장재형목사 HBS 회장 성경보급 집중

새가 날고있는 일러스트.
  • 장재형목사 HBS 회장 |성경 보급에 집중하여 복음을 효과적으로 전하자

    홀리바이블소사이어티(HBS)는 최근 이슬람 선교를 위한 노력으로 아랍어권 서비스를 도입하면서 큰 주목을 받고 있다. 이 단체의 회장으로는 한국인 장재형목사가 선임되어 활동 중이다. HBS는 국제적인 성경 보급 단체로서, 디지털 기술과 인터넷을 활용하여 모든 사람들이 성경에 쉽게 접근할 수 있도록 하는 것을 목표로 설립되었다. 장재형목사는 선교사를 파송할 때 언급하며, 성경이 아직 인쇄되지 않거나 정부에 의해 금지된 국가들에서도 복음을…

    12월 5, 2023
  • 장재형목사 고린도후서 9장 해설

    고린도후서 9장은 흔히 ‘연보’로 요약되지만, 자세히 들여다보면 은혜가 어떻게 인간의 마음을 넉넉하게 만들고, 그 넉넉함이 이웃을 살리는 나눔으로 흐르며, 그 나눔이 다시 하나님께 넘치는 감사로 되돌아오는 거대한 순환의 서사를 정교하게 그려낸다. 장재형(장다윗)목사는 이 장을 읽을 때 무엇보다 먼저 복음이 추상적 표어가 아니라 구체적 사랑의 형태를 띠는 순간에 비로소 진실해진다는 사실을 환기한다. 기근으로 지쳐 있던 예루살렘 교회를 돕는 이방 교회들의 연보는 단지 물질의…

    9월 26, 2025
  • 장재형 목사 ‘성전을 헐라’—요한복음 2장으로 읽는 새 성전과 영적 개혁

    장재형(장다윗)목사는 “성전을 헐라”는 예수의 급진적 선언을 요한복음의 핵심 축으로 붙들고, 오늘의 교회가 무엇을 허물고 무엇 위에 다시 세워야 하는지 해설한다. 많은 이들이 이 구절을 예루살렘 성전의 파괴 예언으로만 이해하지만, 그는 이를 타락한 종교 구조와 인간 중심 신앙을 뿌리째 흔드는 영적 개혁의 외침으로 본다. 요한복음 2장에서 예수는 성전 뜰의 상인들과 환전상들을 내쫓으며 “내 아버지의 집을 장사하는 집으로 만들지 말라”고 선포했고, 이어 “이 성전을 헐라 내가…

    8월 18, 2025
  • David Jang  – Romains 9 et le « reste »

    1. Au-delà de la sotériologie, vers l’eschatologie Le chapitre 9 de l’Épître aux Romains occupe une place cruciale en ce qu’il aborde de manière approfondie, aux côtés de la christologie (qui est Christ ?) et de la sotériologie (comment le pécheur est-il justifié et parvient-il au salut ?), la dimension eschatologique (où va l’Histoire, comment…

    6월 6, 2025
  • 张大卫牧师——罗马书第九章与“余民”

    1. 超越救恩论,进入末世论 罗马书第九章在基督论(基督是谁)、救恩论(罪人如何被称义而得救)之外,也正式深入探讨末世论(历史将如何流向终局,基督徒在最后时刻应当如何生活),因此在整卷书中占据着非常重要的分水岭地位。张大卫牧师在解读罗马书第九章时强调,从这里一直到第十一章的经文,不仅仅是学术性的圣经诠释,更是实质上告诉我们“已经得救的人应当如何活出信仰”的具体而真实的信息。对基督徒来说,罗马书第一到第八章已经揭示了救恩论的核心,“唯独恩典、唯独信心、唯独圣经”(宗教改革的口号)反复被强调,教导我们只有通过耶稣基督的赎罪大工才能得到救恩,这一点已经非常清楚。然而,救恩并非结束;得救之人如何在神主权的带领下,在历史终结的进程中承担责任与角色,这才是末世论真正关注的焦点,也是罗马书第九章到第十一章的精髓所在。 张大卫牧师指出,贯穿罗马书的一大主题便是“神在人类救恩历史中,究竟通过怎样的路径展开祂的作为”。正如旧约圣经已经显明,神要拯救在罪中的人类,首先拣选了“选民”——以色列,并赐给他们话语、敬拜的体系和圣洁的礼仪,好让救赎主最终在他们中间诞生。然而,纵观历史,以色列常常堕落、败坏,未能完全遵行神的旨意。即便如此,圣经多次强调,神从未停止祂的救恩计划,而是必定借着“余民(remnant)”来延续救恩的工作。罗马书第九章所提出的“余民的教义”,正是告诉基督徒在历史的末后时代与混乱之中,应当如何坚立的极其要紧的洞见。 在这一点上,张大卫牧师强调,没有正确的末世论视野,而只是一味强调基督论和救恩论,可能会失去信仰的重要平衡。因为基督信仰不仅仅是“耶稣是谁”这一知识性的理解,或“我如何成为天国子民”之救恩论的确据,而是必须包括“已经得救之人,如何参与并活在神的救恩历史当中”这一末世观与历史观。所有人都注定在有生之年走向终点,但历史在神的主权之下仍在向前流动;即便在这一过程中,个人会软弱、教会会混乱,但神总是保留了“余民”以延续救恩的谱系。 张大卫牧师强调,“余民”这一概念不仅存在于以色列的历史中,更是关乎整个教会史理解的关键。无论是初代教会在逼迫中守住宝血的见证,中世纪的黑暗中依然有“看不见的教会”坚守正统信仰,还是宗教改革时期那些以“唯独耶稣、唯独信心、唯独圣经”为口号、甘愿殉道的改革者,背后都能看见“神所保留的余民”的身影。正是透过这些“余民”,历史不断向前推进,直到耶稣基督将在末了再临、完全恢复神的统治之日的到来。 罗马书在这样的脉络中,特别在第九章到第十一章,深入探讨了“以色列与新的以色列”这一主题:神如何拣选了以色列,但他们之中多数人却未接受弥赛亚,于是福音之门向外邦人打开。末了,以色列要得着恢复的应许也被提及。保罗由此论述“谁才是真正的以色列人”?答案并非仅仅在于血统,而是那些相信并持守神应许的人才是“真以色列人”,而历史的下一个阶段正是透过这些人来承接。这里“余民”这一概念便是核心:尽管多人会离弃信仰、向世界妥协,但仍会有一群人继续顺服神的话语、承认耶稣基督为主,并坚持福音到底。 基于此,马太福音24章、马可福音13章、路加福音17章所记载的“小启示录”(Little Apocalypse)里,耶稣所说“惟有忍耐到底的,必然得救”的教导,也与罗马书第九章紧密相连。耶稣预言末世来临之际,假先知会出现,罪恶会横行,爱心会冷淡,这些迹象在初代教会已经部分应验,如今依旧如此,并将在最后变本加厉。尽管如此,张大卫牧师指出,耶稣的警示并非要使我们惧怕,而是要为我们带来“在末了如何坚持信心、继续承担神的救恩使命”的勇气与盼望。在这里,“余民”这一主题与耶稣“忍耐到底者得救”的话语交织成强大的动力。 保罗在罗马书里直接引用了先知以赛亚的话:以色列的子孙虽多如海沙,得救的却只是“余数”;而这一“余数”之所以得以存留,完全是因为神的恩典而不是人自己的功劳。这在救恩论与末世论的层面都是核心真理。我们在基督里之所以能得赦免、称义,百分之百是因着神的恩典;同样地,越临近末世,越会面临严峻的挑战与攻击,若想坚守信心,也绝不是凭人自己的意志力,而是因神自己在历史中保留人、以恩典扶持他们,最终完成救恩的计划。 张大卫牧师在此特别指出,“余民”教会或个人所肩负的使命,不只是关乎自身的得救,而是一个“保存并让救恩的种子生根发芽”的积极而动态的过程。就像旧约中收割玉米的农夫,哪怕再饥饿,也绝不能把留作来年播种的种子都吃掉;“余民”的含义就在于此。无论历史多么黑暗,教会看似多么堕落,神依然会留下种子,并从那里开启新的历史。这与以利亚在与巴力先知的属灵争战中筋疲力尽、几乎陷入绝望时,神对他说“我却为自己留下七千人,是未曾向巴力屈膝的”(列王纪上19章18节)一事如出一辙。张大卫牧师强调,这一原则在当今教会同样适用。 在末世论视角下,“余民”并非采取逃避或躲藏的消极态度,反而是踊跃参与到神旨意要完成的普世宣教事业之中。耶稣在马太福音24章14节清楚地说:“这天国的福音要传遍天下,对万民作见证,然后末期才来到。”也就是说,当世界逐渐走向审判之时,教会反而必须更加尽力传扬福音、担负宣教使命。而在此过程中,“余民”与“不肯坚持到底的人”就自然地分化开来。“惟有忍耐到底的,必然得救”这句话,也带着祝福应许,那就是:为要完成把福音传给地上各族、各民的大使命,而不疲倦、不停滞、一直跑到终点的那一群人,必将得着救恩的应许。 基于这样的脉络,张大卫牧师清楚提出,面对末世的召命,教会应该如何预备并被建造。他尤其看重“橄榄山讲论(Olivet Discourse)”——即马太福音24~25章、马可福音13章、路加福音21章中耶稣末后的末世信息,并将“奥利韦特(Olivet)”之名用于自己的事工群体和教育机构。这是因为耶稣在橄榄山(Olivet)上所教导的末世迹象、世界结局以及信徒当如何警醒,正是教会与信徒最根本、最具终极性的指令。罗马书第九章所启示的“余民”精神,正与橄榄山讲论之核心交织在一起,教导教会在末世当如何站立得稳。 如果救恩论立场不稳,末世论也必然会出现偏差;若在救恩论中淡化了基督恩典与宝血的价值,末世论就会发展成异端式的末世观,或充斥人的功德、诡计的畸形模式。反之,若一个人已经清晰把握了“我们是完全靠着十字架的宝血而得救”的真理,那么在末世论上,他就会更加注重“余民精神”,既守护恩典,也向世人传扬福音,以动态的方式与神的工作同工。张大卫牧师在研读罗马书第九章与第十一章时,一再强调要抓住“神在末世仍然保留的这粒种子,必将开启新的历史”的应许。无论当下教会和社会多么混乱,教会里必定会有犹如“玉米种子”般的信徒,他们会守住福音的纯正,并为神的国度献身,成为神所留下的“余民”。 罗马书第九章后半段的重点在于:“以色列的子孙虽多如海沙,得救的却是剩下的余民”,而这“余民”正是“按着神的恩典所拣选、归给神的人”(罗马书11章5节)。如同我们本是因恩典得救,在末了也须凭着恩典坚守,让福音得以传扬,并以圣洁的生活成为世上的光,这便是末世之教会应有的态度。张大卫牧师长期以来透过讲道和著述反复强调此观点:当基督论和救恩论已经打好牢固根基之后,就必须正确理解末世论并实践出来;这与罗马书第九章到第十一章的整体脉络一脉相通。 2. “余民”的身份与使命 那么,具体来说,作为“余民”而活的信徒,应当秉持怎样的生活态度与信仰立场?张大卫牧师从两个层面加以归纳:第一,“余民”必须对自己的身份有清晰的认知;第二,“余民”必须守护救恩的种子,并传递给下一代与万国万民。这两者正是末世之教会的重要支柱,也与罗马书第九章和第十一章的教导完全一致。 首先,对自己身份的清楚认知,意味着“我们是因恩典被拣选的,是为神的救恩计划而被留下的”。这绝不意味着自满或骄傲;保罗在罗马书第九章与第十一章里多次强调,这种拣选基于神的怜悯与恩慈,而不是人的行为。换言之,“我之所以成为余民,并非我多么优秀,而是因神的恩典才得以存留。”因此,拥有“余民”身份的信徒也应当极其谦卑,并时刻警惕“任何人若离开恩典,都可能陨落”。 张大卫牧师谈及当代教会所面临的各种混乱,比如教会领袖的道德失败、神学上的分裂,或传统宗派与改革运动之间的冲突。他认为,只有“被恩典抓住并确实站立在真福音中的人”,才会在终局存留下来。而这种“存留下来”并不是透过论断或攻击他人来排除异己,而是通过回归神的话语与福音的大能,在灵里自然显明出谁真正持守了福音、相信十字架和复活的大能,并且忍耐到底,不停传扬并活出福音与爱心。就这样,“余民”与非“余民”便逐渐分辨出来。 清楚的身份认知也意味着基督徒对神圣使命的自觉。“余民”的意义不只是“我已得救”的安心,更是对教会与世界负有重任。我们并不是只为某一代出现而后消失的人,而是承载着要把“圣洁的种子”传递给下一代、以及万国万民的呼召。保罗在罗马书第九、十、十一章的论述中,借以色列为例,不住地呼喊:“未曾听见福音的,怎么能信?没有信心的,又如何得救?”(罗马书10章14节以下),从而极力强调“余民”传福音的使命何等急迫、何等关键。 其次,“余民”必须守护救恩的种子,并传递给下一代与列国。许多人对末世论存在误解,以为“既然末日快到了,我们只要自己坚守信心、躲起来就行”,这是一种逃避主义或宿命论。然而,仔细研读耶稣的教导与保罗的书信会发现,无论如何,教会都不能放弃或停止在世间见证福音的使命。传扬福音、属灵觉醒以及爱心行动在末世更加不可或缺。正因末世临近,教会的责任反而更加沉重:要将福音的种子保存并传播给万国万邦。 在张大卫牧师的牧会与宣教经历中,他曾走遍世界许多地方,看见不少“圣洁的种子”在极度艰难的处境中依旧得以保存与传递。无论是在共产政权国家、伊斯兰地区,或各处饱受宗教迫害的区域,都有地下教会或小型信仰团体不惜冒着生命危险聚会敬拜,并传扬福音。他们就如旧约的“余民”,如新约时代初期的教会信徒一样,正是罗马书所说“因着恩典被拣选”的人。他们没有显赫的教势或丰厚的物质资源,但却完全依靠“耶稣的宝血与神的话语”,坚守信仰。张大卫牧师称此为守护种子的典型榜样。 守护种子并不只是个人的信仰宣誓,也包括教会共同体的敬拜、圣餐、施洗,以及宣教与教导事工,这些都是保有与传递福音种子的途径。张大卫牧师尤其提到教育机构——例如神学院或基督教大学——在培养“余民”和将福音种子传递给下一代方面居于中枢地位。他以“奥利韦特(Olivet)”之名创办了多所教育机构、神学院与大学,正是为了突出“要把主在橄榄山末世讲论(Olivet Discourse)所启示的真理,传授并付诸实践”的神学教育。如今的时代极易被世俗文化与知识冲击而失去神学的本质,需要透过“回到圣经”的教育来兴起“余民”。 张大卫牧师多次强调,“余民”最终会拯救历史。《创世记》中所载,若所多玛和蛾摩拉城中能有十个义人,也可免遭灭亡;这就显示神不是要推进毁灭,而是若能找到追求公义的人,便通过他们开辟救恩之路。以色列历史多次走到崩溃边缘时,都因“余民”而再度有复兴与恢复的起点。在新约的教会史上亦然:许多地区总有被留下的信徒坚守福音,在中世纪的黑暗中也有一把微弱的火炬不曾熄灭,推动后来宗教改革者的兴起。 罗马书第九章就呼应了此一事实:无论当前处境多么黯淡,神主导的救恩大戏绝不会终止;“若不是万军之主给我们存留余种,我们早就像所多玛、蛾摩拉的样子了”(罗马书9章29节)。张大卫牧师将这句话应用在现代:再糟糕的教会现况中,也依旧存在“余民”;神必通过这些人使教会重新站立,并将福音传向全世界。 值得注意的是,“余民”并不会自我封闭在小圈子里沾沾自喜;他们的使命必定是向“拯救世界”的方向展开。因为神在历史中召唤教会,从来不只是为了教会本身,而是嘱咐“你们要作世上的光和盐”。正是在践行光与盐的过程中,末世更大的逼迫与试炼会临到“余民”。对此,张大卫牧师解释说,“能够在此使命中不退缩、不妥协的人,必能忍耐到底,而他们的坚守本身,就成为神拯救、恢复世界的途径之一。” 罗马书第九章27-29节指出,以色列的子孙虽多如海沙,但仅有“余民”得救;也正因这“余民”的缘故,那原本有可能沦为所多玛、蛾摩拉的历史,才获得了新的转机。今天的教会同样如此——这段话不只是一段古老记载,也包含末世性的展望,对教会与信徒既是警示,也带来安慰与盼望。正如张大卫牧师常提醒的,救恩论若越坚固,末世论就越健全;末世论越明晰,教会的身份与使命也越发明确。我们当谨记自己是“按着神的拣选、因恩典而成为的余民”(罗马书11章5节),同时也要成为恩典的管道,向世界撒播福音的种子、践行爱心,并在末后艰难中坚守信心。 整个过程中,历史会在神预定的轨道上不断向目标推进。一代过去,一代又来,大地仍旧存在;而在这大地之上,还有将要得救的人群,以及要把救恩种子传递下去的人。我们受召成为其中的一部分,完全不是靠自己的力量,而是出自神的恩典。所以,张大卫牧师指出,“余民的身份”对末世时代的教会与信徒而言,是至关重要的讯息之一。当我们在救恩论上确据无疑,又能抓住末世论异象,就能在原本可能沦为所多玛、蛾摩拉的世界里,成为开创新历史与复兴之路的“圣洁种子”。为此,我们每天都当儆醒预备,满怀对恩典的感恩,也满怀对世界的怜悯与爱,正如罗马书第九章到第十一章所贯穿的主线般,继续在神的呼召下勇往直前。这正是张大卫牧师不断劝勉信徒的核心教导。 www.davidjang.org

    6월 6, 2025
  • 張ダビデ牧師 – ローマ書9章と残された者

    1. 救済論を超えて終末論へ ローマ書9章は、キリスト論(キリストとは何者か)や救済論(罪人がいかに義とされ、救いに至るか)と並んで、終末論(歴史はどこへ向かうのか、キリスト者は最後にどのように生きるべきか)を本格的に扱う分岐点として非常に重要な位置を占めている。特に、張ダビデ牧師はこのローマ書9章を解説する中で、9章から11章まで続く本文が単なる学問的な聖書解釈ではなく、「救われた者たちが具体的にどのように生きるべきか」を示す、具体的かつ実際的なメッセージであると強調する。 キリスト者はすでにローマ書1章から8章に至る救済論の核心を受け取り、「ただ恵みにより、ただ信仰によって、ただ聖書によって(Sola Gratia, Sola Fide, Sola Scriptura)」という宗教改革のモットーが繰り返し強調されるように、イエス・キリストの贖いの働きを通してのみ救いが成就する事実を明瞭に知るようになる。しかしそれで終わるのではなく、救われた者がこの歴史の終末と神の主権的な導きの中で、いかなる責任と役割を担って生きるべきか――これこそが終末論の本質的関心事であり、ローマ書9章から11章に込められた核心でもある。 張ダビデ牧師は、ローマ書を貫く大きなテーマの一つとして「神の人類救済史が具体的にどのような経路を通じて展開されるか」を挙げる。旧約聖書ですでに明らかなように、神は罪の中にあった人類を救うため、まず「選民」を選び、その民に御言葉と礼拝体系、聖なる儀式を与え、やがてその民の中から一人の贖い主が生まれるよう摂理してこられた。しかし歴史を振り返ると、イスラエルは腐敗や堕落に陥り、神の御旨に完全には従いきれないことが多かった。にもかかわらず神は決して救いの御業を止めることなく、必ず「残された者(remnant)」を通してその救済史を継続される、と聖書は強調する。ローマ書9章が語る「残された者の教理」は、キリスト者が歴史の最後の時や混乱のただ中でいかに立つべきかを示す極めて重要な洞察である。 この点で、張ダビデ牧師は「正しい終末論の視点を持たずにキリスト論や救済論ばかりを強調することは、信仰の大きなバランスを失う危険がある」と語る。なぜならキリスト教の信仰は、単に「イエスがどのようなお方か」という知的理解や、「私はいかにして天国の民となるか」という救済論的確信にとどまらず、「そのように救われた者が、今やいかに神の救済史に参与して生きるか」という歴史的かつ終末論的な視点が不可欠だからである。人間は皆、有限な存在として地上の生涯を終えるが、歴史は神の主権の内に続いていく。救われた一人ひとりが途中で落胆したり誤ったり、教会が混乱に陥ることはあっても、神は必ず残しておいた群れ、すなわち「残された者」を通して救いの系譜を継承される。 張ダビデ牧師は、この「残された者」という概念がイスラエルの歴史にだけ見られるのではなく、教会の歴史全体を見通す重要なキーワードだと説く。初代教会が迫害の中でも血潮の証しを守り抜いたことも、中世の種々の堕落の中にあっても正統信仰を守り抜いた「見えざる教会」があったことも、そして宗教改革期に「ただイエス、ただ信仰、ただ聖書」を宣言し、殉教もいとわなかった改革者たちがいたのも、すべて「神が残しておかれた者たち」が存在したからだというのである。このように「残された者」を通して歴史は絶えず進展し、ついには地上に再臨されるイエス・キリストと共に、神の完全な支配が回復される日が近づいていく。 ローマ書はこうした流れの中で、特に9章から11章にかけて「イスラエルと新しいイスラエル」というテーマを深く掘り下げている。神がイスラエルを選ばれたが、結局その多くがメシアを受け入れなかったことで、その福音が異邦人へと拡張されていく過程が説明される。そして終末にイスラエルが回復されるという約束にも言及している。パウロはこれを通じて「真のイスラエル」とは誰かを語る。血統的イスラエルではなく、神の約束を信じてすがる者こそが真のイスラエルであり、そのような人々を通して歴史は次の段階へ受け継がれていく。ここで中心的となるのが「残された者」の概念である。多くの者が背教したり妥協したり、世の価値観に屈服したりする中でも、終わりまで神の御言葉に従順し、イエス・キリストを主と告白し、福音を握りしめる者たちが存在する。 この意味で、マタイ24章・マルコ13章・ルカ17章に記されている「小黙示録(Little Apocalypse)」と呼ばれるイエスの言葉、すなわち「最後まで耐え忍ぶ者は救われるであろう」という教えは、ローマ書9章とも密接につながる。終末が近づくにつれ、偽預言者が現れ、罪悪がはびこり、愛が冷えていくというイエスの警告は、すでに初代教会の時代にも部分的に成就し、現代もそうであり、最終的にはさらに深刻化する。しかしそれでも張ダビデ牧師は、イエスのこの教えが私たちを「恐れ」させるためではなく、「いかにして最後まで信仰を守り抜き、神の救いの御業を担うか」に対する勇気と希望を与えるためだと強調する。まさにここでローマ書9章の「残された者」というテーマと、イエスの「最後まで耐え忍ぶ者」という言葉が結びつき、強力なシナジーを生み出す。 パウロはローマ書の中でイザヤの預言を直接引用している。すなわち、イスラエルの子孫の数が海辺の砂のように多くとも、結局は「残された者」だけが救われるという言葉である。このとき「残された者」が持つ重要な特徴は、「人の功績や努力」ではなく「神の恵み」によって保たれ、選ばれている点だ。これは救済論的にも終末論的にも同じ核心である。私たちがキリストにあって罪の赦しと義とを得るのも100%恵みによるように、終末が近づくほど激しさを増す挑戦や攻撃の中で信仰を守ることも、人間の意志や決心だけで可能なわけではない。神が歴史の中で直々に人を残され、その人々を恵みで守られ、ついには救済史を完成されるのである。 張ダビデ牧師は、ここで「残された者」として召された教会や個人の使命は、決して自己の救いにばかり執着するものではなく、歴史の中で神から与えられた「種」を守り、それを育てる積極的かつ躍動的な役割にあると説明する。旧約聖書で農夫がトウモロコシを収穫するとき、どれほど飢えていても、種に使うトウモロコシだけは必ず別にしておく。次の年に蒔く種がなくならないようにするためだ。それこそが「残された者」の意味だというのである。歴史がどれほど暗澹たる様相を見せようとも、教会が世の潮流に押し流され堕落してしまう瞬間があっても、神は必ず種を残され、その種を通して新しい歴史を始められる。この点は、エリヤがバアルの預言者たちとの霊的闘いで疲れ果て、落胆していたときに、神が「バアルに膝をかがめない七千人を残しておいた」(列王記上19:18)と告げられたエピソードと同じだ。そしてこの原理は今日の教会にもそのまま当てはまる、と張ダビデ牧師は強調する。 終末論的な面から見ると、「残された者」とは逃避的で退却的な態度をとる人たちではなく、むしろ世界宣教へと邁進する神の救いの御業に能動的に参加する者たちである。イエスはマタイ24章14節で、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられ、あらゆる国民に対して証しされ、そのときが来るだろう」と語られた。すなわち、世が裁きへ向かう間にも、教会はむしろ福音宣教と宣教の使命を担わなければならず、その過程において残される者とそうでない者が明らかになるというわけだ。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という言葉は、地上のすべての国民・民族に福音が届けられるという世界宣教の偉業を担うにあたり、疲れず歩み続け、ついには信仰の競走をやり遂げる者に与えられる祝福の約束なのである。 こうした文脈の中で張ダビデ牧師は、終末論的な使命を明確に掴み取り、教会がどのように準備され、建て上げられるべきかを具体的に提示する。彼は特に「オリベット・ディスコース(Olivet Discourse)」――マタイ24~25章、マルコ13章、ルカ21章などにおけるイエスの終末説教――を非常に重視している。そのため、自身の宣教共同体や教育機関に「オリベット(Olivet)」という名称を冠している。イエスがオリーブ山(オリベ山)で終末の兆候や世の終わりに起こること、そして信じる者がいかに目を覚ましているべきかを教えられたその言葉自体が、教会と信徒にとって本質的かつ最終的な命令であるからだ。ローマ書9章が語る「残された者」の精神も、このオリベット・ディスコースの核心とつながり、終末論的に教会がどのような姿勢を取るべきかを教えてくれる。 救済論が正しく立っていなければ、終末論も誤りやすい。救済論がキリストの恵みと血潮の価値を弱めるなら、終末論は異端的終末論や、人間の功績や策略に満ちた倒錯した姿になりがちだ。その反面、救済論においてすでに十字架の血によって私たちは全面的な恵みにより救われたことを明確につかんでいる人であれば、終末論はなおさら「残された者」の精神をもって恵みを守りつつ、同時に世界へ福音を伝えていく躍動的な過程として理解される。張ダビデ牧師はローマ書9章と11章を共に学びながら、「神が残しておかれた種が、ついには新しい歴史を始める」という約束をしっかりつかむようにと強調する。だからこそ、どんな時代的・社会的混乱が襲おうとも、教会の内には必ず「種のトウモロコシ」のような人々がおり、彼らこそが福音の純度を守り、神の国のために献身する「残された者」となるのだ、と彼は説いている。 ローマ書9章後半が提示する核心は「イスラエルの子孫が海辺の砂のように多くても、残された者だけが救われる」という点であり、この「残された者」こそが「恵みによる選びによって神に握られた者」である(ローマ11:5)。私たちがこの恵みによって救いを得たように、最後までその恵みを固く握り、福音宣教と聖潔な生活を通して世の光となることが、終末論的な教会の姿勢である。このメッセージは、張ダビデ牧師が長年にわたり説教や著作を通じて強調してきたものであり、キリスト論・救済論が確立された後には、必ず正しい終末論の理解と実践が必要だと説いてきた文脈とも一致している。 2. 残された者のアイデンティティと使命 それでは具体的に、「残された者」として生きる信徒が志向すべき生き方や信仰姿勢とは何か。張ダビデ牧師はこれを大きく二つの側面で整理し提示している。第一に、「残された者は自らのアイデンティティを明確に認識すべきである」。第二に、「残された者は救いの種を守り、次世代と諸国へそれを伝えていくべきである」。この二つの側面こそが終末論的な教会の重要な柱であり、ローマ書9章と11章が語ることとも正確に合致する。 第一に、自らのアイデンティティの明確な認識とは、「私たちは恵みによって選ばれた者であり、神の救いの御業のために残された者だ」という意識を持つことを指す。これは決して高慢や優越感に陥ることではない。パウロがローマ書9章と11章で繰り返し強調しているのは、この選びが「行い」に基づくのではなく、「神の憐れみと慈しみ」によるという事実である。つまり、「自分が優れているから残された者になった」のではなく、「神が恵みによって残してくださったからこそ、私はここにいる」という悟りが必要なのだ。ゆえに残された者としてのアイデンティティを持つ信徒は同時に「へりくだる」べきであり、常に自分を振り返りながら「誰もが恵みから外れれば倒れ得る」という警戒心を持たねばならない。 張ダビデ牧師は、現代の教会が直面している様々な混乱――たとえば教会指導者の道徳的失敗や神学的な分裂、伝統的教団と改革運動の衝突など――に言及しつつ、「最終的に生き残るのは、ただ『恵みに捕らえられた人』と『真の福音に立つ人』だけだろう」と語る。しかしここでいう「生き残る」とは、他者を非難や攻撃によって排除することで達成されるのではなく、あくまでも神の御言葉と福音の中心へ立ち返ろうとする霊的な動きの中で、自ずと顕在化する現象だという。誰が真に福音を握っているのか、誰が十字架と復活の力を本当に頼りとしているのか、そして誰が最後まで耐え忍びつつ宣教と愛を実践するのかによって、「残された者」とそうでない者が分けられるのだ。 アイデンティティを明確に認識することは、キリスト者としての聖なる責任感を伴う。なぜなら「残された者」となることは、単に「自分が救われた」という安心感で終わるのではなく、教会共同体や諸国民に対する使命を全うしなければならないことを意味するからだ。私たちは、一世代で終わってしまう存在ではなく、次の世代と全世界のために聖なる種を託された者である。だからこそパウロはローマ書9章、10章、そして11章にわたって、イスラエルの例を挙げつつ「福音を聞かなければどうして信じられようか。信じなければどうして救われようか」と嘆き(ローマ10:14以下)、最終的に福音を宣べ伝える「残された者」の役割がいかに切実で重要かを力説している。 第二に、残された者は救いの種を守り、次世代と諸国に伝えるべきである。終末論でよく生じる誤解は、「どうせ世はもうすぐ終わるのだから、私たちはただ信仰を守って隠れていればよい」というような逃避主義的・宿命論的な態度である。しかしイエスの教えやパウロの書簡を詳しく見ると、いかなる場合でも教会が世に対して福音を証しする使命を放棄したり立ち止まったりしてよいとは書かれていない。福音宣教と霊的覚醒、そして愛の実践は、終末が近づくほどさらに必要になる。むしろ終末が迫るほど、教会がその種を守りながら諸国に広める責任は増大する。 張ダビデ牧師は自身の牧会経験と宣教活動の中で、世界のさまざまな地域を巡って福音を伝える過程で、「聖なる種」がどんな極限状況にあっても維持され、継承されていく光景を何度も目の当たりにしてきたという。たとえば共産主義国家やイスラム圏、あるいは宗教的迫害の厳しい地域においても、地下教会や小規模の信仰共同体が命がけで礼拝を捧げ、福音を伝えてきた。その姿は旧約の残された者、新約の初代教会の信徒たちと何ら変わらず、まさにローマ書が語る「恵みによって選ばれた者たち」の姿を映し出していた。彼らは決して大きな教勢や物質的なサポートを誇りにしていたわけではなく、「ただイエスの血と御言葉」に対する徹底した信頼で支えられていたのである。これこそ残された者が種を守る具体的な手本なのだと、張ダビデ牧師は語る。 このように種を守るということは、単に個人的な信仰告白にとどまらない。教会共同体の礼拝や聖餐、洗礼の執行、さらに御言葉の教育や宣教活動などが、種を守り伝えるための通路となる。さらに張ダビデ牧師は、教育機関、特に神学校やキリスト教大学が「残された者」を育て、種を次世代に手渡す中枢的役割を担うと考えていた。そのため彼が「オリベット(Olivet)」という名を冠して複数の教育機関や神学校、大学を設立したのも、その名称自体が「主の終末論的説教(オリベット・ディスコース)を継承し、実践する神学教育」を強調するためであった。世の文化や知識に染まりやすい時代に、「聖書へ戻る教育」を通して「残された者」を起こそうとする狙いだったのである。 「残された者は結局、歴史を生かすのだ」というのが、張ダビデ牧師がローマ書9章と11章を解釈しながら繰り返し提示してきた核心的結論である。ソドムとゴモラが滅びる際、義人が十人いれば滅びを免れただろうという創世記の記述が示すように、神はいつも歴史を破滅へ追いやるのではなく、義を求める者がいれば、彼らによって救いの道を開かれる。イスラエルの歴史が滅亡寸前に置かれた瞬間ごとに、「残された者」が再び復興と回復の出発点になった。そして新約の教会史においても、各地に残されていた者たちが福音を守り、中世の暗闇のような時代にも福音の火種が絶えず、改革者たちを立ち上がらせる原動力となった。 ローマ書9章はまさにこの点を思い起こさせ、キリスト者たちに「現在の状況がどれほど暗く見えても、神が主導される救いのドラマは決して止まらない」という希望を与えてくれる。「もし万軍の主が私たちに種を残しておかれなかったなら、私たちはソドムのようになり、ゴモラのようになっていたであろう」(ローマ9:29)という御言葉が、それを端的に示している。張ダビデ牧師は、この御言葉を現実に当てはめて、「今日、教会がどれほどみっともない姿をさらしていても、その内には依然として残された者が存在し、神は彼らを通して教会を再び立ち上げ、福音を全世界へ広められるのだ」と力説する。 残された者は、自分たちだけの孤立した共同体を築いたり、自分たちが満足するだけの信仰に陥ったりするのではなく、必ず「世を救う」方向へと進むという点にも注目すべきである。なぜなら、神は歴史の中でご自身の教会を招かれる際、単に教会を教会のままだけで存在させるのではなく、常に「あなたがたは世の光、地の塩となれ」という使命を委ねてこられたからである。その光と塩の役割を担う過程こそが、終末論的にさらに大きな患難や迫害の前で「残された者」が試される場面にもなる。張ダビデ牧師は「この使命から退かない者たちが最後まで耐え忍び、その耐え忍ぶ姿が逆説的に世を生かし、回復させる通路となる」と説明する。 ローマ書9章27節から29節が語るように、イスラエルの子孫がいかに多くとも、残される者だけが救われ、まさにその残された者を通じてソドムとゴモラのように完全に滅びる可能性もあった歴史が新しく開かれていくというメッセージは、今日の教会にもそのまま適用される。この御言葉は単なる旧約の歴史的記録ではなく、終末論的な展望まで含む、教会と信徒に対する警告であり慰めであり希望でもある。そして張ダビデ牧師が繰り返し強調してきたように、救済論が揺るぎなくなるほど、終末論も健全になり、終末論が明確になるほど、教会のアイデンティティと使命が一段と鮮明になる。私たちは「恵みによる選びに従って残された者」(ローマ11:5)であることを忘れず、同時にその恵みの通路となって世に福音を播き、愛を実践し、最後まで信仰を守り抜く生き方を歩むべきなのである。 このすべての過程を通して、歴史は神が定めた目的地へと徐々に進んでいく。一つの世代が去り、次の世代が来ようとも、地は永遠にあり、その地上には救われるべき人々と救いの種を伝えるべき人々がまだ残されている。私たちはその一部として招かれているのであり、それは私たちの力ではなく全的に神の恵みなのだ。ゆえに張ダビデ牧師の言うように、「残された者のアイデンティティ」は終末の時代を生きる教会と信徒にとって最も重要なメッセージの一つである。救済論の確信を抱き、終末論的ビジョンをしっかり掴むとき、私たちはソドムとゴモラのようになるかもしれなかった状況の中で、新たな歴史と回復への道を切り開く「聖なる種」となることができる。その使命の前で、日々新たに目を覚まして備え、恵みに感謝しつつ世へと踏み出していく――それこそがローマ書9章から11章に込められた大いなる流れであり、張ダビデ牧師が信徒たちに繰り返し教えている中心的な教えなのである。 www.davidjang.org

    6월 6, 2025
  • Pastor David Jang – Romans 9 and the Remnant

    1. Beyond Soteriology to Eschatology Romans 9 occupies a very significant position as a turning point where eschatology (where is history headed, and how should Christians live in the final days?) is dealt with in earnest, along with Christology (Who is Christ?) and soteriology (How is a sinner made righteous and saved?). In particular, Pastor…

    6월 6, 2025
  • Pastor David Jang – Romanos 9 y el Remanente

    1. De la doctrina de la salvación a la escatología El capítulo 9 de Romanos reviste una importancia extraordinaria porque, junto con la cristología (¿Quién es Cristo?) y la soteriología (¿Cómo se justifica el pecador y alcanza la salvación?), aborda de manera directa la escatología (¿Hacia dónde se dirige la historia?, ¿Cómo deben vivir los…

    6월 6, 2025
  • 장재형목사 – 로마서 9장과 남은 자

    1. 구원론을 넘어 종말론으로 로마서 9장은 기독론(그리스도는 누구신가), 구원론(죄인이 어떻게 의롭게 되어 구원에 이르는가)과 더불어 종말론(역사는 어디로 흘러가는가, 그리스도인은 최후에 어떻게 살아야 하는가)을 본격적으로 다루는 분기점이라는 점에서 매우 중요한 위치에 놓여 있다. 특히 장재형(장다윗)목사는 이 로마서 9장을 해설하면서, 여기서부터 11장까지 이어지는 본문이 단순히 학문적인 성경 해석이 아니라, 실질적으로 “구원받은 자들이 곧 어떻게 살아야 하는가”를 보여주는 구체적이고 실제적인 메시지라고 강조한다. 그리스도인은 이미 로마서 1장에서 8장에 이르는 구원론의 핵심을 받았고, ‘오직…

    6월 6, 2025
  • David Jang – Le Royaume de Dieu

    Ⅰ. Le Royaume de Dieu vu à travers la christologie, la sotériologie et l’eschatologie Le pasteur David Jang met l’accent sur l’histoire de l’Église et sur les vérités fondamentales de la Bible en soulignant la manière dont les trois doctrines que sont la christologie, la sotériologie et l’eschatologie sont étroitement liées et conduisent finalement au…

    5월 5, 2025
  • 神的国 – 张大卫牧师

    Ⅰ. 透过基督论、救恩论、末世论所观照的神的国 张大卫牧师一直强调教会历史和圣经核心真理的重要性,并宣讲基督论、救恩论、末世论三大教义如何紧密相连,最终汇聚于“神的国”这一主题。他首先说明,基督论从“耶稣是谁”这一问题出发。纵观教会历史,在尼西亚会议(公元325年)和迦克墩会议(公元451年)等过程中,教会总结出“耶稣基督是完全的神,也是完全的人(veredeus verehomo)”这一结论。张大卫牧师指出,这一决定对正确理解基督论意义重大:耶稣既是无罪圣洁的上帝,又是亲身经历人类一切痛苦和软弱的真人。他强调,正确把握这奥秘的双重性,最终成为我们正确接受救恩论的基础。 根据他的看法,若否认耶稣基督的神性,或削弱基督的人性,这样的神学立场都会动摇基督论的根基,难以导向正确的救恩论。谈及1517年那场具有历史意义的宗教改革时,张大卫牧师特别提及路德、加尔文等改革者宣告的“唯独因信(Sola Fide)与唯独恩典(Sola Gratia)才能得救”这一点。他指出,这是因为中世纪教会偏离了圣经的教导,把原本“唯有信心与恩典”就足够的救恩与其他因素混杂,导致信仰被稀释与扭曲。张大卫牧师强调:“宗教改革的救恩论严格来说就是‘回归圣经’的呼声。”因此,改革宗所主张的“唯独信心、唯独恩典”是十分符合圣经并且正确的教义。他补充说,教义并非只停留在教会教材或教育资料上,而应当在信徒的实际生活中成为有生命力的运作原则。 接着,张大卫牧师提到,与基督论和救恩论相对比,教会内部对于末世论往往众说纷纭。他指出,“末世论所探讨的核心议题在于‘时间与时机(Time and Date)’”。其中,“时间(Time)”对应希腊语的“Κρόνος(Chronos)”,指的是量化、连续的时间概念;而“时机(Date)”则是“Καιρός(Kairos)”,意味着决定性事件发生的质的时刻。张大卫牧师说,圣经所描述的耶稣再临,就属于这样的“Καιρός事件”。在这决定性事件中,耶稣降临到世上的时刻(即B.C.与A.D.的分界)甚至划分了整个人类历史。所以从末世论的角度来看,最终所要探讨的,就是神的国在此地得以完全成就的过程以及具体时刻。 按照张大卫牧师的解读,圣经通过对于末世的具体预言与其不确定性,以及耶稣亲口给信徒的教导,告诉我们“那时日与日期,唯有天父知道”。《使徒行传》1章7-8节里耶稣的那句话正是证明:“父凭着自己的权柄所定的日期不是你们可以知道的;但圣灵降临在你们身上,你们就必得着能力,并要把福音传到地极。”基于此,张大卫牧师强调,关心末世论固然重要,但既不要陷入错误的末世推算与恐惧,也不要消极地只等待毁灭,反倒应该以“为此刻在地上传扬福音并预备神的国”这种积极态度来活出真正的末世论人生。 既然如此,那么“神的国”究竟是什么样子呢?张大卫牧师常常通过“创造—堕落—救赎—神的国”这一救赎史脉络,以及“四律(사영리)”的方式加以解释。人类本来生活在上帝所创造的伊甸园——即乐园(Paradise)里,却因罪而被赶了出来。然而正如《约翰福音》3章16节所言,上帝差派独生子耶稣基督,为要赐给人永生,而这救恩的最终目标便是“神之国度的恢复”。张大卫牧师认为,《使徒行传》1章6节门徒所问的“主啊,你复兴以色列国就在这时候吗?”这一提问,正反映了他们对失落之国——上帝所掌权的公义世界得以复兴的盼望。深藏在人类灵魂深处的,是对失乐园的渴慕,而这便是“人类对天国的本能性向往”。虽然我们无法得知神之国完全实现的确切时机,但他坚定地说,这必将借着耶稣的再临而成就。 尤其是,张大卫牧师在讲授神的国教义时,会特别强调其中一个核心——“义(Righteousness)”的问题。正如《马太福音》6章33节所言:“你们要先求他的国和他的义,这些东西都要加给你们了。”神的国乃是充满公义的地方。当不义的势力终将失去力量,上帝亲自掌权时,就如同《阿摩司书》5章24节所言,“公义如大水滚滚,正义像江河滔滔”般的世界才会完全展开。张大卫牧师认为,神的国并非抽象概念,而是切实在历史与我们日常生活中、与对抗不义、建立公义的命令一起临到的神之统治。他多次强调自己的事工方向,也是为了让教会和信徒切身践行“先求他的国和他的义”这条教导。 张大卫牧师还指出,人们日常往往过于聚焦于金钱或物质富足。根据主的话语,我们常为“吃什么、喝什么、穿什么”忧虑,却对如何为神的国付出与服事,为公义受苦付代价等方面时常显得冷淡。主在《马太福音》6章19-20节说:“不要为自己积攒财宝在地上,只要积攒财宝在天上。”张大卫牧师借此宣讲,真正的价值并不局限在地上的拥有,而是累积在那永恒的国度里。他说,这也是体验“饥渴慕义的人有福了”(马太福音5章6节)的奥秘之路。最终,为神的国和义倾献的人,将会得着主所应许的“这一切都要加给你们”的恩典。 那么耶稣所说的神的国,究竟是怎样临到的呢?张大卫牧师引用《马太福音》13章等处的天国比喻,指出神的国如同一粒芥菜种,起初虽微不足道,却能长成大树,让飞鸟栖宿于其间;又如同面酵,虽在看不见之处慢慢发酵,最终却能使全团面都发起来。耶稣的这些教导,正与末世论的异象相连。张大卫牧师谈到:“我们教会一直通过四律,也不断教导信徒不可失去对神之国的盼望;只要得救的人,自然就会渴望去恢复那失落的乐园。这种渴望也凝聚在《主祷文》里‘愿你的旨意行在地上,如同行在天上’的祈祷之中。” 由此可见,基督论确立“谁是救主”,救恩论说明“如何得救”,末世论则指示“得救者最终应盼望怎样的国度”,三者在三位一体的结构中交互关联。张大卫牧师透过基督论强调:唯有耶稣才能成为我们得救的根源;透过救恩论使人察觉:人必须全然依靠恩典;透过末世论提醒我们:如今此时此刻,我们也当顺服神、传扬福音,好使他的国度不断降临。他还指出,这些教义若只停留在知识层面,就难以使神的国在现实中彰显,唯有当信徒真正付诸行动时,神的国才真正在我们的生活里被实践。 正是在这样的大前提下,张大卫牧师所领导的教会和事工,始终致力于夯实基督信仰的根基。他多年在牧会与宣教现场反复提及,教义的重要性就像身体的骨架。骨架若健全,身体才能健康地运作;照样,只有坚守耶稣的身份与救赎方式,以及直至末世的神之计划,信徒才不会动摇,也能在世人面前活出正确的生命见证。这种教义根基也正是实践“先求他的国和他的义”这一主命的基础所在。张大卫牧师强调,历世历代的基督徒都应在此真理面前常常反省:“我到底将什么放在优先地位?我是否真正为神的国忠心摆上?”这不仅是过去或将来的某个瞬间,而是一生之久需要不断自我追问的问题。 归根结底,他解释道:“我们研究末世论的目的,并非为了揣测‘日期与时辰’,或满足对世俗事件的好奇心。”唯有真正盼望耶稣所完成的神之国,相信这国度已经开始降临,并在地上传扬福音、活出公义来彰显神的统治,这才是末世论信仰的真谛。末世并不意味着毁灭,而是代表耶稣要完全恢复“新天新地”的应许。正因为如此,张大卫牧师大力强调,每个信徒都应当怀抱神国的梦与盼望。“神的国降临时,不义充斥的世上必将出现如同古代先知所见‘公义如大水滚滚’的景象”,我们当在当代承续先知异象,把焦点从对物质或短暂成功的追逐,转向对永恒神之统治的瞩目。 Ⅱ. “先求他的国和他的义” 基于对《马太福音》6章33节的默想,张大卫牧师具体解读了耶稣这句“你们要先求他的国和他的义”对于当代基督徒的实际意义。人们常常将这句话过度灵意化或抽象化,仿佛可以忽视现实需要。但张大卫牧师指出,耶稣之所以在《马太福音》第6章里教导“不要为吃什么、喝什么、穿什么忧虑”,并不是让我们完全忽视这些需求,而是强调“有一个更重要的优先顺序”。他在讲道和授课时不断提醒:“饮食和衣物当然必需,但神的国拥有更高、更绝对的价值。” 这里需要关注的是,耶稣在《马太福音》6章一整段经文里,责备了人对财富与外在的过度执着,并呼吁人要凭信心全然倚靠神。张大卫牧师常以旧约的以利亚事件作为典型例证。当《列王记上》17章1-16节提到以色列遭遇大旱之时,神吩咐以利亚去基立溪边,让乌鸦供养他;后来又让他到西顿的撒勒法寡妇那里。这位寡妇原本只剩一把面粉与一点油,计划做成饼给自己和儿子吃了就等死。然而以利亚凭着神的话说:“先给我做一个小饼。”寡妇在信心中顺服,结果她那坛中的面和瓶里的油,竟在降雨之前都没有短缺过。 张大卫牧师将此事阐释为:“倒空的信心(kenosis, ἐκένωσεν),能带来神迹。”对于撒勒法寡妇而言,将那最后的粮食先拿出来献给以利亚,等同于葬送自己的生路。但她因相信先知所传递的神言,甘愿将那微不足道的饼分出来,结果与儿子一同经历了大旱之年不缺乏的奇妙恩典。张大卫牧师把它视为《马太福音》5章6节“饥渴慕义的人必得饱足”以及《马太福音》6章33节“先求神的国,就蒙加添”在旧约中的具体实践。换言之,即使从现实来看似乎不可能,但若人甘愿为神的国而作出信心决断,就能在日常生活中经历神真实的供应与“奇迹的法则”。 同样的道理也可在新约找到,那就是“五饼二鱼的神迹”。记录在《路加福音》9章10-17节的这段经历,亦出现于四福音书中,可见其重要性。当时荒野(旷野)里聚集了许多群众,却缺少足够的食物。耶稣对门徒说:“你们给他们吃吧。”门徒却说:“我们只有五个饼,两条鱼。”当时的饼不过是粗糙普通的大麦饼,鱼也可能是杂七杂八的小鱼。但耶稣拿起来祝谢后交给门徒分给众人,结果,单单男人就约五千人吃饱,而且还剩下十二篮碎屑。 张大卫牧师认为,这一幕再次形象说明“寻求神的国与神的义的人,如何也会在物质与现实层面得着丰盛供应”。那区区五个大麦饼与两条小鱼的全部被交给主的“倒空”态度,却得到惊人的“充满”回馈。这不仅是一次神奇的历史事件,更象征了一条普世性的灵性真理:凡把自己所有献给神、为神的国尽心的人,将会经历出人意料的恩典。尽管并非每位信徒都会亲眼目睹“五饼二鱼”般的数千人分食奇迹,但无论在属灵层面或现实需要上,都能相信上帝必定看顾与供应;对那些为神的国摆上者,更会有意想不到的恩典相随。张大卫牧师对此深信不疑,并不停地教导信徒要如此生活。 借由旧约与新约这两大案例,我们可以领会圣经中“饥渴慕义的人有福了”的反常之逻辑。张大卫牧师会进一步反问:“若从人性的常理看,要得饱足就该去找更多面包,为什么要‘求义’呢?”他指出,耶稣这番话背后隐藏着远超物质福气的深奥属灵原则:“抛下自私贪念及计算得失,顺服神的话语时,神就会预备一切所需。”他强调自己在个人经历与教会事工里,都无数次体会到这真理的实在。“无论是财务困境、事工挑战或人际冲突,只要信靠神并把优先顺序放在他的国度上,神就会亲自介入。”这种宣告绝非单纯的理念,而是有圣经历史与他多年牧会现场见证为根基。 因此,张大卫牧师不断提醒基督徒,切莫把世俗的成功与金钱当作终极目标,而应当成为“饥渴慕义的人”。所谓“饥渴慕义”,指的是对神国度之公义在地上实现的殷切期盼;愿意为此祷告、摆上、在个人与社会环境中努力让神的统治彰显。张大卫牧师常把这种状态形容为“干渴”,意思是灵里对神极度的饥饿与渴慕。不仅不会让人陷入真正的穷乏,反倒会因天上的恩典而得着极大的满足。纵观圣经与教会史,各种见证都佐证了这一点。 张大卫牧师也频频提及《马太福音》6章19-20节“要积攒财宝在天上”一语——此处提醒人们,地上的财富、名誉、权力终有消逝的一天,唯有为神的国度所作的劳苦与献身,才成为天上那永不朽坏的赏赐。这正是耶稣所说“要把财宝积攒在天上的真正含义”。尽管从人的角度看,能看见、能触摸的或许更让人觉得“真实可靠”,但对张大卫牧师而言,更确实、更有根基的世界是神的国。他自己在牧会和宣教中,极力投入时间、财力与恩赐,就是因为坚信那更荣耀、更持久的价值。虽然不是每个人都能轻易作出如此选择,但他见证说,凡真心踏上这道路的信徒,都会经历神以各样方式大大充足供应的事实。 因此,在各种教会会议或聚集里,张大卫牧师常问:“我们究竟把什么列在最优先的位置?”“我们是否只忧虑现实问题并追逐财务,而忽略了为公义劳苦、传扬福音的事?”这是任何个人与群体都需严肃对待的问题。其所引用的《马太福音》6章25节“生命不胜于饮食吗,身体不胜于衣裳吗”,实际上正是提醒我们:“最重要、最根本的价值在哪里?”耶稣举空中的飞鸟与地里的百合花为例,宣告天父必看顾与供应,叫人不要被物质束缚。张大卫牧师在讲道中屡次强调:“神不仅知道我们的需要,也有足够的能力供给。那我们又何必惧怕呢?” 他在牧会现场还特别指出:“完全信靠这话语的人,绝不会变得懒惰或放纵。”因为“神会供应”这信念并不意味着坐等不动,反倒让人能够更勇敢地奉献,更积极地寻求公义。换句话说,真心相信“你们要先求神的国和他的义”的人,不会被世人评价或金钱匮乏所吓退,反而能更大胆地传扬福音、行善助人。 那么,如何具体活出“为神的国与他的义”呢?从张大卫牧师的事工实践中可见,关键在于“敬拜、顺服神的话,以及对邻舍实践积极的爱”。教义不是书本上的理论,唯有在生活里遵行耶稣的教导,才能让骨架长出筋肉与血脉。他指出,通过敬拜,我们经历神是谁、基督的救恩有多大、圣灵更新世界的能力如何强大;藉着神的话语,我们在不公不义的现实面前,能做出正确判断与抉择;而通过爱人如己,我们则成为“让公义如大水滚滚”的神国同工。张大卫牧师将此称为“神国子民的生活”。 他常在聚会中回顾教会28年来的事工历程,见证了神如何在外在威胁、财务匮乏、诸多打击当中,依然带领他们稳步前行。这让他联想到旧约里的以利亚、撒勒法寡妇,以及新约里在旷野经历五饼二鱼神迹的群众——仿佛历史一次次见证了“先求神的国和他的义”的人,总能得着“神奇妙而丰盛的供应”。正是这个信念,让他坚持地教导信徒:神在今天依然行神迹,只要我们甘心把眼前的“一点油与面”或“五个饼两条鱼”献给主。 由此可见,《马太福音》6章33节“你们要先求他的国和他的义”这话语,是支撑旧约与新约,并贯穿整个教会历史的重要支柱之一。张大卫牧师的牧会实践也以此为轴心,基于基督论、救恩论与末世论,最终引向对“神的国”的展望。他警惕当代教会切勿在物欲与世俗思潮中迷失,务必回归教会的本职:传福音、行公义,以及爱护失丧灵魂。“愿你的旨意行在地上,如同行在天上”(主祷文)要成为实际,而这个实现的途径,就是信徒个人先在优先顺序上作出调整,对神的国怀抱强烈的饥渴之心。他坚信,凡走在这条道路上的人,必经历神更大、更丰富的供应。 正是基于这种思考,他在即将到来的两周后教会大会或宗派聚集中,呼吁大家一起省察:“我们是否在过去的28年里,把神的国作为第一位,还是只关注物质和人的安逸?”并且他再次强调,若有人真心寻求神的国与他的义,务必要在事工和生活中展现出实际行动。他回顾过去7年、10年或更久以来的道路,劝勉人们想想:“在种种不足与危机中,我们却总能见证神怎样带领我们。”他将这些见证视为现代版的以利亚、撒勒法寡妇,以及五饼二鱼在旷野所显的神迹,皆共同指向“神的丰盛”。 张大卫牧师所要传达的信息很明确:要做“饥渴慕义的人”。《马太福音》5章6节和10节的“饥渴慕义的人有福了,因为天国是他们的”这句话,虽看似矛盾,却蕴藏着极大力量。并非物质匮乏让人痛苦,而是对神的义没有渴慕、对神的国没有longing,才会使灵魂干涸;反之,无论外在环境如何困苦,“先求神的国,并为公义受苦”的人,实际上就是“得饱足、真富有的人”。他不断重复这一信息,是盼望教会不只变成一个宗教组织,而是真实活出神国群体的样式。 当今社会充斥着各式不义与冲突,人们也看见教会未能成为避难所,反而受世俗逻辑摆布。每逢目睹此种景况,张大卫牧师就再一次呼吁要记起“先求他的国和他的义”。神的国降临之意,就是终结地上的不义,让贫穷者得福音,好叫病患得医治,耶稣成为万物的主宰并带来全然复兴。倘若教会宣扬这宏大的异象,信徒则在各自岗位上以诚实、慈爱和怜悯行事,并见证耶稣基督,世人就能稍稍体验到神之统治。而在此过程中,我们也从对“吃什么、喝什么、穿什么”的忧虑中释放出来,进入神所赐的丰盛。 为此,张大卫牧师长期在教会中倡导彼此鼓励、用神的话和祷告装备自己,并积极开展各类善行事工。他常提及:“教会若能恢复应有的基督样式,就能影响并改变世界。”从末世论角度看,末世并不是世界最终被战争或灾难毁灭的恐怖结局,而是指望着耶稣再临时神的国被完全实现;教会如今要先活出这国度的雏形,好让周边的社会看见老旧生命与新造生命在交汇时所迸发的冲击。就像耶稣的首次降临使B.C.与A.D.分野一样,当教会彰显真实的福音能力时,身处周围的人也会目睹到某种“崭新的创造”正在人间展开。 现今教会要做的事十分明确:谨记“你们要先求他的国和他的义”,并在一切生活层面优先实践神的国度价值,坚决不与不义妥协。即便这条路时而艰辛,但就像乌鸦为以利亚叼来食物,又或撒勒法寡妇那瓶油、那坛面的奇迹,还有旷野上五饼二鱼所喂饱的许多人一样,信徒可天天在神迹般的恩典中生活。张大卫牧师相信,这种确据会从个体的摆上延伸至整个群体的异象,最终成就对神之国“末世性完成”的渴望。 张大卫牧师始终强调的基督论、救恩论、末世论,并非各自为政的教义,而是彼此交织的有机整体,而它们的核心就在“神公义的统治”。这统治由耶稣基督的献身与复活拉开序幕,借助圣灵的大能拓展,一路迈向末世性的圆满。因此,教会与信徒当时刻把神的统治放在首位,并为这公义甘愿倒空自己。如此便能经历各样需要都被神丰盛供应的应许。“饥渴慕义而活”的呼召,并非沉重的负担,而是上帝儿女最自由、最有福的生命方式。张大卫牧师通过无数例证与见证说明,这条道路不仅在圣经里真实,也在当代不断上演;他也号召教会在今后更加坚定地踏上这条朝向神国之路。 今日,张大卫牧师对这个时代的信息依然简单明晰:神的国不只是“将来死后才去的地方”,而是借耶稣基督的统治当下且未来都要成就的国度。“先求他的国和他的义”是教会存在的理由,也是每位信徒的呼召。唯有牢牢抓住这个命令,教会才能作盐作光;信徒也能真正享受“饥渴慕义且得饱足”的属灵满足。张大卫牧师相信,无论现实如何黑暗或艰辛,只要我们愿意像那孩童交出“五个饼和两条鱼”一样献上自己,神今日仍然行神迹,那神迹就是我们所“积攒在天上的财宝”,终必在末世性的圆满里被神所悦纳,成为永恒的果实。正因如此,他呼吁教会与信徒一同努力向世人传福音、践行公义,并在此过程中不断领受“愿你的旨意行在地上,如同行在天上”的丰盛恩典。相信随着我们在这个方向上同心合力,神的国必在现今与将来更丰盛地显现,让所有信徒都能共享那份喜乐与盼望。 www.davidjang.org

    5월 5, 2025
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