、最も低いところでご自分を完全に空にされたしもべであるという、この「アイロニー」を深く黙想するよう私たちを招いている。 ここでさらに注目すべきは、イエスが着ておられた下着について、ヨハネが「上から下まで一続きに織ったもの」と特筆している点である。これは当時、大祭司が着用した衣服の形式を想起させる。古代イスラエルの大祭司は聖なることを象徴する特別な衣服を身につけたが、その衣服が示す意味は「神にささげられる完全な奉仕」であった。イエスの下着が一続きに織られていたと記されているのは、イエスが真の大祭司として完全な贖いを成就するために死なれたことを暗示すると、張ダビデ牧師は説く。これはイエスが外見上は惨めで虚しい死を迎えられたように見えても、霊的次元においては、最も尊い使命を完成する荘厳な瞬間であったことを示している。一方、その衣服をくじ引きで手に入れようとするローマ兵たちの姿は、人間の卑劣な欲望と無関心を対照的に映し出す。 このように十字架の上で行われた兵士たちのくじ引きは、イエスに対する頑なな無関心と世俗的欲望の極みを見せつける。貪欲に染まった人々はイエスを真の王と認めることができず、その方の最後の衣さえもただの利益としか見なさない。これは、恵みを最も必要な瞬間に拒む行為であり、神を冒涜するのと変わらない。しかし、主の十字架の出来事を正しく黙想する者にとって、この場面は限りなく衝撃的であると同時に、自らの現実を振り返るきっかけとなる徴でもある。イエスは私たちが奪われることを恐れるような何ものに対しても、すでにすべてをご自身が与え尽くすことで救いを成し遂げられた。ゆえにイエスこそが、貪欲や所有欲の問題を克服する鍵であり、聖なる模範そのものである。 ポンテオ・ピラトの法廷で下された「ユダヤ人の王」という公的名称と、十字架の上ですべてを奪われたイエスの姿は、不思議な逆説を形作る。王でありながらすべてを捨てられた方、聖なる大祭司でありながら最も恥ずべき罪人の死を受けられた方、あらゆる権威をお持ちながら自ら人々の間に入って嘲られた方、それがイエスなのである。張ダビデ牧師は、この霊的逆説こそ十字架の出来事を通して私たちがつかむべき福音の真髄だと説く。十字架はイエスの敗北ではなく、究極の勝利であり、同時に全人類に対する最大の愛の表現であったことを、私たちは決して忘れてはならない。 かくして、張ダビデ牧師が強調する十字架神学の核心は、イエスが罪を知らないお方でありながら罪人の座に降り、完全な犠牲のいけにえとなって神と人間を和解させてくださったという点にある。ヨハネの福音書に示される「The Crucified God(十字架にかけられた神)」というイメージは、宣教や牧会の現場でクリスチャンたちが抱くべき中心的価値とアイデンティティを反映している。より多くのもの、より良いもの、より快適な生活を追い求める世の中で、教会と信徒はまったく逆の道を進むというメッセージが、ここには込められている。それは主がたどられた「十字架の道」であり、まさにその道において私たちは、自分の欲と傲慢、世の虚しい欲望を捨て、ただ主の恵みと愛に頼って生きることを学ぶのだ。 したがって張ダビデ牧師は、私たちが常に十字架の下へ立ち返り、その現場を生々しく見つめなければならないと教える。イエスの最後の下着をめぐりローマ兵たちがくじ引きをする光景は、私たちと無縁の過去の野蛮な行為ではなく、今日の教会や信徒にも起こり得る出来事だと自覚させる。十字架を「所有と貪欲」の道具に堕落させようとする世俗的企みに、自らが染まってはいないかを点検すべきだというのである。同時に、何一つ残さずすべてを与えてくださるイエスの姿は、私たちの信仰を奮い立たせ、主に倣いたいと願う気持ちを呼び覚ましてくれる。張ダビデ牧師は、この箇所で教会が世の中に生々しく示すべきことは「無所有」や「禁欲」を通り越して、必要とされる場所に喜んで自分を捧げ、苦難に同伴する愛の実践だと解釈する。 十字架の現場には、「強盗たちの間に置かれた神の御子」「最も汚れた場所で最も清らかな方が死なれた」というアイロニーが満ちている。このアイロニーの中で、罪人であった私たちがイエスの恵みによって救われたことを、改めて思い起こさずにはいられない。本文に登場するこの矛盾に満ちた光景は、かえってイエスの絶対的主権と愛をいっそう際立たせる。そしてその愛は、十字架の下に最後までとどまっていた女性たちの姿と重なり、真の献身と勇気を示すのである。張ダビデ牧師は、この女性たちの純粋な信仰と犠牲的な愛を、教会が学ぶべきだと力説する。愛だけが恐れを追い出し、愛だけが十字架の深い苦しみの中でも私たちを主のそばから離れないようにしてくれるのだ。 ヨハネの福音書19章の記録は、イエスの十字架の出来事がどのように聖書の預言(詩篇22篇など)を成就し、同時に神の聖なるみこころの中で完全な救いを成し遂げたのかを劇的に示している。張ダビデ牧師がこの本文で強調する中心点は、キリストがご自分で下り、捨て、すべてを献げられた道こそが真の勝利であり、私たちに与えられた聖なる召しであるということだ。ピラトの強引で政治的な処分も、ローマ兵の欲にまみれたくじ引きも、ユダヤの指導者たちの冷酷な叫びも、結局はイエスが歩まれた贖いの道の前に無力となる。イエスが「ユダヤ人の王」として掲げられた木の十字架こそ、どんな政治的策謀や世俗的欲望よりも力強い真理の象徴だからである。 このように、十字架にかかられたイエスを仰ぎ見るとき、私たちはイエスの絶対的な献身と神の国の価値を悟る。そしてその道を自分も歩むべきことを自覚する。張ダビデ牧師は、イエスの十字架の道こそ教会を生かす恵みの源だと宣言する。依然として世は私たちの注意をそらし、貪欲や利己心を煽ってくるが、十字架を見上げる者には主の愛とへりくだり、犠牲と献身の霊が注がれる。罪を知らない神の御子が強盗たちの真ん中で苦しみに遭われたのは、私たち全員を強盗のような罪人の状態から救い出すための、主の深い愛のゆえであった。この愛は今日においても変わらず有効な福音のメッセージである。私たちはこの福音を握りしめて十字架の下へ進み、張ダビデ牧師は、この福音を通して教会が世に与えられる最大の贈り物は、イエスの聖なる犠牲を伝えることだと強調する。 2. 十字架 イエスの十字架の死は2,000年前の歴史的出来事ではあるが、今の時代の教会とキリスト者にもなお深い影響を及ぼしている。現代社会は物質主義と個人主義が蔓延し、教会さえも世俗化の波に揺さぶられることが多い。このような状況の中で、張ダビデ牧師はヨハネの福音書19章18節から続く十字架の場面を通し、教会と信徒がしっかりと握るべき核心価値を強調する。彼は十字架の出来事がもつ霊的教訓を二つに要約する。第一に、私たちに対する神の自己放棄と犠牲の愛こそが救いの本質だという事実、第二に、その愛が具体的な生活の実践につながらなければならないという事実である。 まず十字架の出来事は、「神の御子が強盗たちと共に架けられた」という姿から、劇的な逆説を肌で感じさせる。イエスは罪人として死刑宣告を受けられたが、実はその罪人たちの罪を引き受けてくださる代償のみわざを行われている場面なのである。この矛盾した状況を現代教会の視点で捉えるなら、しばしば教会共同体も世の中で誹謗中傷を受け、嘲られることがあるが、それでもなお真の福音の核心を示さなければならないという挑戦を得ることができる。張ダビデ牧師は、教会が世のただ中で「十字架神学」を体現するとき、むしろ世の「強盗のような罪人たち」が救いの門へ招かれるのだと説く。 しかし問題は、教会がときとして「十字架の精神」を忘れ、物質的豊かさや対外的影響力、権力との結託といった誘惑に陥ることである。これは、ローマ兵が十字架の下でイエスの服を分けるために賭博まがいのくじ引きをした姿と大きく異ならない。私たちも主の恵みを求めて信仰生活を送ると口では言いながら、実際には「どうすればもう少し多くの得を得られるか」「どうすれば自分の所有や権威を拡張できるか」を考えてしまうことがある。イエスが最後に残した一着の服を手に入れるためにくじを引いた兵士たちの姿は、現代の教会においても他人事ではないと悟らねばならない、と張ダビデ牧師は指摘する。 張ダビデ牧師は、この点でイエスが決して世俗的な方法でご自分の王権を行使したり、物質的富を追求したりされなかったことを思い起こさせる。むしろ主は世の王たちとは違い、へりくだって仕えるしもべの姿で働かれ、ついには何も持たないまま、最も恥ずかしい方法で死なれることによって、神の救いのみわざを完成なさったのである。この点で、教会と信徒は「十字架の霊性」を回復すべきだという強い挑戦を受ける。私たちはイエスの弟子であることを誇りつつも、実際の生活では世の成功法則や富と栄華を追う二重の態度をとりがちである。しかしイエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)とおっしゃった。これこそ教会と信徒に求められる生き方である。 このように、十字架は恥辱と屈辱、さらには死の象徴であると同時に、キリスト者の生を新たにする復活の希望の出発点でもある。張ダビデ牧師は、十字架なしには決して復活はなく、自己否定なしには新しい命を味わうことはできないと強調する。だからこそイエスを信じて従う信仰共同体は、常に十字架の愛を黙想し、それを生活の中で実践しなければならない。そうしてこそ、教会は世の中で真の光と塩の役割を果たすことができるのだ。イエスは強盗たちとともに架けられ、ローマ兵の侮辱を受け、民衆から「自称ユダヤ人の王だ」と嘲られた。しかし、このすべての屈辱の中にあっても、主は神の力で報復したり反撃したりすることなく、終わりまで沈黙のうちに赦しを宣言された。「父よ、彼らをお赦しください」という祈りは、人間の視点からすれば理解し難い愛の極みである。 これを再び現代の信仰現場に当てはめてみると、教会は些細な問題で紛争を起こし、赦すよりも報復し合い、イエスが教えられた愛の戒めを顧みないことがいかに多いかを振り返らせる。張ダビデ牧師は、十字架が教会の真ん中に高く立てられているべき理由はまさにそこにあると説く。十字架が飾り物で終わったり、宗教的象徴として利用されるだけでなく、私たちの生活と信仰、そして共同体の中で実際の変化や和解、赦しをもたらす力として働かなければならない。それこそが真の十字架のパワーであり、教会が世に善い影響を及ぼす方法なのである。 さらに十字架のもとで最後まで主を見守っていた女性たちの姿から、教会は「結局は愛が残る」という真理を学ぶべきである。危険な状況下でも主のそばを離れなかったこの四人、すなわちイエスの母とその姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアの存在は、イエスへの深い愛が恐れを超えた具体例である。人間的な合理的計算で考えれば、十字架の処刑場に残ることは無用な危険を招く行為かもしれない。だがイエスへの愛が彼女たちを離れないようにし、最終的には復活の朝にも誰より早く主と出会う祝福へとつながった。教会がこの愛の精神を失わないとき、世から嘲られ迫害されても、復活の証人となれるのだと張ダビデ牧師は見る。 張ダビデ牧師は「愛が恐れに打ち勝つ」という原理を強調し、教会が世俗的誘惑に勝ち、福音の真髄を守り抜く道は、十字架の愛にしっかりと立つしかないと説く。どんなに教会の礼拝や活動が規模が大きく派手でも、その中に十字架の精神が生きていなければ、結局人々の心を動かすことはできず、神の力も現れない。世は今も教会が誇る強大な財政力や壮大な建築物ではなく、「本物の愛」を探している。そしてその愛は、ただ十字架の上ですべてを差し出されたイエスの姿にこそある。 このように、十字架の出来事は単に昔の痛ましい死の物語ではない。教会が存在する限り、十字架は絶えず私たちの罪を省みさせ、同時に赦しと愛の道を歩めと招く。イエスが罪なく死なれたにもかかわらず、兵士や宗教指導者たちがその方をあざ笑い、その服さえも奪い取ったように、現代でも教会や信徒は不当な扱いや嘲笑を受けることがある。だがまさにそのときこそ、世とは異なる道を見せるチャンスでもある。私たちはローマ兵たちのように、より多くの利益を得るために騒ぎ立てる「くじ引き」に夢中になるのではなく、イエスの歩まれた道を黙々と追いながら愛を分かち合い、痛みに寄り添わねばならない。 張ダビデ牧師は、これを「十字架型の弟子道」と呼ぶ。すなわち、弟子道とは王として君臨し世を支配するあり方ではなく、自分を捨て、世の罪や傷に共にあずかりながらも、他者への愛を実践することにある。そういう意味で十字架は弟子道の究極のモデルである。ここには「自分を否定し自分の利己心を下ろす苦難の過程」が必然的に伴うが、その苦難の先には復活の栄光がある。この過程に参加することこそが「聖なる道」であり、教会が担うべき本分なのだ。 張ダビデ牧師は説教や著作を通じ、教会が十字架のメッセージを現代的文脈にどのように適用できるかを具体的に提示する。たとえば、物質至上主義と競争構造が激化する社会にあって、教会が物質的に豊かな行事や施設投資ばかりに注力するのではなく、社会的弱者や苦しむ人々のために進んで自分たちの資源を使うべきだと勧める。また、政治権力に寄り添ったり、世俗的影響力を行使しようと努める代わりに、イエスのように低いところで仕え、他者を尊重する文化を築いていかなければならないと主張する。これこそ十字架の精神を実践的に体現することだというのである。 今日、教会が直面する挑戦は多岐にわたる。若者が教会を離れ、ポストモダン思想や多元主義、価値相対主義が氾濫する中で、教会の影響力は弱まっている。しかし張ダビデ牧師は、教会の真の影響力は華々しいスローガンやプログラム、あるいは現実の権力との提携から出てくるものではないと強調する。むしろ純粋な福音を握り、十字架の前で自らを低くし、キリストの愛を実践する教会がこそ、世に本物の変化をもたらし得るのだと力説する。これは歴史を振り返ってみても、十字架中心の霊性と実践を大切にしてきた教会こそが、世の中で光と塩の役割を担ってきた前例からも裏付けられる。 したがって、教会と信徒が日々の生活の中で十字架を見つめる訓練が必要である。十字架はすなわち「自分が罪人であることを認め、イエスがその代わりに死んでくださった」ことを告白する場である。同時に、その愛によって私たちも人を赦し、愛することができる力を受ける場でもある。現代教会の諸問題は、実はこの十字架の霊的本質を捉えられなくなったときに起こるのだ、と張ダビデ牧師は指摘する。礼拝スタイルの変化やプログラムの刷新、組織改革より前に、最も根本的に回復すべきは十字架神学なのである。 十字架のそばに最後まで残っていた女性たちの行動が、現代のキリスト者にとって「教会のアイデンティティ」を思い出させるという点も見逃せない。女性の弟子たちは当時、社会的弱者であり、法的地位も保障されていない立場にあった。だが、彼女たちの献身と勇気はむしろ十字架の核心的証人となった。今日においても、教会は社会的弱者や疎外された人々、声を上げにくい人々と連帯し、その側に立つとき、十字架の精神を具現できる。張ダビデ牧師は、教会が単に建物の中で集まって礼拝を捧げる共同体にとどまらず、「涙する人々と共に泣き、疎外された人々を積極的に顧みる開かれた共同体」となるべきだと、繰り返し強調している。 十字架の出来事が現代教会に投げかけるメッセージは明確である。教会は十字架の精神、すなわちイエスが示された自己犠牲と愛のモデルに倣わねばならない。教会の内に争いや分裂があっても、十字架を仰ぎ見て互いに赦しと和解の道を探らねばならない。社会が教会を非難し嘲笑するとしても、主が背負われた十字架の道こそが命の道であると信じ、いっそう謙虚に身を低くすべきなのである。そして教会のそのへりくだりこそが、世に仕え、愛を届ける通路となるとき、かえって多くの魂が福音のもとに立ち返ることになる。張ダビデ牧師は、これこそ「十字架に架かられたイエスの道が今日も生き生きと展開される姿」だと結論づける。 ゆえに、ヨハネの福音書19章に描かれたイエスの苦難と死を黙想する際、自分の中にある世俗的欲望や利己心を捨て、主の御心を宿すことがいかに大切かを切実に悟らなければならない。イエスの弟子の多くは苦難の前に散り散りになったが、十字架のそばに残った者たち、特に女性たちは最後までその愛を手放さなかった。同様に、現代教会が「十字架の愛」を最後まで捨てないならば、世の非難や迫害の中にあっても、主が備えてくださる復活の栄光を味わうことができるだろうと、張ダビデ牧師は語る。 十字架の出来事は、キリスト教福音の核心を余すところなく包み込み、イエス・キリストの王としてのご性質と大祭司としてのご性質を同時に表わしている。しかし、この驚くべき救いの完成は、ローマ兵やユダヤ指導者たちの残酷さと無情さの真っ只中で起こったという事実が逆説的である。これは、教会と信徒が罪に満ちた世の中でいかに聖と愛を実行すべきかを示す重大なヒントとなっている。私たちは世と妥協したり、不当な嘲笑を恐れて身を隠すのではなく、十字架のもとでイエスの足跡をたどり、強盗のようであった罪人をも生かされたその恵みを伝えなければならないのだ。張ダビデ牧師は、このように「十字架の霊性に武装した教会だけが、最終的に世を変えることができる」と宣言する。 十字架は涙と苦しみ、さらには死を意味するが、同時に復活と希望、救いの門を開く鍵でもある。キリスト者になるということは、この十字架を仰ぎ見て生きると決断することであり、教会が教会らしくあるということは、この十字架の精神ですべての働きと生活の優先順位を再び整えることにかかっている。十字架の前に立つ私たちは、もはや兵士のようにくじを引いて些細な所有を争ったり、権力者のように政治的損得を勘定したりはしない。私たちは神の愛にとらえられ、主がその血によって買い取られた魂たちを尊く思い、痛みの中でも主を見放さない者となる。 張ダビデ牧師の教えによれば、十字架の出来事は教会と信徒の「霊的出発点」であり、同時に「継続的帰依点」でもある。出発点とは、私たちがイエスの死によって罪赦され、救われたからであり、継続的帰依点とは、日々自分を捨ててイエスの道を歩もうと決意しながらもしばしば失敗する私たちを、再び立ち上がらせる力が十字架のうちにあるからである。世はいまだに強盗や貪欲な兵士たちであふれ、自称王を名乗る者たちが跋扈している。しかしイエスが示された贖いの愛は、今も生きて働き、罪人たちを救いの場へと導いておられる。 ゆえに教会は十字架中心へと立ち戻り、この愛を宣言し、自ら実践し、復活の希望を失わない共同体であるべきだ。イエスがローマ兵の手によって奪われた「あの一続きに織られた服」は、ある意味、すでに裂かれたイエスの身体を象徴しているともいえる。主の身体が裂かれ血を流されたからこそ、私たちは救いにあずかることができるのだ。この事実の前で、教会はもはや自分のために何かをつかもうとすることはできない。主がすべてを与えてくださったなら、私たちもまた喜んで分かち合い、献身し、愛するのが当然である。 張ダビデ牧師によると、十字架の出来事を通した教会の霊的成熟は、大きく二つの軸に集約される。第一に、イエスの徹底的な犠牲が私たちの罪をあがなったという事実を信じる「恵み」の次元。ここでは私たちはもはや罪悪感や無力感に縛られることなく、自由と喜びをもって礼拝し仕えることができる。第二に、その恵みが私たちをして世の中で「十字架の愛」を実践させる「弟子道」の次元である。恵みを受けた者は、結局、自分も誰かに恵みを流し出さなければならないことを悟る。それこそが教会の本質的な使命だ。 このように十字架の出来事は、私たちの信仰をしっかりと支え、教会が世のただ中でどのような価値観をもって生きるべきかを明確に指し示す。張ダビデ牧師は、十字架に含まれたこの重大なメッセージを見失わないよう、日々黙想し、実践していくことを強調する。そうするとき、教会は単なる宗教組織以上の存在意義をもつようになり、現実に世の中を癒し、生かす神の力の通路となる。イエスが強盗たちの間で弁明ひとつせず死なれたあの場面が示す衝撃的な愛、そして最後に残った服さえも奪われて初めて完成した救いの歴史こそ、今日も私たちを回復させ、新たに生まれ変わらせる福音の源泉なのである。 http://www.davidjang.org

    4월 8, 2025
  • The Cross and Salvation – Pastor David Jang

    1. Jesus Christ on the Cross The event of Jesus Christ’s crucifixion is the core of Christian faith and its most climactic moment. In John 19:18 and the following verses, we find a vivid account of Jesus ascending Golgotha, being crucified alongside two thieves, and undergoing excruciating suffering. According to the text, Jesus is nailed…

    4월 8, 2025
  • La Cruz y la Salvación – Pastor David Jang

    1. Jesús el Cristo crucificado El evento de la cruz de Jesucristo puede considerarse el centro y el punto culminante de la fe cristiana. El pasaje que comienza en Juan 19:18 describe con detalle cómo Jesús fue llevado al monte Gólgota, clavado en la cruz junto a dos ladrones y sometido a un sufrimiento atroz.…

    4월 8, 2025
  • 십자가와 구원 – 장재형목사

    1. 십자가에 달리신 예수 그리스도 예수 그리스도의 십자가 사건은 기독교 신앙의 중심이자 가장 절정에 이르는 장면이라고 할 수 있다. 요한복음 19장 18절부터 이어지는 본문은 예수님께서 골고다 언덕에 오르셔서, 두 강도와 함께 십자가에 못 박히시고 처절하게 고통당하시는 모습을 구체적으로 전해준다. 본문에 따르면 예수님은 ‘가운데’ 십자가에 달리셨는데, 이는 예수님이 세상 죄인들 한가운데서 그들의 죄를 대신 지고 죽으시는 구속 사역을 가장 극명하게 드러낸다. 강도들 사이에 놓이신 예수님의 모습은…

    4월 8, 2025
  • Acceptez-vous mutuellement – Pasteur David Jang

    1. Diversité des perspectives dans l’Église et l’exhortation de l’apôtre : « Ne jugez pas votre frère » Le chapitre 14 de l’Épître aux Romains est un texte essentiel qui montre de manière concrète comment vivre ensemble dans la communauté chrétienne lorsque s’y rencontrent des personnes aux opinions et points de vue différents. Dans ce…

    3월 20, 2025
  • 彼此接纳—张大卫牧师

    1. 教会内部的多元观点与使徒“不要批评弟兄”的劝勉 罗马书第14章是一个极其重要的经文段落,它以十分实际的方式告诉我们:在基督的群体中,当信徒们面对不同的观点和看法时,究竟应当如何生活。保罗在罗马教会的背景下提出了“不要彼此批评,而要在主里彼此接纳”的基调信息。特别是在本章(14:1-12)里,他劝勉信徒“不要批评那软弱的弟兄”,这既是为了克服初代教会内部冲突所给予的使徒性智慧与爱心的教导,同时也是历代教会一直反复强调的重要主题;如今,这一教训在当代教会中同样适用。张大卫牧师也以保罗的教导为根基,多次强调教会内外各种冲突都应当用福音精神去化解。现代教会虽然常常口口声声谈“合一”,却仍难免经历各式大大小小的纷争。在这种情形下,“彼此不批评而接纳对方”依然是摆在我们面前的核心课题。 保罗在罗马教会内部明确指出了两个群体:一个是“软弱的人”,另一个是“刚强的人”。他并没有用“犹太裔信徒”和“外邦裔信徒”这样的民族区分来称呼他们,而是按照信心的程度,称前者为“软弱的人”,后者为“刚强的人”。那些被称为软弱的,即“信心软弱的人”,是严守律法或食品规条的人;相反地,被称为刚强的人,则是在福音的自由里能够更广泛地享受,不被某些饮食规条或特定节日的区别所捆绑。两者之间的冲突,最初就源自“吃的事”以及“如何守节期”的问题。出身犹太背景的信徒因为要遵守洁净条例,拒绝吃某些他们认为不洁净的肉,过着严谨的生活方式,保罗将他们视为“软弱者”。而出身于外邦的信徒们则不在意是否曾是祭祀偶像的食物,甚至也可以吃猪肉等各类食品,自由度更高。保罗将这样的群体视为“刚强者”。 然而,在这背后,保罗蕴含了他深邃的神学思考。保罗多次强调:在享受自由的同时,若不顾及他人的良心或信心,那么这种自由反倒会成为罪。这与张大卫牧师所传扬的福音精神十分契合。福音确实给予我们“自由”的奇妙礼物,但这自由需要透过爱而加以限制;若为了他人的益处,我们也要学会在必要时节制自己的自由。最终,保罗指示“刚强者”和“软弱者”都不要只坚持“自己对”,而是要在理解和尊重彼此差异的基础上,一同建造基督的身体。这才是真正所有信徒所应当追求的福音性合一的图景。 在罗马书14章1节,保罗说:“信心软弱的,你们要接纳,但不要辩论所疑惑的事。”(可意译为“不要因为他的见解而批评他”)。这是在教会内部发生冲突时,保罗对“刚强者”所提出的直接教导。他在14章2节继续解释道:“有人信什么都可以吃;但那软弱的,只吃蔬菜。”他看到了双方并存的现实,并在第6节指出:关键是这两类人都是“为主”而行:吃的人是为主而吃,不吃的人是为主而不吃。也就是说,是否遵守某些饮食规条或节日,并不能成为衡量信仰本质的绝对标准。保守传统有时会认定“只有自己才是在坚守真正的信仰”,而自由派传统又常常认为“只有自己才是在福音中享受真正正确的自由”。保罗却提醒我们:倘若双方都承认自己的行动是“为主”,那就不可轻易判断对错。到底谁才更“强”,谁更“弱”,唯有主才能完全鉴别。正如保罗在第4节所质问的:“你是谁,竟敢论断别人的仆人呢?”我们都是主的仆人,仆人岂能彼此审判? 张大卫牧师也在许多讲道及演讲中反复强调,“唯有上帝才是审判者”。一旦教会用世俗的眼光去衡量“谁对、谁信心更好”,便会偏离福音的本质。只有当我们用接纳代替批评,用爱代替猜疑时,教会中才会真正充满“和平、喜乐与公义”。主耶稣在登山宝训中所说:“你们不要论断人,免得你们被论断”(太7:1-2)这句教训,同样成为教会内部化解冲突的核心准则。在这一准则中,保罗劝勉信徒们要“一切都在主里行事”,且要谨防因自己的自由或行为而使弟兄跌倒。尤其在哥林多前书第8章与第10章,保罗反复论及“食物是否是从偶像祭祀而来”等类似问题,他视“自己是否享有自由”远不及“弟兄的信心会否被损害”更为重要。与其在基督的群体中制造纷争,不如求和睦、行爱心,这才是应当做的选择。 若将这一教训应用到当今教会,有许多类似的问题就浮现出来:比如敬拜音乐风格的差异、洗礼与圣餐礼的具体形式、对某些节日守与不守的争议等等。很多时候,这些都属于“adiaphora”(中性之事),即无法绝对断定为对或错的领域。保罗提醒教会,应当先思考:“在上帝的眼中,这是否涉及信仰核心?”如果不牵涉到永生或赦罪这样核心的福音教义,那么就当彼此尊重、彼此接纳。并且,若这些差异会让某些人“起疑惑”或“信心动摇”,刚强的那一方则应该甘心放下自己的自由。真正能结出“和睦与造就”的果实,就来自于“不批评弟兄”的心态。如果有人对某些事情心存疑惑或不安,若我们还带着轻蔑或指责的态度看待他们,反而会破坏教会的合一。保罗在14章8节通过“我们若活着,是为主而活;若死了,也是为主而死”这一宣告,再次阐明:我们全都是在上帝手中被托付的仆人,无论如何,不可彼此蔑视或轻易论断。 由此可见,罗马书14章1-12节里所展现的保罗教导,以及耶稣在登山宝训中对弟兄“拉加”(意为“无用的人”)的严厉训诫(太5:22)、“不要论断人,免得你们被论断”(太7:1-2)的教导,都是教会必须遵守的基石。张大卫牧师也在多次讲道中指出:若教会内“论断与批评”的文化一直存在,则任何革新或复兴都难以指望。他号召信徒铭记主耶稣对我们的接纳之爱,并实践“和睦”,因为一个缺乏爱与和睦的环境往往意味着信仰本质已经被稀释。他也多次强调:教会并不容易被外部的逼迫或打压所摧毁,却很容易在内部的相互论断与分裂中自行倒塌。保罗与张大卫牧师的信息在此不谋而合。 罗马书14章也在某种意义上反映出教会要包容多少不同的传统与文化。犹太人或许会看重自己民族的节期,而外邦人看重自己文化中的日子。但保罗并不刻意偏向某一方,反而提供了能够包容双方的视角:“守日的人是为主守;不守日的人也是为主不守。”(参罗14:6)也就是说,关键不在于“守与不守”,而在于“为了谁”。教会必须以宽广的心去接纳这种多元性,同时又要持定“唯一的福音”,在爱里实现真正的合一。这并非彼此批评或轻视,而是互相认识到对方的不足并一同前行,这正是上帝国度的缩影。 2. 为不使弟兄跌倒所应当付诸的信仰实践与爱的限制 在罗马书14章13-23节中,保罗强调的第二个要点是“不让弟兄绊倒”。14章1-12节提到要“彼此接纳、不彼此批评”,在13-23节则更加具体地告诉我们:当我行使某种自由时,是否会成为他人信仰的绊脚石?保罗在14章13节说:“你们不要再彼此论断;宁可定意,谁也不给弟兄放下绊脚跌人之物。”也就是说,即使某些行为在我看来并无问题,但如果对他人造成损害,我们仍要谨慎,甚至愿意放下自己的自由,这才是真正的爱心。 这里保罗提到的重要概念之一,便是“adiaphora”。这是指某种行为并不在“绝对善或绝对恶”的范畴里,而是一种价值中立的事情。在教会历史上,信徒们对于礼拜形式、音乐风格、着装规范、文化习俗等无数问题都有过争论。有些传统强调严格、有些传统强调自由,他们其实都在追求福音的价值,只是方法不同。在这一点上,保罗教导说:“我凭着主耶稣确信,凡物本来没有不洁净的;惟独在人以为不洁净的,在他就不洁净了。”(罗14:14)也就是说,吃某种食物本身并不是罪,可若有人将其看成罪,而我们还非要迫使他接受、或嘲讽他的想法,就等于是犯罪。 张大卫牧师在讲解这一段时,常常引用“爱会限制自由”这一主题。对某些人而言,某种事并没有什么问题,但对另一些人而言却可能成为良心上的绊脚石。在爱中行事的人,不会用“这事本来没问题,大家一起随便享用就好”去强迫别人;相反,他会说:“如果对方真的感到不安或有所排斥,我宁愿放下这方面的自由来体恤他。”在哥林多前书第8章,保罗甚至说:“若我若叫弟兄跌倒,我就永远不吃肉。”(林前8:13)这看似极端,但却反映了保罗所领会的福音性自治:福音不是教我们将“个人自由”放在至高无上的位置,而是教我们“更看重如何保全弟兄的信心”。若某种权利或自由会损害弟兄的信心,保罗宁愿放弃。 在罗马书14章15节,保罗也提到:“你若因食物叫弟兄忧愁,就不是按着爱行事。”接着说:“不要用你的食物使那为基督死的人沉沦。”这段话充分展现了这一真理:过度坚持“我喜好什么、我想做什么”,而不顾他人的感受和良心,会导致“基督用生命换回的弟兄因我们而灭亡”。让弟兄跌倒,与使基督的牺牲成为徒然,几乎没有区别。所以在教会中,“刚强”的人更当顾及“软弱”的人的需要。保罗将“刚强”并非理解为“更属灵”,而是指“在福音自由的运用上更宽广”。但这自由不可滥用。例如,当有人认为“不能吃猪肉”,我们不可强迫他“这是没有罪的,你就吃吧”,否则这就可能成为让他跌倒的绊脚石。真正的爱从“先察觉对方的感受”并“帮助他坚固信心”开始。 那在当代教会又该如何应用?教会中总有不同的喜好、性格、信仰背景。对某些人来说,某种敬拜形式或文化表达方式并无任何不妥;但对另一些人来说,却可能引发强烈不适感。虽然双方都觉得自己是在“为主”而行动,但冲突还是随时可能产生。在这种状况下,“为了教会的秩序与和睦,是否愿意限制自己的自由?”就成为了极其重要的问题。保罗在罗马书14章19节说:“所以,我们务要追求和睦的事与彼此建立德行的事。”换言之,信徒要努力寻求能带来和睦、彼此造就的途径,而非挑起争端。教会的本质是为了扩展神的国度,成为一个身体一起服事,而不应在“吃什么、喝什么”之类的问题上自相纷争。 “神的国不在乎吃喝,只在乎公义、和平、并圣灵中的喜乐。”(罗14:17)这句话可谓直指问题核心:若教会因吃喝或节期等次要问题而失去合一,就违背了神国“公义、和平、喜乐”的本质。张大卫牧师在此常常强调“我们当追求的是真正的‘沙龙’(shalom)”。上帝国度的本质就是公义、和平和喜乐,若教会内部因饮食习惯或制度争吵不休,彼此埋怨、批判,就已远离神的国度本性。因此,保罗在罗马书14章反复强调,即使我们所行之事在本质上是无可厚非的,只要有可能让某些弟兄绊倒,就要谨慎处理。救恩核心并不在“吃与不吃”上,爱才是超越一切知识的高峰。正如保罗在哥林多前书中所言:“凡事都可行,但不都是造就人。”(林前10:23)这真理值得我们时刻谨记。 特别是14章20-21节里,保罗说:“无论是吃肉,是喝酒,是什么别的事,叫弟兄跌倒,一概不做才好。”借此保罗明确指出:基督徒的自由本身是好的,但还有更高的善——“弟兄的救恩和喜乐”。为此,保罗鼓励那些“刚强”的人若必要,可以暂时放弃自己享有的自由。最后在14章23节总结道:“若有疑心而吃的,就必有罪,因为他吃不是出于信心;凡不出于信心的都是罪。”保罗强调了“信心”与“良心”的关键地位。既要顾及自己行事时有没有良心不安,也要顾及他人的良心是否因此受损。若别人的信心因此受挫,我们就当停下来。基督的爱不仅是个人的,也应当用来建造整个教会群体。 这种爱与责任,是教会特有的伦理实践。世人或许会说:“我为何要顾及别人?各管各的好了。”但教会却宣告:“圣徒不止是为自己而活,也当彼此守望。”张大卫牧师在很多演讲中把这称为“十字架群体意识”。耶稣基督因为爱我们,甘愿舍己牺牲;同样,教会若牢记这份爱,就应当体现出愿意为彼此付出、甚至让自己受损也要帮助对方的精神。尤其在初代教会中,外邦文化与旧约律法之间冲突很大,这正是当代处于多元文化时代的教会可以学习的案例:当教会中交织着不同的灵命层次、文化背景和宗派传统,我们仍要彼此接纳,并在追求福音本质的同时共同成长。此过程中最不可或缺的,正是“因为爱而限制自由”的态度。 3. 倡导群体性的服事,并用宽广胸怀接纳外邦人的最后劝勉 罗马书15章1-13节可以视为保罗对第14章主题的进一步延展。15章1节写道:“我们坚固的人,应当担代不坚固人的软弱,不求自己的喜悦。”这是“彼此担当重担”的呼召,也是在教导基督的爱如何具体地转化为相互服事。为打破教会中因文化或传统差异而产生的相互怀疑、批评和排斥,保罗明确表示,要“彼此帮助、彼此建立”。张大卫牧师也始终强调:优先去照顾“软弱者”是教会与世俗截然不同的特质;若教会开始排斥或定罪软弱者,那么基督的教训就彻底失色了。耶稣尚且不求自己的益处,甘愿为罪人死在十字架上,我们岂能不效法祂,付出爱心去造就别人呢?这是保罗神学的根基所在。 在15章4节以后,保罗论及:“从前所写的圣经都是为教训我们写的,叫我们因圣经所生的忍耐和安慰,可以得着盼望。”接着在5-6节说:“但愿赐忍耐安慰的上帝,使你们彼此同心,效法基督耶稣,一心一口荣耀上帝——我们主耶稣基督的父!”此处可见保罗渴望教会能够“同心合意、一口同声”地赞美上帝,即便在分歧与冲突并存之时,也依然能合一地赞美神,这是初代教会的目标,也是现代教会共同的热切期望。保罗的祷告跨越时空,成为所有时代教会的愿景。 15章7节之后关于“用宽广的心接纳外邦人”的教导,则可视为保罗在此段劝勉中的结论:“所以你们要彼此接纳,如同基督接纳你们一样,使荣耀归于上帝。”(罗15:7)当时教会内部最大的问题,莫过于犹太人与外邦人的冲突。犹太人自恃自己承受了律法的传统,认为自己是“选民”;而外邦人则对律法传统心存排斥,认为那是“不必要的束缚”。这是保罗在其事工期间屡次遇到的实际冲突,也是初代教会普遍的重大议题。即便如此,保罗还是不断地在以弗所书、加拉太书、腓立比书等多封书信中强调:“如今不再有分别,你们在基督里都成为新造的人。”在罗马书中也是同样的话题:不要否定外邦人,也不要弃绝犹太人,而是彼此敞开心怀,互相接纳。 这背后,体现了保罗对旧约应许及其成全的神学理解。先知们曾经预言:神的荣耀不止停留在以色列境内,而要扩展到地极。藉由耶稣基督,这应许得以成全——神的救恩不再局限于犹太人,而是要临到外邦人。因此,保罗引用了多处旧约经文(诗篇、申命记、以赛亚书等),阐明“犹太人和外邦人一同得救,是神的计划”,从而说明教会不要排外,而应当让福音广传、使各民各族都因基督同得荣耀。保罗说:“但愿那赐盼望的神,因信将诸般的喜乐和平安充满你们,使你们藉着圣灵的能力大有盼望。”(罗15:13)这番话表明,福音不只是个人层面的,更是关乎教会整体、甚至影响全世界的盼望。若要让这盼望延伸至万邦,教会就必须具备“敞开大门接纳他人”的度量。 张大卫牧师也在此基础上,进一步指出当代教会应当具有的责任:教会理应成为一个能容纳不同种族、语言和文化的地方。若教会只用某种特定文化或民族或社会阶层的标准来衡量一切,便会阻碍福音“合一”与“包容”的大能。故此,牧师常常提醒教会去思考:“即便让我们感到不便或有冲突,也能否为使别人得益处而努力呢?”这与保罗在15章2节所言“我们各人务要叫邻舍喜悦,使他得益处,被建立德行”如出一辙。也就是说,假如外邦文化背景的信徒涌入教会时,本地信徒可能会对他们的语言或习惯感到陌生;反过来,那些外邦文化背景的信徒也会觉得传统教会的规矩很难适应。但教会必须要做的,是在基督里将二者合一,彼此接纳,视为同属一个身体。 罗马书15章的讯息,也可谓贯穿保罗书信整体的核心主题之一:福音的普世性。福音是向全世界宣告神的恩典,过去被割裂的“我与他”“犹太人与外邦人”“刚强者与软弱者”“保守与进步”都要在基督里联结成“一”。这并不是只追求外在形式上的统一,而是让我们真正将对方视为同为弟兄姊妹,尊重彼此的不同,并建造一个“同作一体”的合一群体。保罗深知,这种合一的历程并非一帆风顺,肯定会出现摩擦与冲突。然而,只要让福音之光照耀这些争端,教会便能在过程中日益成熟,见证真正的合一。 张大卫牧师经常引用耶稣在约翰福音17章的“大祭司祷告”来诠释这一点。在耶稣被钉十字架前夜,祂恳切地祷告:“父啊,求你使他们合而为一,正如你在我里面,我在你里面一样。”(参约17:21)若教会真的摆脱了彼此的分争和对立,而能反映出这种“合而为一”的景象,世人将会因此将荣耀归给神。相反,若教会始终陷于内部的论断与分裂中,世人就会质疑并讥讽:“你们自己尚且不能合一,又怎样传讲福音?”保罗在罗马书14章16节警戒信徒:“不可叫你的善被人毁谤。”换言之,我们不要给教会外的人提供批评教会的口实。这在两千年前已是当务之急,放在今天依然亟待我们警醒。 总而言之,保罗在罗马书14-15章所展开的教导,对于当今教会仍是至关重要的指引。首先,对于教会内部因不同信仰背景或文化而产生的分歧,保罗劝戒:“不要彼此批评,刚强者不可轻视软弱者,软弱者也不可猜疑刚强者。”其次,基督徒虽享有“自由”,却要在必要时为爱而有所节制,免得他人的信心受损,自己就不再行在爱里。第三,教会应当效法基督的谦卑与牺牲,彼此背负对方的软弱,并进一步以广阔的胸襟接纳外邦人,如此才能彰显神的荣耀。张大卫牧师将这些视为“超越时代的福音根基”,并认为这是教会不断革新、回归本质时必须反复思考的重大课题。 从这些教导中我们也可想象,罗马书14-15章中所描绘的教会图景,仿佛一片宽广的草原,不同种类的动物在其中和谐共存。狮子虽是猛兽,但若自身受内在病痛摧残,也无力捕猎。同理,教会并非只会被外部逼迫或攻击打倒,更多时候是被内部的冲突与批评所瓦解。故此,当我们面对“与我不同”的人,或“看起来软弱”的人,不要论断或排斥,反而要选择保护、扶持彼此,如此才能保证教会健康运行。“公义、和平、喜乐”也会在其中扎根。这样的教会,正是上帝乐意透过它,将福音扩展到世界各地的器皿。 张大卫牧师常在讲道中举一个家庭的例子:当孩子们彼此争吵时,父母会介入调停,因为两个孩子都是父母的宝贝。父母不会只偏袒一方,而是希望兄弟姐妹能彼此和解、彼此理解。教会也是如此:神对我们所有人说:“你们都是我的儿女,岂可彼此批评或轻视?务要彼此尊重。”这样的实践正是效法主耶稣的生命,归荣耀给神。当我们把罗马书14章和15章的原则超越“饮食规条、节期守护”这些层面,放到如今教会中仍数不胜数的宗派之争、文化冲突、世代差异等问题上时,我们就会发现,这并非过时的古代训示,而恰恰是当下更迫切需要遵循的生命法则。“彼此接纳”的保罗命令在现代依然大有必要。 最后在罗马书15章13节,保罗祝愿说:“但愿使人有盼望的神,因信将诸般的喜乐和平安充满你们,使你们借着圣灵的能力大有盼望。”基督徒的人生并非逃避冲突,也并非一味妥协,而是在福音大能里去化解、融汇各种冲突,最终收获丰盛的喜乐与平安。若教会失去了这份喜乐和平安,多半是因为在内部潜藏着“批评、猜疑、轻视”的文化。反之,当我们认真践行保罗的劝诫,践行张大卫牧师所反复宣讲的“彼此相爱、互相接纳”,教会就会真正活出“多元统一”(unity in diversity)的魅力。这样的教会必然能够激发世人对神的敬畏与赞美,也会使失丧的人重拾希望、谦卑在福音面前。因为教会若不追求自我实现,而是甘心放下自己的自由去成全他人,那么世人会在教会里看见和好与医治之光。 无论是两千年前保罗所处的时代,还是我们当下的处境,福音的核心要求始终如一:不要批评弟兄,而要彼此接纳;在享受自由之时,也要用爱心防止他人跌倒;更当顾念软弱者,接纳外邦客旅,这样才能体现出教会与世俗截然不同的神圣。在“我们都要站在神的审判台前”(罗14:10)的警示下,真正让教会尝到“公义、和平与喜乐”的,并不是选择分裂和论断,而是选择彼此接纳,并共同享受福音带来的喜乐。当我们循着保罗与张大卫牧师的教导,努力活出彼此相爱、互相接纳的见证时,教会便能包容形形色色的传统与文化,在多元中达成合一。如此,世人便会因教会的荣美,归荣耀给神,更多的失丧之人也会在福音前屈膝投靠。若教会能够忍痛限制自身的自由,从而建立起彼此成全的关系,那么世界就会透过教会,看见那真正的和解与医治之光。 综上所述,罗马书14-15章为教会应当何等面貌、信徒彼此应当如何相处提供了一个永恒的范式:当“软弱者”与“刚强者”之间存在差异时,要超越这种差异,同行于主所赐的道路。保罗通过此段经文再次强调,比起任何理论化的教义,福音之爱的实践更为关键。当我们摒弃批评与轻视,选择接纳与相爱时,就会带来教会内部的“沙龙”。也只有如此,我们才能真正活出基督借十字架成就的和睦,让上帝的拯救既临到犹太人,也同样临到外邦人。对当今的教会而言,当务之急正是恢复这样的“彼此接纳”和“和睦”。张大卫牧师在各处也反复印证:这是福音的中心,更是所有事工的起点与终点。 因此,从罗马书14章“不要彼此批评,要在主里彼此接纳”的大原则,到14章后段“不可叫弟兄绊倒”的具体劝诫,再到15章延伸出“服事软弱者、敞开怀抱接纳外邦人”的终极呼吁,都是教会共同体不可忽略的生命态度。信仰生活里,冲突不可避免,但福音精神绝不支持彼此削弱、相互对立;相反,它指引我们建立一个彼此服事、彼此成全的关系网络。这也是新约圣经多处描绘的教会原本的样式。我们若铭记保罗的教导,并让其在当代重现其影响力,相信教会在面对当今的多元与冲突时,定能在主里达成美好的合一。透过这样的实践,连外邦人也会“看见神真在你们中间”,不由自主地归荣耀给神。当教会不再仅仅追求个人的目标,而是甘心为成全彼此的信心而节制自己的自由,世界便可因教会而看见和睦与医治的曙光。 正如2000年前保罗所处境遇与我们如今的差异虽大,但福音所要求的根本精神始终如一:用接纳代替论断;在享受自由时,不妨碍他人;更要关怀软弱,并接纳外人。这才是真正“分辨我们都要站在神面前”的生活态度。唯有在彼此接纳、共享福音之喜乐时,教会才能真正经历“公义、和平与喜乐”。这也是张大卫牧师在众多讲道与教导里反复提及的核心重点:当教会实践彼此接纳时,福音才会透过教会在世上大放光芒。愿我们都能时刻谨记并活出这一宝贵真理。阿们。 www.davidjang.org

    3월 20, 2025
  • 互いに受け入れなさい – 張ダビデ牧師

    1. 教会内の多様な観点と「兄弟を批判するな」という使徒の勧め ローマ書14章は、キリストの共同体の中で互いに異なる視点や見解を持つ人々が対面する際、具体的にどのように生きるべきかを示す重要な本文である。パウロはローマ教会の信徒たちに「互いを批判せず、主にあって受け入れなさい」というメッセージの基調を語っている。特に本文(14:1-12)を通じて「信仰の弱い者を批判するな」と勧めるが、これは初代教会内に存在した葛藤を克服するための、使徒の実践的な知恵と愛に満ちた教えでもある。この教えは教会史を通して何度も繰り返し重要視されており、現代の教会共同体においても同様に適用可能だといえる。張ダビデ牧師もこうしたパウロの教えを基盤に、教会の内外で起こるさまざまな葛藤を福音の精神によって解消すべきだと強調してきた。今日の教会が「和合と一致」を唱えながらも、実際には大小さまざまな分裂を経験している状況にあって、「互いを批判せず受け入れる姿勢」は依然として重要な課題として残されている。 パウロはローマ教会の中に二つのグループを指摘する。一つは「弱い者」であり、もう一つは「強い者」である。パウロはこの二つを「ユダヤ人出身の信者」と「異邦人出身の信者」という民族的区別ではなく、あくまで信仰のレベルに応じて「弱い者」と「強い者」と呼んでいる。弱い者、すなわち信仰が弱いとされる者は、律法や食物規定を厳格に守る人々であった。一方、強い者と呼ばれた人々は福音の自由をより広く享受し、特定の食物規定や特定の日の区別に縛られなかった。両グループ間の葛藤は食べる問題と祭日を守る問題から生じていた。ユダヤ人出身の信者たちは清浄法を守るため、不浄だと見なされる肉を避けていたが、そうした厳格な生活態度をとる者たちをパウロは「弱い者」と呼んだ。一方、異邦人出身の信者たちは、偶像にささげられた食物や豚肉のようなものまで自由に食べ飲んでいた。パウロはそうした自由を享受する側を「強い者」と呼んだのである。 しかし、この分類にはパウロの深い神学が内包されている。パウロは自由を享受しながらも、他者の良心や信仰を配慮しないなら、その自由がむしろ罪になり得ることを常に強調した。これは張ダビデ牧師が説く福音の精神とも結びついている。福音は「自由」という驚くべき賜物を与えるが、その自由は愛によって制限されねばならない。他者の益のためなら、時にその自由を節制することも必要である。結局、パウロは「強い者」と「弱い者」いずれも、ただ自分が正しいと主張するのではなく、互いの違いを理解し尊重することでキリストの体である教会を築いていくべきだと教える。それこそが究極的に全ての聖徒が目指すべき福音的一致の姿なのである。 ローマ書14章1節でパウロは「信仰の弱い人をあなたがたが受け入れるとき、その意見を批判してはならない」と述べて始める。これは実際に教会内で葛藤が生じる際、「強い者」が取るべき態度を直接示した言葉といえる。パウロは「ある人は何でも食べられるだけの信仰があるが、信仰の弱い者は野菜だけを食べている(2節)」と言い、両者がともに共存する現状を直視する。ここで重要なのは、パウロが両者とも「主のために」食べ、また「主のために」食べないと説明している点である(6節)。つまり、特定の食物規定や祭日を守るか否かが、究極的に信仰の本質を決めるものではないという意味だ。保守的伝統に属する人々は「自分こそが真の信仰を守っている」と思い込みがちであり、自由主義的伝統に属する人々は「自分こそが福音において正しい自由を享受している」と考えがちだ。しかしパウロは、両者とも自分の進む方向が「神のため」であると告白するならば、軽々しく断定し合うべきではないと言う。信仰の強さや弱さという区別は、唯一主だけが完璧に知り得るものであるからだ。「他人のしもべを裁くあなたは何者か(4節)」という言葉は、この点を端的に示す。人間は皆主の僕である以上、僕同士が互いを裁くことはできないという論理である。 張ダビデ牧師もさまざまな説教や講演を通して、「裁きを行う方はただ神おひとり」という点を何度も強調してきた。教会が世間の目線で「誰が正しいか、誰がより信仰深いか」を判断し始めるとき、すでに福音の本質から大きく逸脱した姿に陥りやすい。批判ではなく受容を、疑いではなく愛をもって互いに接するとき、初めて教会の中に「平和と喜びと義」が満ちあふれる。イエスが言われた「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれない(マタイ7:1-2)」という教訓は、教会共同体の内部葛藤を解決する上での核心的基準にならざるを得ない。その基準において、パウロは全てを「主のもとで行うが、それによって兄弟をつまずかせないよう気をつけよ」と勧める。特にコリント第一の手紙8章および10章に繰り返し登場する食物に関する議論、すなわち偶像にささげられた犠牲の問題において、パウロは自分の自由よりむしろ他者の信仰が損なわれる可能性を重く見ていた。キリストの共同体の中に紛争や葛藤を引き起こすよりは、互いに和睦を図り愛を実践する方を選ぶべきだというのである。 これを教会現場にそのまま適用してみると、たとえば今日、礼拝音楽スタイルの相違、洗礼や聖餐式の方法の違い、あるいは特定の祝祭日の順守の可否などは「アディアフォラ(adiaphora)」—絶対的に正邪を区別しづらい領域—に属することが多い。パウロは教会内で起こるこうしたさまざまな葛藤に際し、「それは神の御前に本質的問題なのか?」を基準にせよと語る。もしそれが永遠のいのちや罪の赦しに直接結びつく核心教理でないのであれば、互いに認め合い、愛で包みつつも、もし相手が「疑念を抱く」あるいは「信仰が崩れる」可能性があるならば、喜んで自分の自由を制限すべきだと説く。結局、これほどまでに強調される「平和と徳」という実りは、兄弟を批判しない姿勢から始まる。誰かを疑い、見下す態度は教会共同体の一致を妨害する。パウロは「生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のもの」(14:8)という告白を通して、互いが神の手の中にある存在である以上、みだりに判断したり軽蔑したりできないという、明白な事実を示している。 このように、ローマ書14章1-12節に展開されるパウロの教え、そしてイエスが山上の説教で「兄弟に向かって『愚か者』という者は公会に引き渡され…」(マタイ5:22)と語られた厳粛な御言葉や、「人を裁くな。そうすれば裁かれない」(マタイ7:1-2)という御言葉は、教会内で必ず守られるべき基礎である。張ダビデ牧師は、多くの説教でまさにこの教会内の「定罪と批判の文化」が克服されなければ、いかなる刷新やリバイバルも期待しがたいと指摘する。イエスが私たちに示してくださった受容の愛を覚えているなら、キリスト者は必ず「和睦」を成し遂げなければならないと説き続けるのである。実際、愛と和睦が崩れた現場こそ、信仰の本質が曖昧になった現場であることを、彼はたびたび強調する。結局、教会は外部からの迫害や抑圧によって倒れるよりも、内部で互いを批判し分裂するとき、はるかに容易く崩れてしまう。これはパウロのメッセージと張ダビデ牧師のメッセージが通じ合う点である。 ローマ書14章の御言葉は、逆説的に教会がどれほど多様な伝統や文化を包摂すべきかを示している。ユダヤ人たちはユダヤ人の祝祭日を守り、異邦人たちは自分たちの文化にふさわしい祝祭日を重んじる場合もあるが、パウロはそのどちらの側にも立たず、両者を網羅する視点を提示する。「ある人が日を重んじるのも主のためであり、日を重んじない人も主のためである(14:6参照)」というように、大切なのは「その行為の動機が誰に向かっているのか」に懸かっていると説明するのである。教会はこうした多様性を広い心で受け入れつつも、一つの福音をしっかり握りしめ、愛のうちに一つになる知恵を学ばなければならない。兄弟同士での批判や軽視ではなく、互いの足りなさを認め合いながら共に進むプロセスこそが、神の国の縮図である。 2. 兄弟をつまずかせないための信仰的実践と愛による制限 パウロがローマ書14章13-23節で次に強調するのは「兄弟をつまずかせるな」という点である。1-12節では互いに批判せず受け入れるように説いたが、ここからはさらに具体的に、「自分が行う自由な行動が、他者の信仰をつまずかせてはいないか」を吟味せよという実践的な勧めが続く。パウロは13節で「兄弟の前に障害やつまずきとなるものを置かないよう注意しなさい」と言う。これは食生活や祭日順守などにおいて「たとえ自分に許された自由があっても」、それが他の人々に害を及ぼすなら、それを慎むことこそ真の愛であるという観点である。 ここでパウロが語る最も重要な概念の一つが「アディアフォラ(adiaphora)」である。これは、ある行為が「本質的に善でも悪でもない」、言い換えれば絶対的に正しいとも誤りとも断定しにくい価値中立的領域を指す。教会史の中で信徒たちは数えきれないほど多くの問題—礼拝の具体的な形式、音楽スタイル、服装規定、文化的習慣など—について議論を重ねてきた。ある伝統は厳格さを強調し、別の伝統は自由を強調したが、両者とも福音的価値を追求しながらも、その方法論において違いを見せたのである。まさにその点でパウロは「何でもそれ自体で汚れたものはないが、それを汚れたものと考える人にとっては汚れたものなのだ(14節)」と語っている。つまり、本質的には食物を食べる行為自体が罪になるわけではないが、それを罪だと認識している人に、強要するように食べさせたり、逆に批判してしまえば、それが罪になる可能性があるという論理である。 張ダビデ牧師は、この箇所を説教する際、「愛は自由を制限する」という主題を好んで取り上げる。ある人にとっては何でもないことが、また別の人にとっては信仰上のつまずきになり得る。であれば、愛する心を持った者は「それは全く問題ではないから、ともに楽しもう」と無理強いするのではなく、「その人に不安や不快感があるなら、進んで自分の自由を制限してでも配慮しよう」と決断すべきだということだ。パウロはコリント第一の手紙8章でも「もし私の食べる肉が兄弟をつまずかせるなら、私はその人がつまずかないよう一生肉を食べない(13節)」と宣言している。これは極端な例示のようにも見えるが、実際パウロが悟った福音的自律性とは「自分の自由を最優先にする在り方」ではなかった。「兄弟を生かす在り方」の方がさらに重要であるため、自分に与えられたどんな権利や自由も、兄弟の信仰を損なう恐れがあれば、喜んで手放そうとしたのである。 ローマ書14章15節で「もしあなたの食べ物のために兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって行動していない。キリストがそのために死なれた兄弟を、あなたの食べ物で滅ぼしてはならない」と語るのは、この文脈を劇的に示している。自分の好みや立場を最後まで主張して兄弟を悲しませ、つまずかせることは、キリストがいのちを惜しまず捧げられた兄弟を滅ぼす結果を招きかねないという警告である。兄弟をつまずかせることは、キリストの犠牲を無に帰すことと大差ない。ゆえに共同体の中で強い者はむしろ弱い者をさらに配慮すべきだ。「強い」とは単純に信仰的「レベル」を意味するのではなく、「自由を享受できる範囲」が広いことを指す。しかし、その自由を乱用してはならない。例えばある人が豚肉を食べられないと告白したとき、「いや、豚肉を食べるのは罪じゃないから食べろ!」と無理やり勧めることこそ、パウロが言う「つまずかせる」や「障害を置く」行為に該当する可能性がある。愛の出発点とは「相手がどのように感じるか」をまず考え、その人を立てることである。 これを現代の教会に当てはめると、教会の中には多様な嗜好や性格、そして信仰的背景が混在している。ある人はある礼拝形式や文化的表現を思う存分受け入れ、楽しむ。一方で、それを非常な不快感として捉える人もいる。みな「主のために」と思っているにもかかわらず、やむを得ず葛藤が起こる場合がある。そのようなとき、「教会内の秩序と和合のために、自分の自由を進んで制限できるか」という問いが非常に大切になる。ローマ書14章19節でパウロは「そういうわけで、私たちは平和に役立つこと、互いを育てることに励みましょう」と語る。つまり聖徒は論争や紛争を引き起こすよりも、平和を生み出し互いを築き上げる道を探ることに力を注ぐべきなのだ。教会の本質は神の国の拡大のために一つの体となって仕えることであり、「食べるか飲むか」という問題に執着して分裂を起こすことは、決して神の御心ではない。 「神の国は飲食ではなく、聖霊における義と平和と喜びだからだ(17節)」という言葉は、この論争の核心を突いている。兄弟に憂いと試みの種を与えることは許されず、平和を壊してはならない。張ダビデ牧師はこれについて説教する際、しばしば「私たちが目指すべきは真の『シャローム』の回復だ」と語る。神の国は義と平和、そして喜びが満ちた状態であり、もし教会が食物や祭日、制度の問題で緊張や葛藤、不満や批判であふれるなら、それはすでに神の国の性格から大きく離れてしまっている。ゆえにローマ書14章で強調される点は、どんなに些細に見える問題でも、それが兄弟の信仰の妨げになる可能性があるなら、慎重かつ繊細に扱わなければならないということだ。救いと直結しない必須教理でない限り、愛はすべての知識を超える。パウロの表現どおり「すべてが許されるからといって、すべてが徳を立てるわけではない(コリント第一10:23参照)」という真理を肝に銘じるべきなのである。 特に14章20-21節で「肉を食べないことも、ぶどう酒を飲まないことも、また何であれ、兄弟をつまずかせることをしないのは良いことだ」と語る。これによってパウロは、キリスト教的自由自体は善いものだが、最終的にはより大きな善である「兄弟の救いと喜び」のために、いとわずそれを制限しうることをはっきり表明する。そして最後の23節で「疑いながら食べる人は罪に定められている。それは信仰に基づいていないからである。信仰に基づいていないことはすべて罪である」と結論づける。パウロは何事でも「良心の呵責なく、信仰をもって行いなさい」と勧めるが、ここで要になるのは自分の良心だけではなく、他者の良心にも配慮する必要があるということだ。自分には何のつまずきもない行為でも、それによって兄弟が傷つき、試みに陥る状況ならば、パウロはそこで行動をやめるべきだと考える。キリストの愛は自分自身のためだけでなく、教会共同体全体を立て上げるために用いられるからである。 これは教会共同体が持つ独自の倫理的実践でもある。世の中は「なぜ私が配慮しなければならないのか。各自が勝手にすればよい」と言うかもしれない。しかし教会は「聖徒は『自分』だけでなく、互いを顧みる責任を負う」と宣言する。張ダビデ牧師はこれを多くの講演で「十字架共同体意識」と説明する。イエスがご自身の体を犠牲にされた愛を覚える教会ならば、互いに損を被りながらでも仕え、世話をする姿が表れるべきだというのである。特に異邦文化と旧約律法の間で葛藤が大きかった初代教会の状況は、現代の多元化時代の教会が身につけるべき態度をそのまま示す好例と言えるだろう。教会には信仰年数、文化的背景、教派の伝統などが異なる人々が入り混じっているが、福音の本質を求めながら互いに受容し、ともに成長していかなければならない。そのとき最も切実に必要とされるのが「愛を通じた自由の制限」なのである。 3. 共同体的な仕え合いと、広い心でもって異邦人を受け入れよという最終的勧め ローマ書15章1-13節まで続くパウロの勧めは、事実上14章の主題をさらに拡張したものである。パウロは15章1節で「私たち強い者は、弱い者の弱さを担い、自分を喜ばせることをしないのが当然」と述べる。これは「互いの荷を負い合いなさい」という勧めであり、キリストの愛が具体的な仕え合いを通してどのように現れるかを示す箇所である。一方では特定の規定や文化を守らない者を疑い、他方では律法的だと批判する悪循環を断ち切るため、パウロは「互いに助け、育て合え」と促すのだ。張ダビデ牧師もまた、弱い者を配慮し仕えることこそ、教会が世と区別される大きな特徴であると強調する。教会が「弱い者」を排除したり定罪する瞬間に、キリストの教えは色あせてしまう。イエスご自身も自らを喜ばせるのではなく、罪人である私たちのために十字架にかかられたのだから、私たちも互いを立てることに力を尽くすべきだというのがパウロの神学的基盤である。 15章4節以下では「かつて書かれた事は何であれ、私たちの教訓のために書かれたのであって…」と言い、旧約聖書を通じても忍耐と慰めの希望を得られると明かす。その後5-6節で「忍耐と慰めの神があなたがたにキリスト・イエスにならって互いに同じ思いを抱かせ、一つ心、一つ口で私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえさせてくださるように」と祈っている。これは葛藤や分裂で様々な声が上がる教会であっても、最終的には同じ心と同じ口で神を賛美するに至るようパウロが切に願っている箇所である。初代教会も現代教会も、葛藤のパターンや規模こそ違えど、互いを包み込みながら同じ声で神に賛美を捧げたいという思いは同じだ。パウロの祈りは時代を超えて教会のビジョンとなる。 結局、15章7節から始まる「広い心で異邦人を受け入れなさい」という部分は、この全体の教えの結論部となる。「それゆえ、キリストがあなたがたを受け入れて神に栄光をお返しになったように、あなたがたも互いに受け入れなさい(7節)」と明示されている。異邦人とユダヤ人の葛藤は、パウロが活動していた当時の教会最大のイシューであった。ユダヤ人には自分たちが律法の伝統を受け継いできた「選民」という誇りがあり、異邦人にはそうした律法的伝統を「不要な束縛」とみなし受け入れづらい面があった。パウロ自身が直面した葛藤であり、初代教会の至る所で生じた激しい論争でもあった。それでもパウロはエペソ書、ガラテヤ書、ピリピ書など多くの書簡を通じて絶えず「もはや差別はなく、キリストにあって一つの新しい人だ」と宣言してきた。ローマ書でも同様に、異邦人を否定したりユダヤ人を排斥するのではなく、互いに向けて広い心をもって受け入れ合えと求めるのである。 ここには旧約の預言とその成就に関するパウロの神学が支えとなっている。イスラエルだけでなく、地の果てに至るまで神の栄光が宣べ伝えられるべきだというのが預言者たちのメッセージであり、その預言がイエス・キリストを通して拡張されたというわけだ。神はユダヤ人と異邦人が共に救いを享受する共同体を計画され、その点をパウロは旧約の引用(詩篇、申命記、イザヤ書など)を用いて説き明かす(15:9-12)。このように福音は特定の民族や文化圏だけのものではなく、全世界に向かう神の恵みの宣言である。ゆえに教会内でも特定の民族的、文化的、信仰的背景を持つ人を否定するのではなく、福音の下で互いに受け入れ、連帯し合わねばならない。パウロは「希望の神が信仰によるあらゆる喜びと平和をあなたがたにもたらし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように(13節)」と述べ、最終的にこの福音が個人の次元を超えて教会全体、さらに世にまで変化をもたらすことを願っている。 張ダビデ牧師はここからさらに踏み込んで、この時代の教会が直面する現実を指摘し、様々な人種や言語、文化の人々が一堂に集まる場こそが教会であるべきだと説く。教会が特定の文化、特定の民族、特定の階層だけの物差しを絶対化してしまうなら、福音が持つ「一つにする力」や「包容」の可能性を狭めることになってしまうからだ。だからこそ教会は常に「私や私たちの共同体が不快や不慣れを感じるとしても、他者を喜ばせることができるか?」という問いを発し続けなければならないという。これはパウロがローマ書15章2節で語った「私たちはそれぞれ隣人を喜ばせ、善を行い、彼を建て上げなければならない」という教えと完全に一致する。ときに異邦の文化をもつ信者が教会に加わるとき、既存の信徒たちは見慣れない言語や習慣に抵抗を感じるかもしれない。逆に異邦文化圏出身者たちは、古くからの教会の伝統や慣習を息苦しく思うかもしれない。それでも教会はその両者を統合し、キリストのうちで一つの体として受け入れるよう求められている。 ローマ書15章のメッセージは、パウロ書簡全体を貫く主題でもある。「福音の普遍性」という観点から、福音は全世界のあらゆる人々に向けられた神の招きであり、その招きの中でこれまで分かたれていた「私」と「あなた」、ユダヤ人と異邦人、「強い者」と「弱い者」、保守と進歩などが一つに結ばれていく。この大いなる結合は単なる外面的な形だけを意味しない。互いを心から受け入れ、兄弟姉妹として尊重し、一つの体を成す本質的な統合を指す。パウロはその過程で必然的に衝突が起こり得ることを知っていた。だが、葛藤の場を福音の光で照らしながら解決へと向かうとき、教会は真の一つとなる体験を得る。 張ダビデ牧師は、この文脈においてイエスの大祭司的祈り(ヨハネ17章)をよく引用する。イエスは十字架につけられる前夜、「父よ、あなたとわたしが一つであるように、彼らも一つとなるようにしてください」と祈られた。その祈りどおりに教会で「争い」や「分裂」ではなく、「和合」と「受容」が表れるなら、世はその姿を見て神を賛美するだろう。逆に教会がその本質を見失い、個人主義と批判精神にとらわれて葛藤を続けるなら、世は教会に向かって「自分たち同士ですら一つになれないのに、どんな福音を伝えようというのか」とあざけるしかない。パウロはすでにローマ書14章16節で「あなたがたの善いことでそしりを受けないようにしなさい」と警告した。教会外の人々が教会をそしる口実を、私たち自身が提供すべきではないということだ。これは2000年前にも切実な警告であったし、今日においても依然として急務の警告である。 総じて、パウロがローマ書14章から15章にかけて示している教えは、現代の教会にも重要な指針を提示する。第一に、教会内に多様な信仰的背景や文化が存在する際、「互いに批判し合わず、強い者は弱い者を見下さず、弱い者も強い者を疑わない」よう勧めている。第二に、キリスト者なら「自由」を満喫しつつも、それが誰かの信仰を損なう恐れがあるなら、いとわず節制できるような愛のいけにえを捧げるべきだ。第三に、教会はイエス・キリストの愛と犠牲を見習い、互いの弱さを担い合う姿で仕え合い、さらに異邦人すらも広い心で受け入れて神の栄光を現すべきだ。張ダビデ牧師はこれを時代を超えた福音の根幹とみなし、教会が絶えず刷新していくべき主題として提示している。 こうした教えを踏まえると、ローマ書14-15章が語る共同体の姿は、広大な草原で多様な動物が共存する情景にも似ている。草原ではライオンが猛獣だとしても、もし内面で病に冒されれば結局は何もできず倒れてしまう。教会も同様に、外からの迫害や攻撃だけで倒れるのではなく、内部の葛藤と批判が積み重なって自滅しうる。だからこそ私たちは「自分と異なる人々」や「自分より弱いと見える人々」を裁くのではなく、むしろ彼らを守り、立てる方を選ぶときにこそ、教会が健やかに存続できることを悟る。そこにこそ「義と平和と喜び」が宿り、神はそのような教会を通して世に福音を広げられるのである。 張ダビデ牧師が説教の中でよく語るたとえ話の一つに、家庭で子どもたちが喧嘩をしたときに、親が仲裁する様子がある。親はどちらか一方だけの味方をするのではなく、二人とも大切な子どもゆえに、互いに和解し理解し合うことを願う。教会の中でも神は同じように「あなたがたは皆わたしの子どもだから、互いに非難したり見下したりせずに尊重し合いなさい」と呼びかけておられる。その真理を実践する生き方こそ、イエス・キリストに倣う道であり、神に栄光をお返しする道である。食物規定や祭日順守を越えて、今日においても数えきれないほど発生する教団間・教派間・文化間・世代間の葛藤を思えば、この原則は決して過去の話で終わらない。むしろ「互いに受け入れなさい」というパウロの命令は、一層切実に求められている。 最後に、ローマ書15章13節でパウロは「希望の神が、あなたがたが信仰によるすべての喜びと平和に満たされ、聖霊の力によって希望にあふれるように」と祝福している。キリスト者の歩みとは、単に葛藤を回避したり、無条件に妥協することではなく、あらゆる葛藤を福音の力で溶かし出し、最終的に喜びと平和を豊かに得るプロセスだと言える。もし教会がこの喜びと平和を享受できないとするなら、それは教会の内に「批判と疑い、軽蔑」の文化が根を張っているからかもしれない。パウロの教え、そして張ダビデ牧師が繰り返し強調してきた「互いに愛し、受け入れよ」という呼びかけに従うとき、教会は文字通り多様な伝統と文化を抱擁しながらも、調和の中の一致(unity in diversity)を成し遂げることができる。そうした教会の姿を見て、世は神をあがめ、打ちひしがれた人々も再び立ち上がって福音に膝をかがめるような歴史が起こるだろう。 結局、2000年前のパウロの状況も、今日を生きる私たちの状況も、福音が求める根本的な精神は変わらない。兄弟を批判する代わりに受け入れ、自分の自由を享受しつつも他者をつまずかせないよう愛をもって制限し、さらに弱い者を顧みて外部の人(異邦人)を歓迎する姿勢こそ、教会が世と区別される聖なる核心なのだ。これこそ「私たちは皆神の裁きの座の前に立つことになる(ローマ14:10)」という警告を心に留める聖徒の生き方だと言える。真に教会が「義と平和と喜び」を味わう道は、批判と分裂を選ぶときではなく、互いに受け入れ合い、ともに福音の喜びを享受するときに開かれる。こうしたメッセージは張ダビデ牧師の多くの説教と教えの中で繰り返し語られる中心的キーワードであり、教会が回復すべき真の福音の道だと私たちは改めて悟らされるのである。 www.davidjang.org

    3월 20, 2025
  • Accept One Another – Pastor David Jang 1. Diverse Perspectives within the Church and the Apostle’s Exhortation to “Not Judge One Another” Romans 14 is a crucial passage that practically demonstrates how believers with differing viewpoints and perspectives should live together in the Christian community. In this chapter, Paul delivers a guiding principle to the…

    3월 20, 2025
  • Aceptaos mutuamente – Pastor David Jang

    El capítulo 14 de Romanos es un pasaje clave que muestra de manera muy práctica cómo deben convivir aquellos que tienen diferentes perspectivas y opiniones dentro de la comunidad cristiana. Pablo exhorta a los creyentes de la iglesia en Roma con un mensaje central: “No os juzguéis unos a otros, sino aceptaos en el Señor”.…

    3월 20, 2025
  • 서로를 용납하라 – 장재형목사

    1. 교회 안의 다양한 관점과 ‘형제를 비판하지 말라’는 사도의 권면 로마서 14장은 그리스도 공동체 안에서 서로 다른 관점과 견해를 가진 이들이 마주칠 때 어떻게 살아가야 하는지를 실제적으로 보여주는 중요한 본문이다. 바울은 로마 교회 성도들에게 “서로 비판하지 말고 주 안에서 용납하라”는 기조의 메시지를 전한다. 특히 본문(14:1-12)을 통해서 “믿음이 연약한 자를 비판하지 말라”고 권면하는데, 이는 초대 교회 안에 존재하던 갈등을 극복하기 위한 사도의 실제적 지혜와…

    3월 20, 2025
←이전 페이지
1 2 3 4 5 … 7
다음 페이지→

장재형목사 HBS 회장 성경보급 집중

WordPress로 제작함