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장재형목사 HBS 회장 |성경 보급에 집중하여 복음을 효과적으로 전하자
홀리바이블소사이어티(HBS)는 최근 이슬람 선교를 위한 노력으로 아랍어권 서비스를 도입하면서 큰 주목을 받고 있다. 이 단체의 회장으로는 한국인 장재형목사가 선임되어 활동 중이다. HBS는 국제적인 성경 보급 단체로서, 디지털 기술과 인터넷을 활용하여 모든 사람들이 성경에 쉽게 접근할 수 있도록 하는 것을 목표로 설립되었다. 장재형목사는 선교사를 파송할 때 언급하며, 성경이 아직 인쇄되지 않거나 정부에 의해 금지된 국가들에서도 복음을…
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David Jang – Romains 9 et le « reste »
1. Au-delà de la sotériologie, vers l’eschatologie Le chapitre 9 de l’Épître aux Romains occupe une place cruciale en ce qu’il aborde de manière approfondie, aux côtés de la christologie (qui est Christ ?) et de la sotériologie (comment le pécheur est-il justifié et parvient-il au salut ?), la dimension eschatologique (où va l’Histoire, comment…
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张大卫牧师——罗马书第九章与“余民”
1. 超越救恩论,进入末世论 罗马书第九章在基督论(基督是谁)、救恩论(罪人如何被称义而得救)之外,也正式深入探讨末世论(历史将如何流向终局,基督徒在最后时刻应当如何生活),因此在整卷书中占据着非常重要的分水岭地位。张大卫牧师在解读罗马书第九章时强调,从这里一直到第十一章的经文,不仅仅是学术性的圣经诠释,更是实质上告诉我们“已经得救的人应当如何活出信仰”的具体而真实的信息。对基督徒来说,罗马书第一到第八章已经揭示了救恩论的核心,“唯独恩典、唯独信心、唯独圣经”(宗教改革的口号)反复被强调,教导我们只有通过耶稣基督的赎罪大工才能得到救恩,这一点已经非常清楚。然而,救恩并非结束;得救之人如何在神主权的带领下,在历史终结的进程中承担责任与角色,这才是末世论真正关注的焦点,也是罗马书第九章到第十一章的精髓所在。 张大卫牧师指出,贯穿罗马书的一大主题便是“神在人类救恩历史中,究竟通过怎样的路径展开祂的作为”。正如旧约圣经已经显明,神要拯救在罪中的人类,首先拣选了“选民”——以色列,并赐给他们话语、敬拜的体系和圣洁的礼仪,好让救赎主最终在他们中间诞生。然而,纵观历史,以色列常常堕落、败坏,未能完全遵行神的旨意。即便如此,圣经多次强调,神从未停止祂的救恩计划,而是必定借着“余民(remnant)”来延续救恩的工作。罗马书第九章所提出的“余民的教义”,正是告诉基督徒在历史的末后时代与混乱之中,应当如何坚立的极其要紧的洞见。 在这一点上,张大卫牧师强调,没有正确的末世论视野,而只是一味强调基督论和救恩论,可能会失去信仰的重要平衡。因为基督信仰不仅仅是“耶稣是谁”这一知识性的理解,或“我如何成为天国子民”之救恩论的确据,而是必须包括“已经得救之人,如何参与并活在神的救恩历史当中”这一末世观与历史观。所有人都注定在有生之年走向终点,但历史在神的主权之下仍在向前流动;即便在这一过程中,个人会软弱、教会会混乱,但神总是保留了“余民”以延续救恩的谱系。 张大卫牧师强调,“余民”这一概念不仅存在于以色列的历史中,更是关乎整个教会史理解的关键。无论是初代教会在逼迫中守住宝血的见证,中世纪的黑暗中依然有“看不见的教会”坚守正统信仰,还是宗教改革时期那些以“唯独耶稣、唯独信心、唯独圣经”为口号、甘愿殉道的改革者,背后都能看见“神所保留的余民”的身影。正是透过这些“余民”,历史不断向前推进,直到耶稣基督将在末了再临、完全恢复神的统治之日的到来。 罗马书在这样的脉络中,特别在第九章到第十一章,深入探讨了“以色列与新的以色列”这一主题:神如何拣选了以色列,但他们之中多数人却未接受弥赛亚,于是福音之门向外邦人打开。末了,以色列要得着恢复的应许也被提及。保罗由此论述“谁才是真正的以色列人”?答案并非仅仅在于血统,而是那些相信并持守神应许的人才是“真以色列人”,而历史的下一个阶段正是透过这些人来承接。这里“余民”这一概念便是核心:尽管多人会离弃信仰、向世界妥协,但仍会有一群人继续顺服神的话语、承认耶稣基督为主,并坚持福音到底。 基于此,马太福音24章、马可福音13章、路加福音17章所记载的“小启示录”(Little Apocalypse)里,耶稣所说“惟有忍耐到底的,必然得救”的教导,也与罗马书第九章紧密相连。耶稣预言末世来临之际,假先知会出现,罪恶会横行,爱心会冷淡,这些迹象在初代教会已经部分应验,如今依旧如此,并将在最后变本加厉。尽管如此,张大卫牧师指出,耶稣的警示并非要使我们惧怕,而是要为我们带来“在末了如何坚持信心、继续承担神的救恩使命”的勇气与盼望。在这里,“余民”这一主题与耶稣“忍耐到底者得救”的话语交织成强大的动力。 保罗在罗马书里直接引用了先知以赛亚的话:以色列的子孙虽多如海沙,得救的却只是“余数”;而这一“余数”之所以得以存留,完全是因为神的恩典而不是人自己的功劳。这在救恩论与末世论的层面都是核心真理。我们在基督里之所以能得赦免、称义,百分之百是因着神的恩典;同样地,越临近末世,越会面临严峻的挑战与攻击,若想坚守信心,也绝不是凭人自己的意志力,而是因神自己在历史中保留人、以恩典扶持他们,最终完成救恩的计划。 张大卫牧师在此特别指出,“余民”教会或个人所肩负的使命,不只是关乎自身的得救,而是一个“保存并让救恩的种子生根发芽”的积极而动态的过程。就像旧约中收割玉米的农夫,哪怕再饥饿,也绝不能把留作来年播种的种子都吃掉;“余民”的含义就在于此。无论历史多么黑暗,教会看似多么堕落,神依然会留下种子,并从那里开启新的历史。这与以利亚在与巴力先知的属灵争战中筋疲力尽、几乎陷入绝望时,神对他说“我却为自己留下七千人,是未曾向巴力屈膝的”(列王纪上19章18节)一事如出一辙。张大卫牧师强调,这一原则在当今教会同样适用。 在末世论视角下,“余民”并非采取逃避或躲藏的消极态度,反而是踊跃参与到神旨意要完成的普世宣教事业之中。耶稣在马太福音24章14节清楚地说:“这天国的福音要传遍天下,对万民作见证,然后末期才来到。”也就是说,当世界逐渐走向审判之时,教会反而必须更加尽力传扬福音、担负宣教使命。而在此过程中,“余民”与“不肯坚持到底的人”就自然地分化开来。“惟有忍耐到底的,必然得救”这句话,也带着祝福应许,那就是:为要完成把福音传给地上各族、各民的大使命,而不疲倦、不停滞、一直跑到终点的那一群人,必将得着救恩的应许。 基于这样的脉络,张大卫牧师清楚提出,面对末世的召命,教会应该如何预备并被建造。他尤其看重“橄榄山讲论(Olivet Discourse)”——即马太福音24~25章、马可福音13章、路加福音21章中耶稣末后的末世信息,并将“奥利韦特(Olivet)”之名用于自己的事工群体和教育机构。这是因为耶稣在橄榄山(Olivet)上所教导的末世迹象、世界结局以及信徒当如何警醒,正是教会与信徒最根本、最具终极性的指令。罗马书第九章所启示的“余民”精神,正与橄榄山讲论之核心交织在一起,教导教会在末世当如何站立得稳。 如果救恩论立场不稳,末世论也必然会出现偏差;若在救恩论中淡化了基督恩典与宝血的价值,末世论就会发展成异端式的末世观,或充斥人的功德、诡计的畸形模式。反之,若一个人已经清晰把握了“我们是完全靠着十字架的宝血而得救”的真理,那么在末世论上,他就会更加注重“余民精神”,既守护恩典,也向世人传扬福音,以动态的方式与神的工作同工。张大卫牧师在研读罗马书第九章与第十一章时,一再强调要抓住“神在末世仍然保留的这粒种子,必将开启新的历史”的应许。无论当下教会和社会多么混乱,教会里必定会有犹如“玉米种子”般的信徒,他们会守住福音的纯正,并为神的国度献身,成为神所留下的“余民”。 罗马书第九章后半段的重点在于:“以色列的子孙虽多如海沙,得救的却是剩下的余民”,而这“余民”正是“按着神的恩典所拣选、归给神的人”(罗马书11章5节)。如同我们本是因恩典得救,在末了也须凭着恩典坚守,让福音得以传扬,并以圣洁的生活成为世上的光,这便是末世之教会应有的态度。张大卫牧师长期以来透过讲道和著述反复强调此观点:当基督论和救恩论已经打好牢固根基之后,就必须正确理解末世论并实践出来;这与罗马书第九章到第十一章的整体脉络一脉相通。 2. “余民”的身份与使命 那么,具体来说,作为“余民”而活的信徒,应当秉持怎样的生活态度与信仰立场?张大卫牧师从两个层面加以归纳:第一,“余民”必须对自己的身份有清晰的认知;第二,“余民”必须守护救恩的种子,并传递给下一代与万国万民。这两者正是末世之教会的重要支柱,也与罗马书第九章和第十一章的教导完全一致。 首先,对自己身份的清楚认知,意味着“我们是因恩典被拣选的,是为神的救恩计划而被留下的”。这绝不意味着自满或骄傲;保罗在罗马书第九章与第十一章里多次强调,这种拣选基于神的怜悯与恩慈,而不是人的行为。换言之,“我之所以成为余民,并非我多么优秀,而是因神的恩典才得以存留。”因此,拥有“余民”身份的信徒也应当极其谦卑,并时刻警惕“任何人若离开恩典,都可能陨落”。 张大卫牧师谈及当代教会所面临的各种混乱,比如教会领袖的道德失败、神学上的分裂,或传统宗派与改革运动之间的冲突。他认为,只有“被恩典抓住并确实站立在真福音中的人”,才会在终局存留下来。而这种“存留下来”并不是透过论断或攻击他人来排除异己,而是通过回归神的话语与福音的大能,在灵里自然显明出谁真正持守了福音、相信十字架和复活的大能,并且忍耐到底,不停传扬并活出福音与爱心。就这样,“余民”与非“余民”便逐渐分辨出来。 清楚的身份认知也意味着基督徒对神圣使命的自觉。“余民”的意义不只是“我已得救”的安心,更是对教会与世界负有重任。我们并不是只为某一代出现而后消失的人,而是承载着要把“圣洁的种子”传递给下一代、以及万国万民的呼召。保罗在罗马书第九、十、十一章的论述中,借以色列为例,不住地呼喊:“未曾听见福音的,怎么能信?没有信心的,又如何得救?”(罗马书10章14节以下),从而极力强调“余民”传福音的使命何等急迫、何等关键。 其次,“余民”必须守护救恩的种子,并传递给下一代与列国。许多人对末世论存在误解,以为“既然末日快到了,我们只要自己坚守信心、躲起来就行”,这是一种逃避主义或宿命论。然而,仔细研读耶稣的教导与保罗的书信会发现,无论如何,教会都不能放弃或停止在世间见证福音的使命。传扬福音、属灵觉醒以及爱心行动在末世更加不可或缺。正因末世临近,教会的责任反而更加沉重:要将福音的种子保存并传播给万国万邦。 在张大卫牧师的牧会与宣教经历中,他曾走遍世界许多地方,看见不少“圣洁的种子”在极度艰难的处境中依旧得以保存与传递。无论是在共产政权国家、伊斯兰地区,或各处饱受宗教迫害的区域,都有地下教会或小型信仰团体不惜冒着生命危险聚会敬拜,并传扬福音。他们就如旧约的“余民”,如新约时代初期的教会信徒一样,正是罗马书所说“因着恩典被拣选”的人。他们没有显赫的教势或丰厚的物质资源,但却完全依靠“耶稣的宝血与神的话语”,坚守信仰。张大卫牧师称此为守护种子的典型榜样。 守护种子并不只是个人的信仰宣誓,也包括教会共同体的敬拜、圣餐、施洗,以及宣教与教导事工,这些都是保有与传递福音种子的途径。张大卫牧师尤其提到教育机构——例如神学院或基督教大学——在培养“余民”和将福音种子传递给下一代方面居于中枢地位。他以“奥利韦特(Olivet)”之名创办了多所教育机构、神学院与大学,正是为了突出“要把主在橄榄山末世讲论(Olivet Discourse)所启示的真理,传授并付诸实践”的神学教育。如今的时代极易被世俗文化与知识冲击而失去神学的本质,需要透过“回到圣经”的教育来兴起“余民”。 张大卫牧师多次强调,“余民”最终会拯救历史。《创世记》中所载,若所多玛和蛾摩拉城中能有十个义人,也可免遭灭亡;这就显示神不是要推进毁灭,而是若能找到追求公义的人,便通过他们开辟救恩之路。以色列历史多次走到崩溃边缘时,都因“余民”而再度有复兴与恢复的起点。在新约的教会史上亦然:许多地区总有被留下的信徒坚守福音,在中世纪的黑暗中也有一把微弱的火炬不曾熄灭,推动后来宗教改革者的兴起。 罗马书第九章就呼应了此一事实:无论当前处境多么黯淡,神主导的救恩大戏绝不会终止;“若不是万军之主给我们存留余种,我们早就像所多玛、蛾摩拉的样子了”(罗马书9章29节)。张大卫牧师将这句话应用在现代:再糟糕的教会现况中,也依旧存在“余民”;神必通过这些人使教会重新站立,并将福音传向全世界。 值得注意的是,“余民”并不会自我封闭在小圈子里沾沾自喜;他们的使命必定是向“拯救世界”的方向展开。因为神在历史中召唤教会,从来不只是为了教会本身,而是嘱咐“你们要作世上的光和盐”。正是在践行光与盐的过程中,末世更大的逼迫与试炼会临到“余民”。对此,张大卫牧师解释说,“能够在此使命中不退缩、不妥协的人,必能忍耐到底,而他们的坚守本身,就成为神拯救、恢复世界的途径之一。” 罗马书第九章27-29节指出,以色列的子孙虽多如海沙,但仅有“余民”得救;也正因这“余民”的缘故,那原本有可能沦为所多玛、蛾摩拉的历史,才获得了新的转机。今天的教会同样如此——这段话不只是一段古老记载,也包含末世性的展望,对教会与信徒既是警示,也带来安慰与盼望。正如张大卫牧师常提醒的,救恩论若越坚固,末世论就越健全;末世论越明晰,教会的身份与使命也越发明确。我们当谨记自己是“按着神的拣选、因恩典而成为的余民”(罗马书11章5节),同时也要成为恩典的管道,向世界撒播福音的种子、践行爱心,并在末后艰难中坚守信心。 整个过程中,历史会在神预定的轨道上不断向目标推进。一代过去,一代又来,大地仍旧存在;而在这大地之上,还有将要得救的人群,以及要把救恩种子传递下去的人。我们受召成为其中的一部分,完全不是靠自己的力量,而是出自神的恩典。所以,张大卫牧师指出,“余民的身份”对末世时代的教会与信徒而言,是至关重要的讯息之一。当我们在救恩论上确据无疑,又能抓住末世论异象,就能在原本可能沦为所多玛、蛾摩拉的世界里,成为开创新历史与复兴之路的“圣洁种子”。为此,我们每天都当儆醒预备,满怀对恩典的感恩,也满怀对世界的怜悯与爱,正如罗马书第九章到第十一章所贯穿的主线般,继续在神的呼召下勇往直前。这正是张大卫牧师不断劝勉信徒的核心教导。 www.davidjang.org
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張ダビデ牧師 – ローマ書9章と残された者
1. 救済論を超えて終末論へ ローマ書9章は、キリスト論(キリストとは何者か)や救済論(罪人がいかに義とされ、救いに至るか)と並んで、終末論(歴史はどこへ向かうのか、キリスト者は最後にどのように生きるべきか)を本格的に扱う分岐点として非常に重要な位置を占めている。特に、張ダビデ牧師はこのローマ書9章を解説する中で、9章から11章まで続く本文が単なる学問的な聖書解釈ではなく、「救われた者たちが具体的にどのように生きるべきか」を示す、具体的かつ実際的なメッセージであると強調する。 キリスト者はすでにローマ書1章から8章に至る救済論の核心を受け取り、「ただ恵みにより、ただ信仰によって、ただ聖書によって(Sola Gratia, Sola Fide, Sola Scriptura)」という宗教改革のモットーが繰り返し強調されるように、イエス・キリストの贖いの働きを通してのみ救いが成就する事実を明瞭に知るようになる。しかしそれで終わるのではなく、救われた者がこの歴史の終末と神の主権的な導きの中で、いかなる責任と役割を担って生きるべきか――これこそが終末論の本質的関心事であり、ローマ書9章から11章に込められた核心でもある。 張ダビデ牧師は、ローマ書を貫く大きなテーマの一つとして「神の人類救済史が具体的にどのような経路を通じて展開されるか」を挙げる。旧約聖書ですでに明らかなように、神は罪の中にあった人類を救うため、まず「選民」を選び、その民に御言葉と礼拝体系、聖なる儀式を与え、やがてその民の中から一人の贖い主が生まれるよう摂理してこられた。しかし歴史を振り返ると、イスラエルは腐敗や堕落に陥り、神の御旨に完全には従いきれないことが多かった。にもかかわらず神は決して救いの御業を止めることなく、必ず「残された者(remnant)」を通してその救済史を継続される、と聖書は強調する。ローマ書9章が語る「残された者の教理」は、キリスト者が歴史の最後の時や混乱のただ中でいかに立つべきかを示す極めて重要な洞察である。 この点で、張ダビデ牧師は「正しい終末論の視点を持たずにキリスト論や救済論ばかりを強調することは、信仰の大きなバランスを失う危険がある」と語る。なぜならキリスト教の信仰は、単に「イエスがどのようなお方か」という知的理解や、「私はいかにして天国の民となるか」という救済論的確信にとどまらず、「そのように救われた者が、今やいかに神の救済史に参与して生きるか」という歴史的かつ終末論的な視点が不可欠だからである。人間は皆、有限な存在として地上の生涯を終えるが、歴史は神の主権の内に続いていく。救われた一人ひとりが途中で落胆したり誤ったり、教会が混乱に陥ることはあっても、神は必ず残しておいた群れ、すなわち「残された者」を通して救いの系譜を継承される。 張ダビデ牧師は、この「残された者」という概念がイスラエルの歴史にだけ見られるのではなく、教会の歴史全体を見通す重要なキーワードだと説く。初代教会が迫害の中でも血潮の証しを守り抜いたことも、中世の種々の堕落の中にあっても正統信仰を守り抜いた「見えざる教会」があったことも、そして宗教改革期に「ただイエス、ただ信仰、ただ聖書」を宣言し、殉教もいとわなかった改革者たちがいたのも、すべて「神が残しておかれた者たち」が存在したからだというのである。このように「残された者」を通して歴史は絶えず進展し、ついには地上に再臨されるイエス・キリストと共に、神の完全な支配が回復される日が近づいていく。 ローマ書はこうした流れの中で、特に9章から11章にかけて「イスラエルと新しいイスラエル」というテーマを深く掘り下げている。神がイスラエルを選ばれたが、結局その多くがメシアを受け入れなかったことで、その福音が異邦人へと拡張されていく過程が説明される。そして終末にイスラエルが回復されるという約束にも言及している。パウロはこれを通じて「真のイスラエル」とは誰かを語る。血統的イスラエルではなく、神の約束を信じてすがる者こそが真のイスラエルであり、そのような人々を通して歴史は次の段階へ受け継がれていく。ここで中心的となるのが「残された者」の概念である。多くの者が背教したり妥協したり、世の価値観に屈服したりする中でも、終わりまで神の御言葉に従順し、イエス・キリストを主と告白し、福音を握りしめる者たちが存在する。 この意味で、マタイ24章・マルコ13章・ルカ17章に記されている「小黙示録(Little Apocalypse)」と呼ばれるイエスの言葉、すなわち「最後まで耐え忍ぶ者は救われるであろう」という教えは、ローマ書9章とも密接につながる。終末が近づくにつれ、偽預言者が現れ、罪悪がはびこり、愛が冷えていくというイエスの警告は、すでに初代教会の時代にも部分的に成就し、現代もそうであり、最終的にはさらに深刻化する。しかしそれでも張ダビデ牧師は、イエスのこの教えが私たちを「恐れ」させるためではなく、「いかにして最後まで信仰を守り抜き、神の救いの御業を担うか」に対する勇気と希望を与えるためだと強調する。まさにここでローマ書9章の「残された者」というテーマと、イエスの「最後まで耐え忍ぶ者」という言葉が結びつき、強力なシナジーを生み出す。 パウロはローマ書の中でイザヤの預言を直接引用している。すなわち、イスラエルの子孫の数が海辺の砂のように多くとも、結局は「残された者」だけが救われるという言葉である。このとき「残された者」が持つ重要な特徴は、「人の功績や努力」ではなく「神の恵み」によって保たれ、選ばれている点だ。これは救済論的にも終末論的にも同じ核心である。私たちがキリストにあって罪の赦しと義とを得るのも100%恵みによるように、終末が近づくほど激しさを増す挑戦や攻撃の中で信仰を守ることも、人間の意志や決心だけで可能なわけではない。神が歴史の中で直々に人を残され、その人々を恵みで守られ、ついには救済史を完成されるのである。 張ダビデ牧師は、ここで「残された者」として召された教会や個人の使命は、決して自己の救いにばかり執着するものではなく、歴史の中で神から与えられた「種」を守り、それを育てる積極的かつ躍動的な役割にあると説明する。旧約聖書で農夫がトウモロコシを収穫するとき、どれほど飢えていても、種に使うトウモロコシだけは必ず別にしておく。次の年に蒔く種がなくならないようにするためだ。それこそが「残された者」の意味だというのである。歴史がどれほど暗澹たる様相を見せようとも、教会が世の潮流に押し流され堕落してしまう瞬間があっても、神は必ず種を残され、その種を通して新しい歴史を始められる。この点は、エリヤがバアルの預言者たちとの霊的闘いで疲れ果て、落胆していたときに、神が「バアルに膝をかがめない七千人を残しておいた」(列王記上19:18)と告げられたエピソードと同じだ。そしてこの原理は今日の教会にもそのまま当てはまる、と張ダビデ牧師は強調する。 終末論的な面から見ると、「残された者」とは逃避的で退却的な態度をとる人たちではなく、むしろ世界宣教へと邁進する神の救いの御業に能動的に参加する者たちである。イエスはマタイ24章14節で、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられ、あらゆる国民に対して証しされ、そのときが来るだろう」と語られた。すなわち、世が裁きへ向かう間にも、教会はむしろ福音宣教と宣教の使命を担わなければならず、その過程において残される者とそうでない者が明らかになるというわけだ。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という言葉は、地上のすべての国民・民族に福音が届けられるという世界宣教の偉業を担うにあたり、疲れず歩み続け、ついには信仰の競走をやり遂げる者に与えられる祝福の約束なのである。 こうした文脈の中で張ダビデ牧師は、終末論的な使命を明確に掴み取り、教会がどのように準備され、建て上げられるべきかを具体的に提示する。彼は特に「オリベット・ディスコース(Olivet Discourse)」――マタイ24~25章、マルコ13章、ルカ21章などにおけるイエスの終末説教――を非常に重視している。そのため、自身の宣教共同体や教育機関に「オリベット(Olivet)」という名称を冠している。イエスがオリーブ山(オリベ山)で終末の兆候や世の終わりに起こること、そして信じる者がいかに目を覚ましているべきかを教えられたその言葉自体が、教会と信徒にとって本質的かつ最終的な命令であるからだ。ローマ書9章が語る「残された者」の精神も、このオリベット・ディスコースの核心とつながり、終末論的に教会がどのような姿勢を取るべきかを教えてくれる。 救済論が正しく立っていなければ、終末論も誤りやすい。救済論がキリストの恵みと血潮の価値を弱めるなら、終末論は異端的終末論や、人間の功績や策略に満ちた倒錯した姿になりがちだ。その反面、救済論においてすでに十字架の血によって私たちは全面的な恵みにより救われたことを明確につかんでいる人であれば、終末論はなおさら「残された者」の精神をもって恵みを守りつつ、同時に世界へ福音を伝えていく躍動的な過程として理解される。張ダビデ牧師はローマ書9章と11章を共に学びながら、「神が残しておかれた種が、ついには新しい歴史を始める」という約束をしっかりつかむようにと強調する。だからこそ、どんな時代的・社会的混乱が襲おうとも、教会の内には必ず「種のトウモロコシ」のような人々がおり、彼らこそが福音の純度を守り、神の国のために献身する「残された者」となるのだ、と彼は説いている。 ローマ書9章後半が提示する核心は「イスラエルの子孫が海辺の砂のように多くても、残された者だけが救われる」という点であり、この「残された者」こそが「恵みによる選びによって神に握られた者」である(ローマ11:5)。私たちがこの恵みによって救いを得たように、最後までその恵みを固く握り、福音宣教と聖潔な生活を通して世の光となることが、終末論的な教会の姿勢である。このメッセージは、張ダビデ牧師が長年にわたり説教や著作を通じて強調してきたものであり、キリスト論・救済論が確立された後には、必ず正しい終末論の理解と実践が必要だと説いてきた文脈とも一致している。 2. 残された者のアイデンティティと使命 それでは具体的に、「残された者」として生きる信徒が志向すべき生き方や信仰姿勢とは何か。張ダビデ牧師はこれを大きく二つの側面で整理し提示している。第一に、「残された者は自らのアイデンティティを明確に認識すべきである」。第二に、「残された者は救いの種を守り、次世代と諸国へそれを伝えていくべきである」。この二つの側面こそが終末論的な教会の重要な柱であり、ローマ書9章と11章が語ることとも正確に合致する。 第一に、自らのアイデンティティの明確な認識とは、「私たちは恵みによって選ばれた者であり、神の救いの御業のために残された者だ」という意識を持つことを指す。これは決して高慢や優越感に陥ることではない。パウロがローマ書9章と11章で繰り返し強調しているのは、この選びが「行い」に基づくのではなく、「神の憐れみと慈しみ」によるという事実である。つまり、「自分が優れているから残された者になった」のではなく、「神が恵みによって残してくださったからこそ、私はここにいる」という悟りが必要なのだ。ゆえに残された者としてのアイデンティティを持つ信徒は同時に「へりくだる」べきであり、常に自分を振り返りながら「誰もが恵みから外れれば倒れ得る」という警戒心を持たねばならない。 張ダビデ牧師は、現代の教会が直面している様々な混乱――たとえば教会指導者の道徳的失敗や神学的な分裂、伝統的教団と改革運動の衝突など――に言及しつつ、「最終的に生き残るのは、ただ『恵みに捕らえられた人』と『真の福音に立つ人』だけだろう」と語る。しかしここでいう「生き残る」とは、他者を非難や攻撃によって排除することで達成されるのではなく、あくまでも神の御言葉と福音の中心へ立ち返ろうとする霊的な動きの中で、自ずと顕在化する現象だという。誰が真に福音を握っているのか、誰が十字架と復活の力を本当に頼りとしているのか、そして誰が最後まで耐え忍びつつ宣教と愛を実践するのかによって、「残された者」とそうでない者が分けられるのだ。 アイデンティティを明確に認識することは、キリスト者としての聖なる責任感を伴う。なぜなら「残された者」となることは、単に「自分が救われた」という安心感で終わるのではなく、教会共同体や諸国民に対する使命を全うしなければならないことを意味するからだ。私たちは、一世代で終わってしまう存在ではなく、次の世代と全世界のために聖なる種を託された者である。だからこそパウロはローマ書9章、10章、そして11章にわたって、イスラエルの例を挙げつつ「福音を聞かなければどうして信じられようか。信じなければどうして救われようか」と嘆き(ローマ10:14以下)、最終的に福音を宣べ伝える「残された者」の役割がいかに切実で重要かを力説している。 第二に、残された者は救いの種を守り、次世代と諸国に伝えるべきである。終末論でよく生じる誤解は、「どうせ世はもうすぐ終わるのだから、私たちはただ信仰を守って隠れていればよい」というような逃避主義的・宿命論的な態度である。しかしイエスの教えやパウロの書簡を詳しく見ると、いかなる場合でも教会が世に対して福音を証しする使命を放棄したり立ち止まったりしてよいとは書かれていない。福音宣教と霊的覚醒、そして愛の実践は、終末が近づくほどさらに必要になる。むしろ終末が迫るほど、教会がその種を守りながら諸国に広める責任は増大する。 張ダビデ牧師は自身の牧会経験と宣教活動の中で、世界のさまざまな地域を巡って福音を伝える過程で、「聖なる種」がどんな極限状況にあっても維持され、継承されていく光景を何度も目の当たりにしてきたという。たとえば共産主義国家やイスラム圏、あるいは宗教的迫害の厳しい地域においても、地下教会や小規模の信仰共同体が命がけで礼拝を捧げ、福音を伝えてきた。その姿は旧約の残された者、新約の初代教会の信徒たちと何ら変わらず、まさにローマ書が語る「恵みによって選ばれた者たち」の姿を映し出していた。彼らは決して大きな教勢や物質的なサポートを誇りにしていたわけではなく、「ただイエスの血と御言葉」に対する徹底した信頼で支えられていたのである。これこそ残された者が種を守る具体的な手本なのだと、張ダビデ牧師は語る。 このように種を守るということは、単に個人的な信仰告白にとどまらない。教会共同体の礼拝や聖餐、洗礼の執行、さらに御言葉の教育や宣教活動などが、種を守り伝えるための通路となる。さらに張ダビデ牧師は、教育機関、特に神学校やキリスト教大学が「残された者」を育て、種を次世代に手渡す中枢的役割を担うと考えていた。そのため彼が「オリベット(Olivet)」という名を冠して複数の教育機関や神学校、大学を設立したのも、その名称自体が「主の終末論的説教(オリベット・ディスコース)を継承し、実践する神学教育」を強調するためであった。世の文化や知識に染まりやすい時代に、「聖書へ戻る教育」を通して「残された者」を起こそうとする狙いだったのである。 「残された者は結局、歴史を生かすのだ」というのが、張ダビデ牧師がローマ書9章と11章を解釈しながら繰り返し提示してきた核心的結論である。ソドムとゴモラが滅びる際、義人が十人いれば滅びを免れただろうという創世記の記述が示すように、神はいつも歴史を破滅へ追いやるのではなく、義を求める者がいれば、彼らによって救いの道を開かれる。イスラエルの歴史が滅亡寸前に置かれた瞬間ごとに、「残された者」が再び復興と回復の出発点になった。そして新約の教会史においても、各地に残されていた者たちが福音を守り、中世の暗闇のような時代にも福音の火種が絶えず、改革者たちを立ち上がらせる原動力となった。 ローマ書9章はまさにこの点を思い起こさせ、キリスト者たちに「現在の状況がどれほど暗く見えても、神が主導される救いのドラマは決して止まらない」という希望を与えてくれる。「もし万軍の主が私たちに種を残しておかれなかったなら、私たちはソドムのようになり、ゴモラのようになっていたであろう」(ローマ9:29)という御言葉が、それを端的に示している。張ダビデ牧師は、この御言葉を現実に当てはめて、「今日、教会がどれほどみっともない姿をさらしていても、その内には依然として残された者が存在し、神は彼らを通して教会を再び立ち上げ、福音を全世界へ広められるのだ」と力説する。 残された者は、自分たちだけの孤立した共同体を築いたり、自分たちが満足するだけの信仰に陥ったりするのではなく、必ず「世を救う」方向へと進むという点にも注目すべきである。なぜなら、神は歴史の中でご自身の教会を招かれる際、単に教会を教会のままだけで存在させるのではなく、常に「あなたがたは世の光、地の塩となれ」という使命を委ねてこられたからである。その光と塩の役割を担う過程こそが、終末論的にさらに大きな患難や迫害の前で「残された者」が試される場面にもなる。張ダビデ牧師は「この使命から退かない者たちが最後まで耐え忍び、その耐え忍ぶ姿が逆説的に世を生かし、回復させる通路となる」と説明する。 ローマ書9章27節から29節が語るように、イスラエルの子孫がいかに多くとも、残される者だけが救われ、まさにその残された者を通じてソドムとゴモラのように完全に滅びる可能性もあった歴史が新しく開かれていくというメッセージは、今日の教会にもそのまま適用される。この御言葉は単なる旧約の歴史的記録ではなく、終末論的な展望まで含む、教会と信徒に対する警告であり慰めであり希望でもある。そして張ダビデ牧師が繰り返し強調してきたように、救済論が揺るぎなくなるほど、終末論も健全になり、終末論が明確になるほど、教会のアイデンティティと使命が一段と鮮明になる。私たちは「恵みによる選びに従って残された者」(ローマ11:5)であることを忘れず、同時にその恵みの通路となって世に福音を播き、愛を実践し、最後まで信仰を守り抜く生き方を歩むべきなのである。 このすべての過程を通して、歴史は神が定めた目的地へと徐々に進んでいく。一つの世代が去り、次の世代が来ようとも、地は永遠にあり、その地上には救われるべき人々と救いの種を伝えるべき人々がまだ残されている。私たちはその一部として招かれているのであり、それは私たちの力ではなく全的に神の恵みなのだ。ゆえに張ダビデ牧師の言うように、「残された者のアイデンティティ」は終末の時代を生きる教会と信徒にとって最も重要なメッセージの一つである。救済論の確信を抱き、終末論的ビジョンをしっかり掴むとき、私たちはソドムとゴモラのようになるかもしれなかった状況の中で、新たな歴史と回復への道を切り開く「聖なる種」となることができる。その使命の前で、日々新たに目を覚まして備え、恵みに感謝しつつ世へと踏み出していく――それこそがローマ書9章から11章に込められた大いなる流れであり、張ダビデ牧師が信徒たちに繰り返し教えている中心的な教えなのである。 www.davidjang.org
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Pastor David Jang – Romans 9 and the Remnant
1. Beyond Soteriology to Eschatology Romans 9 occupies a very significant position as a turning point where eschatology (where is history headed, and how should Christians live in the final days?) is dealt with in earnest, along with Christology (Who is Christ?) and soteriology (How is a sinner made righteous and saved?). In particular, Pastor…
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Pastor David Jang – Romanos 9 y el Remanente
1. De la doctrina de la salvación a la escatología El capítulo 9 de Romanos reviste una importancia extraordinaria porque, junto con la cristología (¿Quién es Cristo?) y la soteriología (¿Cómo se justifica el pecador y alcanza la salvación?), aborda de manera directa la escatología (¿Hacia dónde se dirige la historia?, ¿Cómo deben vivir los…
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장재형목사 – 로마서 9장과 남은 자
1. 구원론을 넘어 종말론으로 로마서 9장은 기독론(그리스도는 누구신가), 구원론(죄인이 어떻게 의롭게 되어 구원에 이르는가)과 더불어 종말론(역사는 어디로 흘러가는가, 그리스도인은 최후에 어떻게 살아야 하는가)을 본격적으로 다루는 분기점이라는 점에서 매우 중요한 위치에 놓여 있다. 특히 장재형(장다윗)목사는 이 로마서 9장을 해설하면서, 여기서부터 11장까지 이어지는 본문이 단순히 학문적인 성경 해석이 아니라, 실질적으로 “구원받은 자들이 곧 어떻게 살아야 하는가”를 보여주는 구체적이고 실제적인 메시지라고 강조한다. 그리스도인은 이미 로마서 1장에서 8장에 이르는 구원론의 핵심을 받았고, ‘오직…
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David Jang – Le Royaume de Dieu
Ⅰ. Le Royaume de Dieu vu à travers la christologie, la sotériologie et l’eschatologie Le pasteur David Jang met l’accent sur l’histoire de l’Église et sur les vérités fondamentales de la Bible en soulignant la manière dont les trois doctrines que sont la christologie, la sotériologie et l’eschatologie sont étroitement liées et conduisent finalement au…
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神的国 – 张大卫牧师
Ⅰ. 透过基督论、救恩论、末世论所观照的神的国 张大卫牧师一直强调教会历史和圣经核心真理的重要性,并宣讲基督论、救恩论、末世论三大教义如何紧密相连,最终汇聚于“神的国”这一主题。他首先说明,基督论从“耶稣是谁”这一问题出发。纵观教会历史,在尼西亚会议(公元325年)和迦克墩会议(公元451年)等过程中,教会总结出“耶稣基督是完全的神,也是完全的人(veredeus verehomo)”这一结论。张大卫牧师指出,这一决定对正确理解基督论意义重大:耶稣既是无罪圣洁的上帝,又是亲身经历人类一切痛苦和软弱的真人。他强调,正确把握这奥秘的双重性,最终成为我们正确接受救恩论的基础。 根据他的看法,若否认耶稣基督的神性,或削弱基督的人性,这样的神学立场都会动摇基督论的根基,难以导向正确的救恩论。谈及1517年那场具有历史意义的宗教改革时,张大卫牧师特别提及路德、加尔文等改革者宣告的“唯独因信(Sola Fide)与唯独恩典(Sola Gratia)才能得救”这一点。他指出,这是因为中世纪教会偏离了圣经的教导,把原本“唯有信心与恩典”就足够的救恩与其他因素混杂,导致信仰被稀释与扭曲。张大卫牧师强调:“宗教改革的救恩论严格来说就是‘回归圣经’的呼声。”因此,改革宗所主张的“唯独信心、唯独恩典”是十分符合圣经并且正确的教义。他补充说,教义并非只停留在教会教材或教育资料上,而应当在信徒的实际生活中成为有生命力的运作原则。 接着,张大卫牧师提到,与基督论和救恩论相对比,教会内部对于末世论往往众说纷纭。他指出,“末世论所探讨的核心议题在于‘时间与时机(Time and Date)’”。其中,“时间(Time)”对应希腊语的“Κρόνος(Chronos)”,指的是量化、连续的时间概念;而“时机(Date)”则是“Καιρός(Kairos)”,意味着决定性事件发生的质的时刻。张大卫牧师说,圣经所描述的耶稣再临,就属于这样的“Καιρός事件”。在这决定性事件中,耶稣降临到世上的时刻(即B.C.与A.D.的分界)甚至划分了整个人类历史。所以从末世论的角度来看,最终所要探讨的,就是神的国在此地得以完全成就的过程以及具体时刻。 按照张大卫牧师的解读,圣经通过对于末世的具体预言与其不确定性,以及耶稣亲口给信徒的教导,告诉我们“那时日与日期,唯有天父知道”。《使徒行传》1章7-8节里耶稣的那句话正是证明:“父凭着自己的权柄所定的日期不是你们可以知道的;但圣灵降临在你们身上,你们就必得着能力,并要把福音传到地极。”基于此,张大卫牧师强调,关心末世论固然重要,但既不要陷入错误的末世推算与恐惧,也不要消极地只等待毁灭,反倒应该以“为此刻在地上传扬福音并预备神的国”这种积极态度来活出真正的末世论人生。 既然如此,那么“神的国”究竟是什么样子呢?张大卫牧师常常通过“创造—堕落—救赎—神的国”这一救赎史脉络,以及“四律(사영리)”的方式加以解释。人类本来生活在上帝所创造的伊甸园——即乐园(Paradise)里,却因罪而被赶了出来。然而正如《约翰福音》3章16节所言,上帝差派独生子耶稣基督,为要赐给人永生,而这救恩的最终目标便是“神之国度的恢复”。张大卫牧师认为,《使徒行传》1章6节门徒所问的“主啊,你复兴以色列国就在这时候吗?”这一提问,正反映了他们对失落之国——上帝所掌权的公义世界得以复兴的盼望。深藏在人类灵魂深处的,是对失乐园的渴慕,而这便是“人类对天国的本能性向往”。虽然我们无法得知神之国完全实现的确切时机,但他坚定地说,这必将借着耶稣的再临而成就。 尤其是,张大卫牧师在讲授神的国教义时,会特别强调其中一个核心——“义(Righteousness)”的问题。正如《马太福音》6章33节所言:“你们要先求他的国和他的义,这些东西都要加给你们了。”神的国乃是充满公义的地方。当不义的势力终将失去力量,上帝亲自掌权时,就如同《阿摩司书》5章24节所言,“公义如大水滚滚,正义像江河滔滔”般的世界才会完全展开。张大卫牧师认为,神的国并非抽象概念,而是切实在历史与我们日常生活中、与对抗不义、建立公义的命令一起临到的神之统治。他多次强调自己的事工方向,也是为了让教会和信徒切身践行“先求他的国和他的义”这条教导。 张大卫牧师还指出,人们日常往往过于聚焦于金钱或物质富足。根据主的话语,我们常为“吃什么、喝什么、穿什么”忧虑,却对如何为神的国付出与服事,为公义受苦付代价等方面时常显得冷淡。主在《马太福音》6章19-20节说:“不要为自己积攒财宝在地上,只要积攒财宝在天上。”张大卫牧师借此宣讲,真正的价值并不局限在地上的拥有,而是累积在那永恒的国度里。他说,这也是体验“饥渴慕义的人有福了”(马太福音5章6节)的奥秘之路。最终,为神的国和义倾献的人,将会得着主所应许的“这一切都要加给你们”的恩典。 那么耶稣所说的神的国,究竟是怎样临到的呢?张大卫牧师引用《马太福音》13章等处的天国比喻,指出神的国如同一粒芥菜种,起初虽微不足道,却能长成大树,让飞鸟栖宿于其间;又如同面酵,虽在看不见之处慢慢发酵,最终却能使全团面都发起来。耶稣的这些教导,正与末世论的异象相连。张大卫牧师谈到:“我们教会一直通过四律,也不断教导信徒不可失去对神之国的盼望;只要得救的人,自然就会渴望去恢复那失落的乐园。这种渴望也凝聚在《主祷文》里‘愿你的旨意行在地上,如同行在天上’的祈祷之中。” 由此可见,基督论确立“谁是救主”,救恩论说明“如何得救”,末世论则指示“得救者最终应盼望怎样的国度”,三者在三位一体的结构中交互关联。张大卫牧师透过基督论强调:唯有耶稣才能成为我们得救的根源;透过救恩论使人察觉:人必须全然依靠恩典;透过末世论提醒我们:如今此时此刻,我们也当顺服神、传扬福音,好使他的国度不断降临。他还指出,这些教义若只停留在知识层面,就难以使神的国在现实中彰显,唯有当信徒真正付诸行动时,神的国才真正在我们的生活里被实践。 正是在这样的大前提下,张大卫牧师所领导的教会和事工,始终致力于夯实基督信仰的根基。他多年在牧会与宣教现场反复提及,教义的重要性就像身体的骨架。骨架若健全,身体才能健康地运作;照样,只有坚守耶稣的身份与救赎方式,以及直至末世的神之计划,信徒才不会动摇,也能在世人面前活出正确的生命见证。这种教义根基也正是实践“先求他的国和他的义”这一主命的基础所在。张大卫牧师强调,历世历代的基督徒都应在此真理面前常常反省:“我到底将什么放在优先地位?我是否真正为神的国忠心摆上?”这不仅是过去或将来的某个瞬间,而是一生之久需要不断自我追问的问题。 归根结底,他解释道:“我们研究末世论的目的,并非为了揣测‘日期与时辰’,或满足对世俗事件的好奇心。”唯有真正盼望耶稣所完成的神之国,相信这国度已经开始降临,并在地上传扬福音、活出公义来彰显神的统治,这才是末世论信仰的真谛。末世并不意味着毁灭,而是代表耶稣要完全恢复“新天新地”的应许。正因为如此,张大卫牧师大力强调,每个信徒都应当怀抱神国的梦与盼望。“神的国降临时,不义充斥的世上必将出现如同古代先知所见‘公义如大水滚滚’的景象”,我们当在当代承续先知异象,把焦点从对物质或短暂成功的追逐,转向对永恒神之统治的瞩目。 Ⅱ. “先求他的国和他的义” 基于对《马太福音》6章33节的默想,张大卫牧师具体解读了耶稣这句“你们要先求他的国和他的义”对于当代基督徒的实际意义。人们常常将这句话过度灵意化或抽象化,仿佛可以忽视现实需要。但张大卫牧师指出,耶稣之所以在《马太福音》第6章里教导“不要为吃什么、喝什么、穿什么忧虑”,并不是让我们完全忽视这些需求,而是强调“有一个更重要的优先顺序”。他在讲道和授课时不断提醒:“饮食和衣物当然必需,但神的国拥有更高、更绝对的价值。” 这里需要关注的是,耶稣在《马太福音》6章一整段经文里,责备了人对财富与外在的过度执着,并呼吁人要凭信心全然倚靠神。张大卫牧师常以旧约的以利亚事件作为典型例证。当《列王记上》17章1-16节提到以色列遭遇大旱之时,神吩咐以利亚去基立溪边,让乌鸦供养他;后来又让他到西顿的撒勒法寡妇那里。这位寡妇原本只剩一把面粉与一点油,计划做成饼给自己和儿子吃了就等死。然而以利亚凭着神的话说:“先给我做一个小饼。”寡妇在信心中顺服,结果她那坛中的面和瓶里的油,竟在降雨之前都没有短缺过。 张大卫牧师将此事阐释为:“倒空的信心(kenosis, ἐκένωσεν),能带来神迹。”对于撒勒法寡妇而言,将那最后的粮食先拿出来献给以利亚,等同于葬送自己的生路。但她因相信先知所传递的神言,甘愿将那微不足道的饼分出来,结果与儿子一同经历了大旱之年不缺乏的奇妙恩典。张大卫牧师把它视为《马太福音》5章6节“饥渴慕义的人必得饱足”以及《马太福音》6章33节“先求神的国,就蒙加添”在旧约中的具体实践。换言之,即使从现实来看似乎不可能,但若人甘愿为神的国而作出信心决断,就能在日常生活中经历神真实的供应与“奇迹的法则”。 同样的道理也可在新约找到,那就是“五饼二鱼的神迹”。记录在《路加福音》9章10-17节的这段经历,亦出现于四福音书中,可见其重要性。当时荒野(旷野)里聚集了许多群众,却缺少足够的食物。耶稣对门徒说:“你们给他们吃吧。”门徒却说:“我们只有五个饼,两条鱼。”当时的饼不过是粗糙普通的大麦饼,鱼也可能是杂七杂八的小鱼。但耶稣拿起来祝谢后交给门徒分给众人,结果,单单男人就约五千人吃饱,而且还剩下十二篮碎屑。 张大卫牧师认为,这一幕再次形象说明“寻求神的国与神的义的人,如何也会在物质与现实层面得着丰盛供应”。那区区五个大麦饼与两条小鱼的全部被交给主的“倒空”态度,却得到惊人的“充满”回馈。这不仅是一次神奇的历史事件,更象征了一条普世性的灵性真理:凡把自己所有献给神、为神的国尽心的人,将会经历出人意料的恩典。尽管并非每位信徒都会亲眼目睹“五饼二鱼”般的数千人分食奇迹,但无论在属灵层面或现实需要上,都能相信上帝必定看顾与供应;对那些为神的国摆上者,更会有意想不到的恩典相随。张大卫牧师对此深信不疑,并不停地教导信徒要如此生活。 借由旧约与新约这两大案例,我们可以领会圣经中“饥渴慕义的人有福了”的反常之逻辑。张大卫牧师会进一步反问:“若从人性的常理看,要得饱足就该去找更多面包,为什么要‘求义’呢?”他指出,耶稣这番话背后隐藏着远超物质福气的深奥属灵原则:“抛下自私贪念及计算得失,顺服神的话语时,神就会预备一切所需。”他强调自己在个人经历与教会事工里,都无数次体会到这真理的实在。“无论是财务困境、事工挑战或人际冲突,只要信靠神并把优先顺序放在他的国度上,神就会亲自介入。”这种宣告绝非单纯的理念,而是有圣经历史与他多年牧会现场见证为根基。 因此,张大卫牧师不断提醒基督徒,切莫把世俗的成功与金钱当作终极目标,而应当成为“饥渴慕义的人”。所谓“饥渴慕义”,指的是对神国度之公义在地上实现的殷切期盼;愿意为此祷告、摆上、在个人与社会环境中努力让神的统治彰显。张大卫牧师常把这种状态形容为“干渴”,意思是灵里对神极度的饥饿与渴慕。不仅不会让人陷入真正的穷乏,反倒会因天上的恩典而得着极大的满足。纵观圣经与教会史,各种见证都佐证了这一点。 张大卫牧师也频频提及《马太福音》6章19-20节“要积攒财宝在天上”一语——此处提醒人们,地上的财富、名誉、权力终有消逝的一天,唯有为神的国度所作的劳苦与献身,才成为天上那永不朽坏的赏赐。这正是耶稣所说“要把财宝积攒在天上的真正含义”。尽管从人的角度看,能看见、能触摸的或许更让人觉得“真实可靠”,但对张大卫牧师而言,更确实、更有根基的世界是神的国。他自己在牧会和宣教中,极力投入时间、财力与恩赐,就是因为坚信那更荣耀、更持久的价值。虽然不是每个人都能轻易作出如此选择,但他见证说,凡真心踏上这道路的信徒,都会经历神以各样方式大大充足供应的事实。 因此,在各种教会会议或聚集里,张大卫牧师常问:“我们究竟把什么列在最优先的位置?”“我们是否只忧虑现实问题并追逐财务,而忽略了为公义劳苦、传扬福音的事?”这是任何个人与群体都需严肃对待的问题。其所引用的《马太福音》6章25节“生命不胜于饮食吗,身体不胜于衣裳吗”,实际上正是提醒我们:“最重要、最根本的价值在哪里?”耶稣举空中的飞鸟与地里的百合花为例,宣告天父必看顾与供应,叫人不要被物质束缚。张大卫牧师在讲道中屡次强调:“神不仅知道我们的需要,也有足够的能力供给。那我们又何必惧怕呢?” 他在牧会现场还特别指出:“完全信靠这话语的人,绝不会变得懒惰或放纵。”因为“神会供应”这信念并不意味着坐等不动,反倒让人能够更勇敢地奉献,更积极地寻求公义。换句话说,真心相信“你们要先求神的国和他的义”的人,不会被世人评价或金钱匮乏所吓退,反而能更大胆地传扬福音、行善助人。 那么,如何具体活出“为神的国与他的义”呢?从张大卫牧师的事工实践中可见,关键在于“敬拜、顺服神的话,以及对邻舍实践积极的爱”。教义不是书本上的理论,唯有在生活里遵行耶稣的教导,才能让骨架长出筋肉与血脉。他指出,通过敬拜,我们经历神是谁、基督的救恩有多大、圣灵更新世界的能力如何强大;藉着神的话语,我们在不公不义的现实面前,能做出正确判断与抉择;而通过爱人如己,我们则成为“让公义如大水滚滚”的神国同工。张大卫牧师将此称为“神国子民的生活”。 他常在聚会中回顾教会28年来的事工历程,见证了神如何在外在威胁、财务匮乏、诸多打击当中,依然带领他们稳步前行。这让他联想到旧约里的以利亚、撒勒法寡妇,以及新约里在旷野经历五饼二鱼神迹的群众——仿佛历史一次次见证了“先求神的国和他的义”的人,总能得着“神奇妙而丰盛的供应”。正是这个信念,让他坚持地教导信徒:神在今天依然行神迹,只要我们甘心把眼前的“一点油与面”或“五个饼两条鱼”献给主。 由此可见,《马太福音》6章33节“你们要先求他的国和他的义”这话语,是支撑旧约与新约,并贯穿整个教会历史的重要支柱之一。张大卫牧师的牧会实践也以此为轴心,基于基督论、救恩论与末世论,最终引向对“神的国”的展望。他警惕当代教会切勿在物欲与世俗思潮中迷失,务必回归教会的本职:传福音、行公义,以及爱护失丧灵魂。“愿你的旨意行在地上,如同行在天上”(主祷文)要成为实际,而这个实现的途径,就是信徒个人先在优先顺序上作出调整,对神的国怀抱强烈的饥渴之心。他坚信,凡走在这条道路上的人,必经历神更大、更丰富的供应。 正是基于这种思考,他在即将到来的两周后教会大会或宗派聚集中,呼吁大家一起省察:“我们是否在过去的28年里,把神的国作为第一位,还是只关注物质和人的安逸?”并且他再次强调,若有人真心寻求神的国与他的义,务必要在事工和生活中展现出实际行动。他回顾过去7年、10年或更久以来的道路,劝勉人们想想:“在种种不足与危机中,我们却总能见证神怎样带领我们。”他将这些见证视为现代版的以利亚、撒勒法寡妇,以及五饼二鱼在旷野所显的神迹,皆共同指向“神的丰盛”。 张大卫牧师所要传达的信息很明确:要做“饥渴慕义的人”。《马太福音》5章6节和10节的“饥渴慕义的人有福了,因为天国是他们的”这句话,虽看似矛盾,却蕴藏着极大力量。并非物质匮乏让人痛苦,而是对神的义没有渴慕、对神的国没有longing,才会使灵魂干涸;反之,无论外在环境如何困苦,“先求神的国,并为公义受苦”的人,实际上就是“得饱足、真富有的人”。他不断重复这一信息,是盼望教会不只变成一个宗教组织,而是真实活出神国群体的样式。 当今社会充斥着各式不义与冲突,人们也看见教会未能成为避难所,反而受世俗逻辑摆布。每逢目睹此种景况,张大卫牧师就再一次呼吁要记起“先求他的国和他的义”。神的国降临之意,就是终结地上的不义,让贫穷者得福音,好叫病患得医治,耶稣成为万物的主宰并带来全然复兴。倘若教会宣扬这宏大的异象,信徒则在各自岗位上以诚实、慈爱和怜悯行事,并见证耶稣基督,世人就能稍稍体验到神之统治。而在此过程中,我们也从对“吃什么、喝什么、穿什么”的忧虑中释放出来,进入神所赐的丰盛。 为此,张大卫牧师长期在教会中倡导彼此鼓励、用神的话和祷告装备自己,并积极开展各类善行事工。他常提及:“教会若能恢复应有的基督样式,就能影响并改变世界。”从末世论角度看,末世并不是世界最终被战争或灾难毁灭的恐怖结局,而是指望着耶稣再临时神的国被完全实现;教会如今要先活出这国度的雏形,好让周边的社会看见老旧生命与新造生命在交汇时所迸发的冲击。就像耶稣的首次降临使B.C.与A.D.分野一样,当教会彰显真实的福音能力时,身处周围的人也会目睹到某种“崭新的创造”正在人间展开。 现今教会要做的事十分明确:谨记“你们要先求他的国和他的义”,并在一切生活层面优先实践神的国度价值,坚决不与不义妥协。即便这条路时而艰辛,但就像乌鸦为以利亚叼来食物,又或撒勒法寡妇那瓶油、那坛面的奇迹,还有旷野上五饼二鱼所喂饱的许多人一样,信徒可天天在神迹般的恩典中生活。张大卫牧师相信,这种确据会从个体的摆上延伸至整个群体的异象,最终成就对神之国“末世性完成”的渴望。 张大卫牧师始终强调的基督论、救恩论、末世论,并非各自为政的教义,而是彼此交织的有机整体,而它们的核心就在“神公义的统治”。这统治由耶稣基督的献身与复活拉开序幕,借助圣灵的大能拓展,一路迈向末世性的圆满。因此,教会与信徒当时刻把神的统治放在首位,并为这公义甘愿倒空自己。如此便能经历各样需要都被神丰盛供应的应许。“饥渴慕义而活”的呼召,并非沉重的负担,而是上帝儿女最自由、最有福的生命方式。张大卫牧师通过无数例证与见证说明,这条道路不仅在圣经里真实,也在当代不断上演;他也号召教会在今后更加坚定地踏上这条朝向神国之路。 今日,张大卫牧师对这个时代的信息依然简单明晰:神的国不只是“将来死后才去的地方”,而是借耶稣基督的统治当下且未来都要成就的国度。“先求他的国和他的义”是教会存在的理由,也是每位信徒的呼召。唯有牢牢抓住这个命令,教会才能作盐作光;信徒也能真正享受“饥渴慕义且得饱足”的属灵满足。张大卫牧师相信,无论现实如何黑暗或艰辛,只要我们愿意像那孩童交出“五个饼和两条鱼”一样献上自己,神今日仍然行神迹,那神迹就是我们所“积攒在天上的财宝”,终必在末世性的圆满里被神所悦纳,成为永恒的果实。正因如此,他呼吁教会与信徒一同努力向世人传福音、践行公义,并在此过程中不断领受“愿你的旨意行在地上,如同行在天上”的丰盛恩典。相信随着我们在这个方向上同心合力,神的国必在现今与将来更丰盛地显现,让所有信徒都能共享那份喜乐与盼望。 www.davidjang.org
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神の国 – 張ダビデ牧師
Ⅰ.キリスト論・救済論・終末論を通して見る神の国 張ダビデ牧師は、教会史と聖書の核心的真理を強調しながら、キリスト論・救済論・終末論という三つの教理がいかに緊密に結びつき、「神の国」という一点へと繋がっていくかを説いてきた。まず彼によれば、キリスト論とは「イエスとはいったいどなたなのか」という問いから出発するという。教会は歴史を通して、「イエス・キリストは真の神であり、真の人である(veredeus verehomo)」という結論をニカイア公会議(325年)やカルケドン公会議(451年)などを通じて整理してきた。張ダビデ牧師は、この決定がキリスト論の理解において非常に重要だと語る。イエスは罪のない聖なる神でありながら、人間のあらゆる苦しみや弱さを直接に担われた真の人でもある。この神秘的な両面性を正しく理解することが、結局のところ救済論を正しく受け入れる土台になると、張ダビデ牧師は強調する。 彼によれば、イエス・キリストが神であることを否定したり、キリストの人性を縮小してしまうような神学的立場は、最終的にはキリスト論の骨格を崩し、救済論へと正しく進むことを妨げてしまうという。歴史的な1517年の宗教改革に触れながら、張ダビデ牧師はルターやカルヴァンなどの改革者たちが「救いはただ信仰によって(Sola Fide)、ただ恵みによって(Sola Gratia)のみ可能である」と宣言した事実を重視している。これは中世の教会が聖書の教えから離れ、「信仰と恵み」だけで与えられる救いに、他の要素を混ぜ込んでしまった結果、信仰が希釈され歪められていたことを正そうとする叫びだったと彼は言う。張ダビデ牧師は「宗教改革の救済論は、厳密に言えば『聖書に立ち返ろう』という訴えだった」と力説する。だからこそ改革派教会が主張する「信仰のみ、恵みのみ」という救済論は、極めて聖書的で正しい教理だと言えるのだと彼は語る。そして教理とは単に教会の教材や教育資料に留まるものではなく、実際に信徒の生活の中でいのちある力として働かなければならないとも付け加える。 張ダビデ牧師はさらに、キリスト論と救済論は比較的よく整理されている一方で、終末論に関しては教界内でも意見が分かれることが多いと指摘する。「終末論が扱う核心的テーマは『時と期間(Time and Date)』である」と述べつつ、ここで言う「時(Time)」はギリシア語でクロノス(Chronos)、「期間(Date)」はカイロス(Kairos)だと解説する。クロノス的時間は量的で連続する時間概念を指し、カイロスは決定的な出来事が起こる質的な時を意味する。聖書においてイエスの再臨は、この「カイロス的出来事」に相当すると張ダビデ牧師は言う。その決定的な出来事によってイエスが地上に来られた時(B.C.とA.D.が分かれるその時点)は、歴史そのものを分割する。したがって終末論が最終的に取り扱うのは、この地に神の国が完成へと至る過程と、その具体的瞬間であるということだ。 張ダビデ牧師によれば、聖書は終末に関する具体的預言と、その不確実性、そしてイエスご自身の言葉を通して、「その時と期間はただ神だけがご存じである」ことを信者に教えている。使徒の働き1章7~8節におけるイエスの言葉がまさにそれを示している。「時と期間は父が御自分の権威によって定められたのであって、あなたがたの知るところではない。ただ聖霊があなたがたに下るとき、あなたがたは力を受け、地の果てにまで福音を伝えよ」という命令である。張ダビデ牧師はこの言葉に着目し、終末論に関心を持つことは大切だが、誤った終末予測や恐れにとらわれるのではなく、むしろ今この地で福音を証しし、神の国を準備する積極的な態度こそが真の終末論的生き方だと説く。 では「神の国」とはどのような姿なのか。張ダビデ牧師は、創造―堕落―救い―神の国へと続く救済史の流れを、「四つの法則(いわゆる四つの霊的原則=四永理)」という方式を用いてしばしば説明する。人間は本来、神が創造されたエデンの園、すなわちパラダイスで暮らすはずだったが、罪によってそこから追放された存在となった。しかしヨハネの福音書3章16節に示されているように、神は独り子イエス・キリストを送ってくださり、人間に永遠のいのちを与えてくださった。そしてその救いの最終目的地は「神の国の回復」にほかならないと張ダビデ牧師は言う。使徒の働き1章6節で弟子たちが「イスラエルの国を回復してくださるのはこの時なのですか」と尋ねているのも、結局は失われた国―すなわち神が統治される義なる世界の回復を望んでいることと通じている。人間の魂の奥底には、失われたエデンを懐かしむ思いがあり、それが「天国への本能的な望み」であると彼は解釈する。そしてその完成の時期は私たちには分からないが、イエスの再臨によって確実に実現すると力強く語る。 特に張ダビデ牧師は、神の国の教理の核心の一つとして「義」の問題を強調する。マタイの福音書6章33節で「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはすべて加えて与えられる」と語られているように、神の国は正義に満ちた場所なのだとする。不義な勢力はいずれ力を失い、神が直接統治されるとき、「正義が大河のように流れる世界」(アモス5章24節参照)が完全に展開される。張ダビデ牧師は、神の国とは単なる抽象的概念ではなく、現実の歴史と私たちの日常の中で、不義に立ち向かい義を打ち立てよという命令とともに到来していく神の統治だと考えている。彼が歩んできた宣教・牧会の方向性も、「まず神の国と神の義を求めなさい」という教えを教会と信徒たちが実際に実践できるように導くことに重きを置いてきた点を、彼自身が繰り返し強調している。 張ダビデ牧師は、人々の日常的な関心が主に財産や物質的豊かさに向かっている事実を指摘する。主のお言葉によれば、人間は「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」と過度に悩むが、いざ神の国のために献身し仕え、義のために苦しみを受けることには消極的になりがちだというのである。マタイの福音書6章19~20節でイエスは「あなたがたのために、地上に宝を積むのではなく、天に宝を積みなさい」と語られた。張ダビデ牧師はこの聖句を挙げながら、本当の価値はこの地上の所有に限られず、永遠の国に蓄えられることを決して忘れてはならないと説く。それこそが「義に飢え渇く者は満たされる」(マタイ5章6節)という逆説を体験する道であり、最終的に神の国と義のために生きる人々には、神がすべてを加えてくださる恵みをイエスご自身が約束しておられるのだ、と語る。 ではイエスが語られる神の国は具体的にどのように到来するのか。張ダビデ牧師は、マタイの福音書13章などに登場する天国のたとえ話を例に挙げながら、神の国は小さなからし種のようなもので、初めはほとんど目立たなくても、成長すると非常に大きな木になり、空の鳥が巣くうほどになると教えられた点に注目する。また、パン種(イースト菌)のたとえを通して、神の国は見えないところで少しずつ働いて、ついには全世界を変えていくというイエスの教えが、まさに終末論的ビジョンに繋がっているのだと見る。張ダビデ牧師は「私たちの教会はいつも四永理とともに、この神の国への希望を失わないように教えてきた」と述べ、救われた人なら誰でも自分が回復すべきパラダイスを切望するようになり、その切望こそが「主の祈り」にある「御心(みこころ)の天におけるごとく、地にもなさせたまえ」という願いに結集すると解説する。 そう考えると、キリスト論は「誰が救い主なのか」を確立し、救済論は「どのように救われるのか」を示し、終末論は「救われた者たちが究極的に見つめるべき国は何か」を明らかにするという三位一体的構図の中で互いに連動していることが分かる。張ダビデ牧師は、キリスト論を通して救いの根拠がただイエスにあることを確かにし、救済論を通して人間がいかに全面的に恵みに依るべきかを自覚し、終末論を通して今この瞬間にも神の統治が及ぶように私たちが従順し、伝道しなければならないという真理を思い起こさせる。そしてこれらの教理は単に知識として留まるのではなく、信仰の実践として現れるとき、初めて神の国が私たちの現実に具現化されると強調する。 こうした文脈において、張ダビデ牧師が率いる教会や諸活動は、キリスト教信仰の本質的土台を築くことに力を注いできた。彼は長年の牧会と宣教の現場で教えながら、教理の重要性がちょうど身体の骨格のようなものだと繰り返し語ってきた。骨がしっかりしていてこそ、身体全体が健康に動くように、イエスのご人格と救いの方式、そして終末に至るまでの神の計画を堅固に掴んでこそ、信徒たちは揺るがされずに世に向かって正しく生きることができるというのである。このような教理的基礎こそが、「まず神の国と神の義を求めなさい」という主の言葉を自ら実践するための土台と言える。張ダビデ牧師は、すべての時代のキリスト者が、この言葉の前で自分自身を振り返るべきだと力説する。「はたして私は何を優先順位に置いているのか。神の国のために本当に献身しているのか」という問いは、単に過去や未来の一時期だけの問題ではなく、人生全体を貫く問いであるというのである。 最後に彼は、「私たちが終末論を学ぶ理由は、『時と期間』を突き止め、世の出来事に対する好奇心を満たすためではない」と語る。イエスが完成してくださる神の国を慕い求め、その国がすでに始まっていると信じつつ、この地で福音を伝え、義の生活を通してその統治を実現していくこと、これこそが真の終末論的信仰である。終末は破滅を意味するのではなく、イエスが完全に回復してくださる「新しい天と新しい地」の成就を意味する。だからこそ張ダビデ牧師は、私たちが日ごとに抱くべき神の国の夢と希望を強調する。「神の国が臨むとき、不義に満ちたこの地に正義が大河のように流れる」という旧約の預言者的ビジョンを、現代に生きる私たちも受け継ぎ、物質や一時的な成功ではなく、永遠の神の統治に目を注ぐべきだ、と強く訴えるのである。 Ⅱ.「まず神の国と神の義を求めなさい」 張ダビデ牧師はマタイの福音書6章33節に対する黙想を土台に、「まず神の国と神の義を求めなさい」というイエスの言葉が、この時代を生きるすべてのキリスト者にとってどのような意味を持つかを具体的に解説する。人々はしばしばこの御言葉をあまりに霊的あるいは抽象的に解釈してしまい、あたかも現実の必要を無視してもよいかのように誤解することがある。しかし張ダビデ牧師によれば、イエスが「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」を心配するなとおっしゃったとき、それ自体を軽んじよというのではなく、「もっと大切な優先順位がある」ことをはっきり教えられたのだという。彼は説教や講義で、「食物や衣服も必要だが、神の国はそれ以上の絶対的価値を持っている」という観点を常に提示している。 ここで注目すべきは、イエスがマタイの福音書6章全体で批判している「財産や外面的なものへの過度な執着」を捨て、信仰を通して神への完全な信頼を置けと勧めている点だ。張ダビデ牧師はこの教えに関連して、旧約のエリヤの物語を代表的な例として挙げる。列王記第一17章1~16節を読むと、イスラエルの地に干ばつが起こった際、神はエリヤにケリテ川のほとりへ行き、カラスの供給を受けさせた。その後、シドンの地のツァレファテのやもめのもとへ導かれたが、やもめもまた干ばつによって最後に残った一握りの粉と少しの油でパンを作り、自分と息子がそれを食べて死のうとするような状況だった。しかしエリヤは神の言葉を信頼し、「まず私にパンを作ってください」と頼み、やもめも信仰によってそれに従った。その結果、雨が降るまで粉壺と油壺が尽きることのない奇跡が起こった。 張ダビデ牧師はこの出来事を指して、「空にする信仰(ケノーシス、kenosis)が最終的に奇跡をもたらす」と解釈する。ツァレファテのやもめにとっては、その最後の食糧すら差し出せば、今すぐ飢えて死ぬ危機に陥る恐れがあった。しかし神の人が告げる言葉への信頼があったので、やもめはそのわずかばかりの粉と油をまずエリヤに差し出し、その結果、自分の息子とともに何日も十分に食べても足りるほどの恵みを体験したのだ。張ダビデ牧師はこれを「義に飢え渇く者は満たされ、まず神の国を求める者にすべてが加えられるという主の言葉を、旧約の出来事を通して体感する事例」だと説明する。つまり、現実的に見て不可能に思える状況であっても、信仰をもって神の国のための決断を下すとき、日常生活において神の供給がなされる「奇跡の力学」を経験できるという。 同様の論理を新約聖書からも見出せる。それが「五つのパンと二匹の魚の奇跡」である。ルカの福音書9章10~17節に記されたこの出来事は、四福音書すべてに登場する非常に重要な奇跡である。荒野(人里離れた場所)に集まった大勢の群衆に食べ物が足りないとき、イエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物をあげなさい」と言われた。しかし弟子たちは「パン五つと魚二匹しかありません」と答える。当時のパンは粗くて素朴な大麦のパンであり、魚も雑多な小魚であった可能性が高い。ところがイエスはそれを受け取り、祝福の祈りを捧げたうえで弟子たちに配るよう命じられた結果、男だけで約五千人が食べてなお、十二のかごが余るほどの豊かな奇跡が起こった。 張ダビデ牧師によれば、この場面も「神の国と神の義を求める者の生き方が、いかに物質的・現実的な必要までも満ち溢れるようにされるのか」を示す鮮やかな例証だという。パン五つと魚二匹という、取るに足らないすべての資源を主に差し出す「明け渡し」の姿勢こそが、大いなる「満ち溢れ」へと繋がる。これは単に神秘的で一度限りの出来事ではなく、信じる者が神に仕える際にいつでも経験しうる普遍的真理を象徴しているのだ。もちろん、すべてのキリスト者が「五つのパンと二匹の魚」さながら、何千人分もの食糧が奇跡的に増える体験をするわけではないが、霊的な面でも日常の必要においても、神が常に満たしてくださるという確信、そして神の国のために献身する者には思いがけない恵みが注がれるという真理は変わらない、と張ダビデ牧師は強調する。 こうした旧約と新約の物語から、「義に飢え渇く者は満たされる」という聖書の逆説が読み取れる。張ダビデ牧師は「人間的な理屈で考えるなら、満たされたいならパンをもっと集めるべきではないか。なのになぜ義を求めるのか」という問いを提示し、イエスの言葉には単なる物質的祝福を超えた深遠な霊的原理があると解説する。それはすなわち「自分の欲望や損得勘定、恐れを捨て去り、神の言葉に従うとき、神はすべてを備えてくださる」ということである。張ダビデ牧師自身、この原理が今日でも有効であることを身をもって体験し、教会共同体の中でそれを実際に適用してきた。彼が「財政的な困難や宣教的、人的な問題に直面しても、神を信頼し、その国を優先すれば、結局神が扱われる」と説いてきたのは、単に観念的な信念ではなく、聖書の歴史的出来事や彼の宣教現場での経験に根ざしているのだ。 このような文脈で、張ダビデ牧師はキリスト者が世的な成功や物質を最終目的とせず、「義に飢え渇く者」となるべきだと繰り返し強調する。「義に飢え渇く」とはつまり、「神の国の正義がこの地に実現することを切に求める」ことであり、「私たちの生活や社会、そして世界の中で神の統治が表されるように祈り、献身する」決断を意味している。彼はこれを「渇望」という言葉で言い表すことがあるが、霊的な渇望は私たちを決して困窮に追いやるのではなく、むしろ天の恵みに満ちあふれさせるのだという点が、聖書や教会史のさまざまな例から証明されていると主張する。 張ダビデ牧師はまた、「天に宝を積みなさい」というマタイの福音書6章19~20節の教えを改めて喚起し、この地上で私たちが追い求める財産や名誉、権力は、いずれ消えてしまうものにすぎないが、神の国のための労苦や献身は決して消えない永遠の報いになると語る。これこそが「天に宝を積む」というイエスの言葉の現実的意味なのである。私たちは往々にして目に見えるものだけが確かだと思い込むかもしれないが、張ダビデ牧師にとってそれより確かな世界は神の国である。彼はその国のために時間や財産、才能などを惜しまず捧げてきた姿を牧会と宣教のあらゆる場面で示しつつ、「誰でも本気でその道を選ぶなら、神が必ず満ち溢れるように満たしてくださる体験をする」と証しする。 そこで張ダビデ牧師は、教会の総会や各種集会の場でいつも「今、私たちは何を優先順位に置いているのか」と問う。「私たちは現実的な問題だけを考え、財源を追い求めるばかりではないか。それとも義のために労を惜しまず、福音を伝えるために献身しているのか」という問いは、個人にも共同体にも必ず振り返る必要のあるものである。彼が注目するマタイの福音書6章25節以下の「いのちは食物よりも大切ではないか。からだは衣服よりも大切ではないか」という言葉は、「最も重要で根本的な価値とは何か」を私たちに問いかけてくる。空の鳥や野の花を例に挙げながら、「神は私たちの日常的必要を満たす方なのだから、物質に縛られて生きるのをやめなさい」とおっしゃるイエスの勧めは、むしろ私たちに自由と喜びをもたらす。張ダビデ牧師はこの箇所を説教するたびに、「神はすでにあなたがたに必要なものを知っておられ、それを満たすことがおできになる方だ」ということを繰り返し思い起こさせながら、「それなら何を恐れる必要があるのか」と問いかける。 さらに彼が牧会の現場で強調するもう一つのポイントは、「この御言葉を完全に信じる者は、決して怠惰や放縦に陥らない」という点である。「神が満たしてくださる」という信仰は、ただ手をこまねいている態度ではなく、「神の国のためにより大胆に献身し、より積極的に義を求めるための力」となる、と張ダビデ牧師は解説する。すなわち「あなたがたはまず神の国と神の義を求めなさい」というイエスの言葉を真に信頼する者は、世間の評価や物質不足への恐れによって尻込みすることなく、むしろさらに大胆に福音を伝え、善を行うことができるという意味だ。 では、どのようにすれば具体的に神の国のために義を求める生き方ができるのか。張ダビデ牧師の歩みを通して見ると、その答えは常に「礼拝と御言葉への従順、そして隣人に対する積極的な愛」に集約される。教理は理論ではなく、日々の生活の中でイエスの教えを実践するときこそ、骨格に肉がつき血が巡るという言葉が、このことをよく説明している。礼拝を通して私たちは神がどのような方か、イエスの救いがいかに大いなる恵みか、そして世界を新しくされる聖霊のわざがいかに力強いかを体験する。また御言葉によって、不正な現実に直面した時に正しい判断と決断をするための洞察を得る。最後に隣人を愛することによって、私たちは「正義が大河のように流れる世界」を準備する神の同労者となっていく。張ダビデ牧師はこれこそ「神の国の民としての生き方」だと呼ぶ。 彼は「28年という長い宣教・牧会の歩みの中で、教会がどれほど『神の国と神の義』を求めて走ってきたかを振り返ろう」と述べつつ、神の満たしを体験したさまざまな証しを語ってきた。外部からの脅威や物質的不足、数えきれない落胆要素があったとしても、むしろそうした状況だからこそ一貫して神を信頼し、その道を守り通してきたのだ、と彼は告白する。エリヤのもとにやってきたカラスの食料やツァレファテのやもめの油、そして荒野で起こった五つのパンと二匹の魚の奇跡が、現代にも再現されるのは、この「まず神の国と神の義を求める信仰」のゆえだと張ダビデ牧師は説く。 結局、「まず神の国と神の義を求めなさい」というマタイ6章33節の言葉は、旧約と新約を貫き、教会の歴史全体を支えてきた重要な柱のようなものだ。張ダビデ牧師の牧会的実践もまた、この言葉を軸に据えて、キリスト論・救済論・終末論に基づき、究極的には「神の国」というビジョンを提示してきたのである。彼は現代の教会が物質主義や世の風潮に揺らぐことを警戒しながら、教会が本来の使命である福音宣教、義を追い求める生き方、そして失われた魂への愛を新たに掴むように挑戦を投げかける。「御心が天で行われるように地でも行われますように」という主の祈りの願いが現実化する道は、一人ひとりの信徒がまず自分の優先順位を見直し、神の国への渇望をもって進むことにある。その道を歩むすべての者に、神の供給は常にあふれるほど注がれる、と張ダビデ牧師は確信している。 そこで彼は「2週間後にある総会や教団の大きな集まりを準備するにあたり、私たちは何を振り返り、どう決断すべきなのか」と問う。「28年という時間の中で、果たして私たちは神の国を優先してきたのか、それとも物質や人間的安定に偏ってこなかったか」という問いを、信徒たちと共に深く考えようというのである。そして本当に神の国と義を求める者たちなら、その優先順位を実際の生活と働きの中で証明しなければならない、と繰り返し訴える。張ダビデ牧師は「過去7年、10年、あるいはそれ以上の歩みを振り返ってみると、数多くの欠乏があったにもかかわらず、いかに神が私たちを導いてくださったか、皆それぞれに証しできるはずだ」と言い、それらのストーリーは、まるでエリヤとツァレファテのやもめ、そして荒野で五つのパンと二匹の魚で起こされた奇跡のように「神の豊かさ」へと集約されているのだと感じる、と語る。 張ダビデ牧師が強調する点は明確である。「義に飢え渇く者」になれ、ということだ。「義に飢え渇く者は幸いである。天の御国は彼らのものだから」というマタイ5章6節・10節の言葉は、逆説的でありながら力強い。私たちは往々にして、物質的に乏しいから不幸なのではなく、神の義を渇望せず、その国を慕い求めないからこそ、霊的に乾いているのかもしれない。逆に、現実の状況がどうであろうと、神の国を求め、義のために苦難を受ける人はすでに「満ち足りた人、豊かな人」だ、と張ダビデ牧師は宣言する。彼がこのテーマを繰り返し説教し、教えている理由は、教会が単なる宗教組織ではなく、本当の神の国の共同体へと成長するための核心だからである。 今日、私たちは社会的な不正や対立のただ中で、教会が避難所とならず、世の論理に振り回される姿をも見る。こうした状況に直面するたびに、張ダビデ牧師は改めて「まず神の国と神の義を求めなさい」という言葉を思い起こすべきだと訴える。神の国が臨むとは、すなわちこの地の不正が終わりを告げ、貧しい者が祝福を受け、病む者が癒やされ、イエスが主となられて万物を回復されることを意味する。教会がこの壮大なビジョンを宣言し、一人ひとりの信徒がそれぞれの場所で正直と愛と慈しみをもって行動し、イエス・キリストを証しするとき、世は初めて神の統治の一端を味わい始める。そしてその過程の中で私たちは、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という心配の束縛から解放され、神が与えてくださる豊かさを得るのである。 張ダビデ牧師はそのために、教会共同体の中で互いに励まし合い、御言葉と祈りによって武装し、世に善き影響を及ぼす多様な実践的働きを行ってきた。彼が繰り返し語る命題は「教会が教会らしさを取り戻すとき、世も変わる」という確信だ。これは終末論的な観点からも、ただある瞬間に戦争や災害によって世が終わってしまうという恐怖ではなく、イエスの再臨によって完全に完成する神の国を、今ここで先取りして生きる教会の使命と結びついている。イエスの初臨によってB.C.とA.D.が分けられたように、教会が真の福音の力を示すとき、周囲の社会は古い生き方と新しい創造が交差する瞬間を目撃するというのだ。 今や教会がなすべきことは明白である。「あなたがたはまず神の国と神の義を求めなさい」という言葉を思い起こし、実際にすべての生活の優先順位を神の国に置き、義を打ち立て、不義と妥協しないことである。これは時に困難を伴うかもしれないが、エリヤが天からの糧を備えられ、ツァレファテのやもめが最後の粉と油によって豊かさを享受し、荒野の群衆が五つのパンと二匹の魚で満ち足りたように、キリスト者は日々奇跡の中を生きられると、張ダビデ牧師は確信する。その確信は、個々人の献身から共同体全体のビジョンにまでつながり、究極的には「神の国がこの地に臨むのを望む」という終末論的な待望へと集約される。 張ダビデ牧師がこれほどまでに強調するキリスト論・救済論・終末論は、切り離された教理ではなく、密接に繋がる有機体であり、その中心には「義なる神の統治」がある。この統治はイエス・キリストの犠牲と復活によって始まり、聖霊の力によって拡大され、終末論的完成へと進んでいく。ゆえに教会と信徒たちは、いつでもこの統治を最優先に求め、その義のために自らを空しく差し出すとき、結果としてあらゆる必要が満たされ、さらに余りある「神の供給」を体験することになる。「義に飢え渇いて生きよ」という挑戦は、決して重苦しい負担ではなく、神の人として最も幸いで自由な生き方なのである。張ダビデ牧師は、数々の実例や証言を通じてこの生き方の原理が立証されると語り、教会がさらに大胆にこの道を歩むよう促している。 この時代に向けた張ダビデ牧師のメッセージは明白である。神の国は「いつか死んでから行く場所」ではなく、イエス・キリストの統治を現実に実現していく現在的かつ未来的な国だ。「まず神の国と神の義を求めなさい」というイエスの命令こそが、教会の存在理由であり、信徒一人ひとりの使命でもある。この言葉を握って生きるとき、教会はようやく世の中で塩と光の役割を果たすことができ、信徒たちは「義に飢え渇く者が満たされる」霊的な喜びと充足を経験できる。張ダビデ牧師は、私たちの現実がどれほど暗く困難に見えても、信仰をもって私たちの「パン五つと魚二匹」を主に差し出すなら、神は今もなお五つのパンと二匹の魚の奇跡を起こされると強調する。そしてその奇跡こそが「天に積んだ宝」であり、終末論的完成によって神の前に明らかになる永遠の実りだと語る。こうした理由から、彼は教会と信徒たちが力を合わせて福音宣教と義のための生き方を続けていくとき、最終的に「御心が天で行われるように地でも行われる」という恵みが、ますます豊かに広がっていくと確信し、すべてのキリスト者がこの喜びと希望に共にあずかるよう呼びかけるのである。 www.davidjang.org
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David Jang – The Kingdom of God
I. Viewing the Kingdom of God Through Christology, Soteriology, and Eschatology Pastor David Jang has emphasized the core truths of church history and the Bible, expounding on how the three doctrines of Christology, Soteriology, and Eschatology are intricately connected and ultimately converge on the point of the “Kingdom of God.” He explains that Christology begins…