장재형목사 HBS 회장 성경보급 집중

새가 날고있는 일러스트.
  • 互いに受け入れなさい – 張ダビデ牧師

    1. 教会内の多様な観点と「兄弟を批判するな」という使徒の勧め ローマ書14章は、キリストの共同体の中で互いに異なる視点や見解を持つ人々が対面する際、具体的にどのように生きるべきかを示す重要な本文である。パウロはローマ教会の信徒たちに「互いを批判せず、主にあって受け入れなさい」というメッセージの基調を語っている。特に本文(14:1-12)を通じて「信仰の弱い者を批判するな」と勧めるが、これは初代教会内に存在した葛藤を克服するための、使徒の実践的な知恵と愛に満ちた教えでもある。この教えは教会史を通して何度も繰り返し重要視されており、現代の教会共同体においても同様に適用可能だといえる。張ダビデ牧師もこうしたパウロの教えを基盤に、教会の内外で起こるさまざまな葛藤を福音の精神によって解消すべきだと強調してきた。今日の教会が「和合と一致」を唱えながらも、実際には大小さまざまな分裂を経験している状況にあって、「互いを批判せず受け入れる姿勢」は依然として重要な課題として残されている。 パウロはローマ教会の中に二つのグループを指摘する。一つは「弱い者」であり、もう一つは「強い者」である。パウロはこの二つを「ユダヤ人出身の信者」と「異邦人出身の信者」という民族的区別ではなく、あくまで信仰のレベルに応じて「弱い者」と「強い者」と呼んでいる。弱い者、すなわち信仰が弱いとされる者は、律法や食物規定を厳格に守る人々であった。一方、強い者と呼ばれた人々は福音の自由をより広く享受し、特定の食物規定や特定の日の区別に縛られなかった。両グループ間の葛藤は食べる問題と祭日を守る問題から生じていた。ユダヤ人出身の信者たちは清浄法を守るため、不浄だと見なされる肉を避けていたが、そうした厳格な生活態度をとる者たちをパウロは「弱い者」と呼んだ。一方、異邦人出身の信者たちは、偶像にささげられた食物や豚肉のようなものまで自由に食べ飲んでいた。パウロはそうした自由を享受する側を「強い者」と呼んだのである。 しかし、この分類にはパウロの深い神学が内包されている。パウロは自由を享受しながらも、他者の良心や信仰を配慮しないなら、その自由がむしろ罪になり得ることを常に強調した。これは張ダビデ牧師が説く福音の精神とも結びついている。福音は「自由」という驚くべき賜物を与えるが、その自由は愛によって制限されねばならない。他者の益のためなら、時にその自由を節制することも必要である。結局、パウロは「強い者」と「弱い者」いずれも、ただ自分が正しいと主張するのではなく、互いの違いを理解し尊重することでキリストの体である教会を築いていくべきだと教える。それこそが究極的に全ての聖徒が目指すべき福音的一致の姿なのである。 ローマ書14章1節でパウロは「信仰の弱い人をあなたがたが受け入れるとき、その意見を批判してはならない」と述べて始める。これは実際に教会内で葛藤が生じる際、「強い者」が取るべき態度を直接示した言葉といえる。パウロは「ある人は何でも食べられるだけの信仰があるが、信仰の弱い者は野菜だけを食べている(2節)」と言い、両者がともに共存する現状を直視する。ここで重要なのは、パウロが両者とも「主のために」食べ、また「主のために」食べないと説明している点である(6節)。つまり、特定の食物規定や祭日を守るか否かが、究極的に信仰の本質を決めるものではないという意味だ。保守的伝統に属する人々は「自分こそが真の信仰を守っている」と思い込みがちであり、自由主義的伝統に属する人々は「自分こそが福音において正しい自由を享受している」と考えがちだ。しかしパウロは、両者とも自分の進む方向が「神のため」であると告白するならば、軽々しく断定し合うべきではないと言う。信仰の強さや弱さという区別は、唯一主だけが完璧に知り得るものであるからだ。「他人のしもべを裁くあなたは何者か(4節)」という言葉は、この点を端的に示す。人間は皆主の僕である以上、僕同士が互いを裁くことはできないという論理である。 張ダビデ牧師もさまざまな説教や講演を通して、「裁きを行う方はただ神おひとり」という点を何度も強調してきた。教会が世間の目線で「誰が正しいか、誰がより信仰深いか」を判断し始めるとき、すでに福音の本質から大きく逸脱した姿に陥りやすい。批判ではなく受容を、疑いではなく愛をもって互いに接するとき、初めて教会の中に「平和と喜びと義」が満ちあふれる。イエスが言われた「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれない(マタイ7:1-2)」という教訓は、教会共同体の内部葛藤を解決する上での核心的基準にならざるを得ない。その基準において、パウロは全てを「主のもとで行うが、それによって兄弟をつまずかせないよう気をつけよ」と勧める。特にコリント第一の手紙8章および10章に繰り返し登場する食物に関する議論、すなわち偶像にささげられた犠牲の問題において、パウロは自分の自由よりむしろ他者の信仰が損なわれる可能性を重く見ていた。キリストの共同体の中に紛争や葛藤を引き起こすよりは、互いに和睦を図り愛を実践する方を選ぶべきだというのである。 これを教会現場にそのまま適用してみると、たとえば今日、礼拝音楽スタイルの相違、洗礼や聖餐式の方法の違い、あるいは特定の祝祭日の順守の可否などは「アディアフォラ(adiaphora)」—絶対的に正邪を区別しづらい領域—に属することが多い。パウロは教会内で起こるこうしたさまざまな葛藤に際し、「それは神の御前に本質的問題なのか?」を基準にせよと語る。もしそれが永遠のいのちや罪の赦しに直接結びつく核心教理でないのであれば、互いに認め合い、愛で包みつつも、もし相手が「疑念を抱く」あるいは「信仰が崩れる」可能性があるならば、喜んで自分の自由を制限すべきだと説く。結局、これほどまでに強調される「平和と徳」という実りは、兄弟を批判しない姿勢から始まる。誰かを疑い、見下す態度は教会共同体の一致を妨害する。パウロは「生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のもの」(14:8)という告白を通して、互いが神の手の中にある存在である以上、みだりに判断したり軽蔑したりできないという、明白な事実を示している。 このように、ローマ書14章1-12節に展開されるパウロの教え、そしてイエスが山上の説教で「兄弟に向かって『愚か者』という者は公会に引き渡され…」(マタイ5:22)と語られた厳粛な御言葉や、「人を裁くな。そうすれば裁かれない」(マタイ7:1-2)という御言葉は、教会内で必ず守られるべき基礎である。張ダビデ牧師は、多くの説教でまさにこの教会内の「定罪と批判の文化」が克服されなければ、いかなる刷新やリバイバルも期待しがたいと指摘する。イエスが私たちに示してくださった受容の愛を覚えているなら、キリスト者は必ず「和睦」を成し遂げなければならないと説き続けるのである。実際、愛と和睦が崩れた現場こそ、信仰の本質が曖昧になった現場であることを、彼はたびたび強調する。結局、教会は外部からの迫害や抑圧によって倒れるよりも、内部で互いを批判し分裂するとき、はるかに容易く崩れてしまう。これはパウロのメッセージと張ダビデ牧師のメッセージが通じ合う点である。 ローマ書14章の御言葉は、逆説的に教会がどれほど多様な伝統や文化を包摂すべきかを示している。ユダヤ人たちはユダヤ人の祝祭日を守り、異邦人たちは自分たちの文化にふさわしい祝祭日を重んじる場合もあるが、パウロはそのどちらの側にも立たず、両者を網羅する視点を提示する。「ある人が日を重んじるのも主のためであり、日を重んじない人も主のためである(14:6参照)」というように、大切なのは「その行為の動機が誰に向かっているのか」に懸かっていると説明するのである。教会はこうした多様性を広い心で受け入れつつも、一つの福音をしっかり握りしめ、愛のうちに一つになる知恵を学ばなければならない。兄弟同士での批判や軽視ではなく、互いの足りなさを認め合いながら共に進むプロセスこそが、神の国の縮図である。 2. 兄弟をつまずかせないための信仰的実践と愛による制限 パウロがローマ書14章13-23節で次に強調するのは「兄弟をつまずかせるな」という点である。1-12節では互いに批判せず受け入れるように説いたが、ここからはさらに具体的に、「自分が行う自由な行動が、他者の信仰をつまずかせてはいないか」を吟味せよという実践的な勧めが続く。パウロは13節で「兄弟の前に障害やつまずきとなるものを置かないよう注意しなさい」と言う。これは食生活や祭日順守などにおいて「たとえ自分に許された自由があっても」、それが他の人々に害を及ぼすなら、それを慎むことこそ真の愛であるという観点である。 ここでパウロが語る最も重要な概念の一つが「アディアフォラ(adiaphora)」である。これは、ある行為が「本質的に善でも悪でもない」、言い換えれば絶対的に正しいとも誤りとも断定しにくい価値中立的領域を指す。教会史の中で信徒たちは数えきれないほど多くの問題—礼拝の具体的な形式、音楽スタイル、服装規定、文化的習慣など—について議論を重ねてきた。ある伝統は厳格さを強調し、別の伝統は自由を強調したが、両者とも福音的価値を追求しながらも、その方法論において違いを見せたのである。まさにその点でパウロは「何でもそれ自体で汚れたものはないが、それを汚れたものと考える人にとっては汚れたものなのだ(14節)」と語っている。つまり、本質的には食物を食べる行為自体が罪になるわけではないが、それを罪だと認識している人に、強要するように食べさせたり、逆に批判してしまえば、それが罪になる可能性があるという論理である。 張ダビデ牧師は、この箇所を説教する際、「愛は自由を制限する」という主題を好んで取り上げる。ある人にとっては何でもないことが、また別の人にとっては信仰上のつまずきになり得る。であれば、愛する心を持った者は「それは全く問題ではないから、ともに楽しもう」と無理強いするのではなく、「その人に不安や不快感があるなら、進んで自分の自由を制限してでも配慮しよう」と決断すべきだということだ。パウロはコリント第一の手紙8章でも「もし私の食べる肉が兄弟をつまずかせるなら、私はその人がつまずかないよう一生肉を食べない(13節)」と宣言している。これは極端な例示のようにも見えるが、実際パウロが悟った福音的自律性とは「自分の自由を最優先にする在り方」ではなかった。「兄弟を生かす在り方」の方がさらに重要であるため、自分に与えられたどんな権利や自由も、兄弟の信仰を損なう恐れがあれば、喜んで手放そうとしたのである。 ローマ書14章15節で「もしあなたの食べ物のために兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって行動していない。キリストがそのために死なれた兄弟を、あなたの食べ物で滅ぼしてはならない」と語るのは、この文脈を劇的に示している。自分の好みや立場を最後まで主張して兄弟を悲しませ、つまずかせることは、キリストがいのちを惜しまず捧げられた兄弟を滅ぼす結果を招きかねないという警告である。兄弟をつまずかせることは、キリストの犠牲を無に帰すことと大差ない。ゆえに共同体の中で強い者はむしろ弱い者をさらに配慮すべきだ。「強い」とは単純に信仰的「レベル」を意味するのではなく、「自由を享受できる範囲」が広いことを指す。しかし、その自由を乱用してはならない。例えばある人が豚肉を食べられないと告白したとき、「いや、豚肉を食べるのは罪じゃないから食べろ!」と無理やり勧めることこそ、パウロが言う「つまずかせる」や「障害を置く」行為に該当する可能性がある。愛の出発点とは「相手がどのように感じるか」をまず考え、その人を立てることである。 これを現代の教会に当てはめると、教会の中には多様な嗜好や性格、そして信仰的背景が混在している。ある人はある礼拝形式や文化的表現を思う存分受け入れ、楽しむ。一方で、それを非常な不快感として捉える人もいる。みな「主のために」と思っているにもかかわらず、やむを得ず葛藤が起こる場合がある。そのようなとき、「教会内の秩序と和合のために、自分の自由を進んで制限できるか」という問いが非常に大切になる。ローマ書14章19節でパウロは「そういうわけで、私たちは平和に役立つこと、互いを育てることに励みましょう」と語る。つまり聖徒は論争や紛争を引き起こすよりも、平和を生み出し互いを築き上げる道を探ることに力を注ぐべきなのだ。教会の本質は神の国の拡大のために一つの体となって仕えることであり、「食べるか飲むか」という問題に執着して分裂を起こすことは、決して神の御心ではない。 「神の国は飲食ではなく、聖霊における義と平和と喜びだからだ(17節)」という言葉は、この論争の核心を突いている。兄弟に憂いと試みの種を与えることは許されず、平和を壊してはならない。張ダビデ牧師はこれについて説教する際、しばしば「私たちが目指すべきは真の『シャローム』の回復だ」と語る。神の国は義と平和、そして喜びが満ちた状態であり、もし教会が食物や祭日、制度の問題で緊張や葛藤、不満や批判であふれるなら、それはすでに神の国の性格から大きく離れてしまっている。ゆえにローマ書14章で強調される点は、どんなに些細に見える問題でも、それが兄弟の信仰の妨げになる可能性があるなら、慎重かつ繊細に扱わなければならないということだ。救いと直結しない必須教理でない限り、愛はすべての知識を超える。パウロの表現どおり「すべてが許されるからといって、すべてが徳を立てるわけではない(コリント第一10:23参照)」という真理を肝に銘じるべきなのである。 特に14章20-21節で「肉を食べないことも、ぶどう酒を飲まないことも、また何であれ、兄弟をつまずかせることをしないのは良いことだ」と語る。これによってパウロは、キリスト教的自由自体は善いものだが、最終的にはより大きな善である「兄弟の救いと喜び」のために、いとわずそれを制限しうることをはっきり表明する。そして最後の23節で「疑いながら食べる人は罪に定められている。それは信仰に基づいていないからである。信仰に基づいていないことはすべて罪である」と結論づける。パウロは何事でも「良心の呵責なく、信仰をもって行いなさい」と勧めるが、ここで要になるのは自分の良心だけではなく、他者の良心にも配慮する必要があるということだ。自分には何のつまずきもない行為でも、それによって兄弟が傷つき、試みに陥る状況ならば、パウロはそこで行動をやめるべきだと考える。キリストの愛は自分自身のためだけでなく、教会共同体全体を立て上げるために用いられるからである。 これは教会共同体が持つ独自の倫理的実践でもある。世の中は「なぜ私が配慮しなければならないのか。各自が勝手にすればよい」と言うかもしれない。しかし教会は「聖徒は『自分』だけでなく、互いを顧みる責任を負う」と宣言する。張ダビデ牧師はこれを多くの講演で「十字架共同体意識」と説明する。イエスがご自身の体を犠牲にされた愛を覚える教会ならば、互いに損を被りながらでも仕え、世話をする姿が表れるべきだというのである。特に異邦文化と旧約律法の間で葛藤が大きかった初代教会の状況は、現代の多元化時代の教会が身につけるべき態度をそのまま示す好例と言えるだろう。教会には信仰年数、文化的背景、教派の伝統などが異なる人々が入り混じっているが、福音の本質を求めながら互いに受容し、ともに成長していかなければならない。そのとき最も切実に必要とされるのが「愛を通じた自由の制限」なのである。 3. 共同体的な仕え合いと、広い心でもって異邦人を受け入れよという最終的勧め ローマ書15章1-13節まで続くパウロの勧めは、事実上14章の主題をさらに拡張したものである。パウロは15章1節で「私たち強い者は、弱い者の弱さを担い、自分を喜ばせることをしないのが当然」と述べる。これは「互いの荷を負い合いなさい」という勧めであり、キリストの愛が具体的な仕え合いを通してどのように現れるかを示す箇所である。一方では特定の規定や文化を守らない者を疑い、他方では律法的だと批判する悪循環を断ち切るため、パウロは「互いに助け、育て合え」と促すのだ。張ダビデ牧師もまた、弱い者を配慮し仕えることこそ、教会が世と区別される大きな特徴であると強調する。教会が「弱い者」を排除したり定罪する瞬間に、キリストの教えは色あせてしまう。イエスご自身も自らを喜ばせるのではなく、罪人である私たちのために十字架にかかられたのだから、私たちも互いを立てることに力を尽くすべきだというのがパウロの神学的基盤である。 15章4節以下では「かつて書かれた事は何であれ、私たちの教訓のために書かれたのであって…」と言い、旧約聖書を通じても忍耐と慰めの希望を得られると明かす。その後5-6節で「忍耐と慰めの神があなたがたにキリスト・イエスにならって互いに同じ思いを抱かせ、一つ心、一つ口で私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえさせてくださるように」と祈っている。これは葛藤や分裂で様々な声が上がる教会であっても、最終的には同じ心と同じ口で神を賛美するに至るようパウロが切に願っている箇所である。初代教会も現代教会も、葛藤のパターンや規模こそ違えど、互いを包み込みながら同じ声で神に賛美を捧げたいという思いは同じだ。パウロの祈りは時代を超えて教会のビジョンとなる。 結局、15章7節から始まる「広い心で異邦人を受け入れなさい」という部分は、この全体の教えの結論部となる。「それゆえ、キリストがあなたがたを受け入れて神に栄光をお返しになったように、あなたがたも互いに受け入れなさい(7節)」と明示されている。異邦人とユダヤ人の葛藤は、パウロが活動していた当時の教会最大のイシューであった。ユダヤ人には自分たちが律法の伝統を受け継いできた「選民」という誇りがあり、異邦人にはそうした律法的伝統を「不要な束縛」とみなし受け入れづらい面があった。パウロ自身が直面した葛藤であり、初代教会の至る所で生じた激しい論争でもあった。それでもパウロはエペソ書、ガラテヤ書、ピリピ書など多くの書簡を通じて絶えず「もはや差別はなく、キリストにあって一つの新しい人だ」と宣言してきた。ローマ書でも同様に、異邦人を否定したりユダヤ人を排斥するのではなく、互いに向けて広い心をもって受け入れ合えと求めるのである。 ここには旧約の預言とその成就に関するパウロの神学が支えとなっている。イスラエルだけでなく、地の果てに至るまで神の栄光が宣べ伝えられるべきだというのが預言者たちのメッセージであり、その預言がイエス・キリストを通して拡張されたというわけだ。神はユダヤ人と異邦人が共に救いを享受する共同体を計画され、その点をパウロは旧約の引用(詩篇、申命記、イザヤ書など)を用いて説き明かす(15:9-12)。このように福音は特定の民族や文化圏だけのものではなく、全世界に向かう神の恵みの宣言である。ゆえに教会内でも特定の民族的、文化的、信仰的背景を持つ人を否定するのではなく、福音の下で互いに受け入れ、連帯し合わねばならない。パウロは「希望の神が信仰によるあらゆる喜びと平和をあなたがたにもたらし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように(13節)」と述べ、最終的にこの福音が個人の次元を超えて教会全体、さらに世にまで変化をもたらすことを願っている。 張ダビデ牧師はここからさらに踏み込んで、この時代の教会が直面する現実を指摘し、様々な人種や言語、文化の人々が一堂に集まる場こそが教会であるべきだと説く。教会が特定の文化、特定の民族、特定の階層だけの物差しを絶対化してしまうなら、福音が持つ「一つにする力」や「包容」の可能性を狭めることになってしまうからだ。だからこそ教会は常に「私や私たちの共同体が不快や不慣れを感じるとしても、他者を喜ばせることができるか?」という問いを発し続けなければならないという。これはパウロがローマ書15章2節で語った「私たちはそれぞれ隣人を喜ばせ、善を行い、彼を建て上げなければならない」という教えと完全に一致する。ときに異邦の文化をもつ信者が教会に加わるとき、既存の信徒たちは見慣れない言語や習慣に抵抗を感じるかもしれない。逆に異邦文化圏出身者たちは、古くからの教会の伝統や慣習を息苦しく思うかもしれない。それでも教会はその両者を統合し、キリストのうちで一つの体として受け入れるよう求められている。 ローマ書15章のメッセージは、パウロ書簡全体を貫く主題でもある。「福音の普遍性」という観点から、福音は全世界のあらゆる人々に向けられた神の招きであり、その招きの中でこれまで分かたれていた「私」と「あなた」、ユダヤ人と異邦人、「強い者」と「弱い者」、保守と進歩などが一つに結ばれていく。この大いなる結合は単なる外面的な形だけを意味しない。互いを心から受け入れ、兄弟姉妹として尊重し、一つの体を成す本質的な統合を指す。パウロはその過程で必然的に衝突が起こり得ることを知っていた。だが、葛藤の場を福音の光で照らしながら解決へと向かうとき、教会は真の一つとなる体験を得る。 張ダビデ牧師は、この文脈においてイエスの大祭司的祈り(ヨハネ17章)をよく引用する。イエスは十字架につけられる前夜、「父よ、あなたとわたしが一つであるように、彼らも一つとなるようにしてください」と祈られた。その祈りどおりに教会で「争い」や「分裂」ではなく、「和合」と「受容」が表れるなら、世はその姿を見て神を賛美するだろう。逆に教会がその本質を見失い、個人主義と批判精神にとらわれて葛藤を続けるなら、世は教会に向かって「自分たち同士ですら一つになれないのに、どんな福音を伝えようというのか」とあざけるしかない。パウロはすでにローマ書14章16節で「あなたがたの善いことでそしりを受けないようにしなさい」と警告した。教会外の人々が教会をそしる口実を、私たち自身が提供すべきではないということだ。これは2000年前にも切実な警告であったし、今日においても依然として急務の警告である。 総じて、パウロがローマ書14章から15章にかけて示している教えは、現代の教会にも重要な指針を提示する。第一に、教会内に多様な信仰的背景や文化が存在する際、「互いに批判し合わず、強い者は弱い者を見下さず、弱い者も強い者を疑わない」よう勧めている。第二に、キリスト者なら「自由」を満喫しつつも、それが誰かの信仰を損なう恐れがあるなら、いとわず節制できるような愛のいけにえを捧げるべきだ。第三に、教会はイエス・キリストの愛と犠牲を見習い、互いの弱さを担い合う姿で仕え合い、さらに異邦人すらも広い心で受け入れて神の栄光を現すべきだ。張ダビデ牧師はこれを時代を超えた福音の根幹とみなし、教会が絶えず刷新していくべき主題として提示している。 こうした教えを踏まえると、ローマ書14-15章が語る共同体の姿は、広大な草原で多様な動物が共存する情景にも似ている。草原ではライオンが猛獣だとしても、もし内面で病に冒されれば結局は何もできず倒れてしまう。教会も同様に、外からの迫害や攻撃だけで倒れるのではなく、内部の葛藤と批判が積み重なって自滅しうる。だからこそ私たちは「自分と異なる人々」や「自分より弱いと見える人々」を裁くのではなく、むしろ彼らを守り、立てる方を選ぶときにこそ、教会が健やかに存続できることを悟る。そこにこそ「義と平和と喜び」が宿り、神はそのような教会を通して世に福音を広げられるのである。 張ダビデ牧師が説教の中でよく語るたとえ話の一つに、家庭で子どもたちが喧嘩をしたときに、親が仲裁する様子がある。親はどちらか一方だけの味方をするのではなく、二人とも大切な子どもゆえに、互いに和解し理解し合うことを願う。教会の中でも神は同じように「あなたがたは皆わたしの子どもだから、互いに非難したり見下したりせずに尊重し合いなさい」と呼びかけておられる。その真理を実践する生き方こそ、イエス・キリストに倣う道であり、神に栄光をお返しする道である。食物規定や祭日順守を越えて、今日においても数えきれないほど発生する教団間・教派間・文化間・世代間の葛藤を思えば、この原則は決して過去の話で終わらない。むしろ「互いに受け入れなさい」というパウロの命令は、一層切実に求められている。 最後に、ローマ書15章13節でパウロは「希望の神が、あなたがたが信仰によるすべての喜びと平和に満たされ、聖霊の力によって希望にあふれるように」と祝福している。キリスト者の歩みとは、単に葛藤を回避したり、無条件に妥協することではなく、あらゆる葛藤を福音の力で溶かし出し、最終的に喜びと平和を豊かに得るプロセスだと言える。もし教会がこの喜びと平和を享受できないとするなら、それは教会の内に「批判と疑い、軽蔑」の文化が根を張っているからかもしれない。パウロの教え、そして張ダビデ牧師が繰り返し強調してきた「互いに愛し、受け入れよ」という呼びかけに従うとき、教会は文字通り多様な伝統と文化を抱擁しながらも、調和の中の一致(unity in diversity)を成し遂げることができる。そうした教会の姿を見て、世は神をあがめ、打ちひしがれた人々も再び立ち上がって福音に膝をかがめるような歴史が起こるだろう。 結局、2000年前のパウロの状況も、今日を生きる私たちの状況も、福音が求める根本的な精神は変わらない。兄弟を批判する代わりに受け入れ、自分の自由を享受しつつも他者をつまずかせないよう愛をもって制限し、さらに弱い者を顧みて外部の人(異邦人)を歓迎する姿勢こそ、教会が世と区別される聖なる核心なのだ。これこそ「私たちは皆神の裁きの座の前に立つことになる(ローマ14:10)」という警告を心に留める聖徒の生き方だと言える。真に教会が「義と平和と喜び」を味わう道は、批判と分裂を選ぶときではなく、互いに受け入れ合い、ともに福音の喜びを享受するときに開かれる。こうしたメッセージは張ダビデ牧師の多くの説教と教えの中で繰り返し語られる中心的キーワードであり、教会が回復すべき真の福音の道だと私たちは改めて悟らされるのである。 www.davidjang.org

    3월 20, 2025
  • Accept One Another – Pastor David Jang 1. Diverse Perspectives within the Church and the Apostle’s Exhortation to “Not Judge One Another” Romans 14 is a crucial passage that practically demonstrates how believers with differing viewpoints and perspectives should live together in the Christian community. In this chapter, Paul delivers a guiding principle to the…

    3월 20, 2025
  • Aceptaos mutuamente – Pastor David Jang

    El capítulo 14 de Romanos es un pasaje clave que muestra de manera muy práctica cómo deben convivir aquellos que tienen diferentes perspectivas y opiniones dentro de la comunidad cristiana. Pablo exhorta a los creyentes de la iglesia en Roma con un mensaje central: “No os juzguéis unos a otros, sino aceptaos en el Señor”.…

    3월 20, 2025
  • 서로를 용납하라 – 장재형목사

    1. 교회 안의 다양한 관점과 ‘형제를 비판하지 말라’는 사도의 권면 로마서 14장은 그리스도 공동체 안에서 서로 다른 관점과 견해를 가진 이들이 마주칠 때 어떻게 살아가야 하는지를 실제적으로 보여주는 중요한 본문이다. 바울은 로마 교회 성도들에게 “서로 비판하지 말고 주 안에서 용납하라”는 기조의 메시지를 전한다. 특히 본문(14:1-12)을 통해서 “믿음이 연약한 자를 비판하지 말라”고 권면하는데, 이는 초대 교회 안에 존재하던 갈등을 극복하기 위한 사도의 실제적 지혜와…

    3월 20, 2025
  • Dans la tourmente, la voie du salut et de la réconciliation – Pasteur David Jang

    1. L’attitude de foi face à l’épreuve Le pasteur David Jang a souvent insisté, dans ses prédications et conférences, sur la manière dont les croyants doivent vivre au milieu des souffrances et des tribulations. Au cœur de son enseignement se trouve la certitude que des moments de détresse et de difficultés surviennent inévitablement, et que…

    3월 3, 2025
  • 在患难中寻找救恩与和解之路 —— 张大卫牧师

    1. 在患难中的信仰态度 张大卫牧师多次在讲道和演讲中强调,当信徒处于苦难和患难之中时,应当怎样生活。他的核心思想在于:苦难和困难的时刻必然会到来,而在这种境况下,信耶稣的人应当与世人不同。耶稣在《马太福音》6章17节所说“你禁食的时候,要梳头洗脸”(有的译本作“头上抹油,脸上洗净”)这一教导,也可视为在苦难中不要只停留在狼狈、寒酸的样子,反倒要更加坚毅并圣洁地站立的例子。意思是,与其只是表现出忧愁黯淡的面容、突出悲伤,不如在内心深处依靠上帝,坚固地站立。 基于这段经文,张大卫牧师强调:“信耶稣的人,对待苦难的态度就该不同。”对一般世人而言,恐惧和担忧往往占据心头,但对信耶稣的人来说,应当有力量驱逐这种恐惧。他提醒我们牢记“患难终将过去”这一事实,而在患难时期我们如何度过,事后会带来截然不同的结果。以新冠疫情期间全球实行的“社交距离”为例,我们会反思自己究竟有多么“与人紧密相连,却与上帝疏远”。人在行动受限、难以见面交通的处境中,反而可能将这段时间当作更加亲近上帝的时机。 张大卫牧师认为,这种被动或主动的“限制”实则是上帝赐给我们的“机会”。在需要与人保持物理距离的当下,正好可以更加亲近上帝,减少与世界的焦虑、孤单、烦闷,而在上帝面前得着恢复。尤其在此期间,我们应当更加认真地阅读、聆听并默想圣经。牧师举例说,四旬期(大斋节)之所以重要,正是因为这是纪念耶稣苦难并深入体会十字架意义的一段时间。这“四十日”的意义在于我们参与耶稣的苦难,并在苦难中经历神赐下的救恩恩典。 此外,张大卫牧师以“牛有四个胃”为例,说明牛会在夜间将白天吃下的食物重新反刍。与此类似,我们也应该将看过一次的经文重新“反刍”。不是浅尝辄止式地读几遍就算,而是要深深地铭刻在心,每天都重新拿出来默想、实践。如此,圣经的话语才能丰盈我们的灵魂和内心。他引用“天上的牛”这一比喻,如同有四个胃的牛不停地反刍,我们也要不断地“回味”圣经的内涵,在其中获得更深的领悟和吸收。 在这个脉络之下,他特别建议信徒学习《罗马书》。这卷书是使徒保罗福音神学的精华,系统地阐述了福音的本质、上帝的义、人类的罪与救恩、称义、圣灵的工作、教会的生活等基督教信仰的核心。张大卫牧师鼓励大家“抓住这次患难,好好钻研《罗马书》,直到彻底掌握”,并希望人们把自己之前讲授《罗马书》的资料带回家当作功课来学,也鼓励父母向孩子简明易懂地教导。《罗马书》的核心内容——如“四律”所概括的救恩教义——对于思维和理解能力已然很强的孩子来说,也要清晰地扎根在他们心里。 张大卫牧师强调,正如“基本功”很重要,教导孩子福音和救恩的核心要义也绝对重要。无法随意出门的这段时期,正是重拾信仰基本功并洞察圣经的最佳契机。正如《耶利米书》21章8节所言:“耶和华如此说:‘看哪,我将生命的道路和死亡的道路摆在你们面前。’”这节经文暗示,如今这时期既可能成为生命之路,也可能成为死亡之路。不仅灵魂可能败坏,连身体也可能受损,社会层面上也可能出现更严峻的状况。但环境越是把我们逼到绝境,我们就越当把目光转向上帝——这是张大卫牧师反复给予的劝勉。 那么,如何认识上帝,如何与耶稣更加亲密?张大卫牧师认为,通过“上帝的话语”便能找到那条道路。他引用《罗马书》10章6-8节,提醒我们:为了认识耶稣基督,并不需要升到天上或下到阴间去寻找。耶稣已经来到我们身边,而圣经是让我们认识祂的“最近的路”。 “这道离你不远,就在你口里,也在你心里”(罗10:8)。这句经文表明,即便耶稣不亲自在你身边让你“看见”祂,我们也可以借着圣经充分地认识耶稣,并踏上信心之路。为此,要用口朗读圣经、用耳聆听、用心铭记,再用口传讲给他人,这既是我们“看见”耶稣之路,也是将福音传给世人的路径。正如《传道书》5章2节所提醒,我们要在上帝面前谨慎,不可轻易开口,反倒要更加聆听上帝的声音。 张大卫牧师将此概括为“在黑暗与患难的时代,不要活得愁苦不堪,反而要把这段孤独的时间当作上帝赐予的退修(retreat)时刻。”他援引保罗在大马士革路上遇见主、三日禁食、眼中鳞片脱落之后,又在阿拉伯度过三年(参见《加拉太书》1章15-17节)的经历。这三年是奠定保罗神学与事工基础的关键时期。同理,离开世俗活动的某段时间里,专注于读经和祷告,独自与上帝相遇,这才是加深属灵深度、获得新异象的宝贵机会。 在家中停留、实行社交距离的这段时间,也很容易被网络等各种诱惑夺去宝贵时光。张大卫牧师严厉警告:“不要去翻垃圾桶。”那“垃圾桶”就如同“基亥拿(地狱)”,其中充满淫秽、无益的网络信息,或者煽动谩骂和愤怒的刺激性内容。相反,我们应当借此机会追求圣洁,洁净身心灵(参《哥林多后书》7章1节)。保罗劝勉哥林多教会的信徒“洁净自己,除去身体和灵魂一切的污秽,敬畏上帝得以成圣”;现今的信徒同样需要操练,远离世俗诱惑。 总而言之,张大卫牧师所提出的,在患难中的信仰态度有以下几条要点。第一,苦难之时不是只表现悲伤、恐惧,而要以“上帝的子民”的身份坚毅且在灵里有光明的态度。第二,将社交距离或外部环境限制视作亲近上帝的机会。第三,透过上帝的话语更深认识耶稣,让话语充满心灵,并警惕世俗的淫乱与诱惑。第四,通过集中研读《罗马书》或《诗篇》等圣经,用反刍般的方式不断咀嚼和内化,让灵魂得饱足。 患难总会过去,但在此期间累积下来的属灵粮食与灵命肌肉并不会白费——张大卫牧师如此指出。无论是四旬期,还是其它特定节期,不仅是“形式上的禁食和自制”,更是切实参与耶稣的苦难,深入理解福音的本质,于是我们就能更进一步地属灵成长。 他也就健康管理提出建议:既然待在家里的时间更长,就可以通过俯卧撑、深蹲、门上固定单杠等方式每天锻炼。过信仰生活就是要认识到灵魂与身体密不可分。当身体强健时,属灵生活也会受益。此角度下,个人身心同得坚固,即能更丰盛地献上敬拜和事奉。 最后,张大卫牧师特别劝诫信徒默想《以赛亚书》43章“不要惧怕”的应许。虽然这是对雅各和以色列所说的话,但今日信徒也同样有效:“雅各啊,创造你的耶和华,现在如此说;以色列啊,造你的那位,现在如此说:你不要害怕,因为我救赎了你。我曾提你的名召你,你是属我的。”(赛43:1)这应许提醒我们,在上帝的绝对主权下,我们已经被救赎;即使要经过水火之灾,也不会被淹没或烧尽(参赛43:2),这是信心的根基。 再加上“因为你在我眼中是宝贵的”(赛43:4)的宣告,更让我们在患难中深切体会到上帝紧紧扶持我们的大爱。当我们确信这一点,就能摒弃恐惧与忧虑,将目光单单定睛在主身上。张大卫牧师将这一点视为“身份认同”的关键。当我们的信心软弱,首先消失的正是“我们在上帝面前的身份”。但我们已经是“属主的”,只要相信“以马内利的上帝”与我们同在,就没有环境能从根本上动摇我们。 总之,在患难中的信仰态度,归根结底是建立在耶稣基督的十字架与复活之上。若非耶稣透过苦难为我们成就的救恩,我们所说的“在苦难中寻找盼望”就显得空洞。然而,当我们默想耶稣的苦难、仰望十字架,复活的盼望便落在我们心里,我们可以由恐惧转向信心。张大卫牧师在多次聚会与讲道中提到这一点,尤其在复活节时,预告要通过“橄榄山讲论(Olivet discourse)”来分享基督亲自教导门徒的内容。 对他而言,“橄榄山”是主宣讲真理的圣地,与“登山宝训”降临之处意义相似。虽然目前环境不允许举行实际的退修会,但他认为透过周三礼拜、主日礼拜,以及个人的独处默想,同样可以与那真理相遇。这些劝勉正是张大卫牧师持续研究、深思在苦难时期信徒应有的态度之后的总结。事实证明,我们的信心最闪耀的时刻并不是在平安无事之时,而是当我们在苦难中更紧紧地抓住上帝、专注于祂的话语之时。 2. 根植于话语的属灵成长 张大卫牧师常常提出一个根本问题:“我们若想认识上帝,该如何认识?我们要如何认识耶稣?”并反复强调这条道路就在上帝的话语(圣经)之中。信仰生活不仅仅是情感或神秘体验,而是从阅读基督教经典《圣经》,明确领悟上帝和耶稣基督的旨意开始。 之所以特别强调《罗马书》,是因为这卷书对福音的本质、上帝的公义、人类的罪性,以及基督带来的救赎过程,都作了系统论述。使徒保罗所写的《罗马书》贯穿整个基督教信仰的核心教导,可以说是“宝库”。任何信仰耶稣的人,都该深入了解。张大卫牧师提到,自己曾在2003年于美国讲授《罗马书》,最近再次阅读当年的讲稿,仍大受感动。他也鼓励更多人研读这些资料,并鼓励父母为孩子做浅显易懂的讲解。 他如此强调《罗马书》,也因为现代社会中诸多问题——诸如淫乱、暴力、贪婪、拜偶像等——在《罗马书》第1章已点明这是人类罪性的必然结果。保罗在《罗马书》1章18节往后所描写的,就是上帝的愤怒为何临到,以及人类如何败坏堕落。张大卫牧师借此提醒:“我们本来就是在上帝的愤怒之下的对象。”上帝憎恶罪,对于充满罪的世界会施行审判,但同时也通过基督为我们开了救恩之门。若对这一事实一无所知,就难以理解世上种种悲剧与问题因何而起。但若通过《罗马书》正确理解“上帝的愤怒”“人类的罪”,以及“借着耶稣基督得蒙救赎”的真理,就能用话语的视角来诠释现代社会的混乱。 他也推荐信徒们常读《诗篇》。因为《诗篇》涵盖了所有人类情感:欢喜、悲伤、绝望、盼望、孤独、安慰……各种心境都在其中。牧师补充说,年岁渐长之后,信徒往往会更加喜爱《诗篇》。若每天读两三篇,一个月也可以轻松读完150篇,而且能在诗人的情感中找到与自己境况相似的共鸣。 张大卫牧师鼓励我们读、背诵并深度默想《诗篇》,借此“找回自己的位置”。“堕落”即离开本来该有的位置,即偏离与上帝的正确关系。正因如此,我们需要基督的救赎。耶稣是我们与上帝之间唯一的中保(参《提摩太前书》2章5节),为我们开辟了重回原本位置的道路。 这样的话语为中心的信仰生活,并不只局限于累积知识。张大卫牧师强调,话语蕴含改变我们灵与魂、以及身体的能力。真正敬畏上帝、坚守圣经话语的人,会自然追求圣洁与洁净,如此不但能得到属灵上的健康,也能促进肉体的健康。基督徒并非只会祈祷,还要遵守上帝创造秩序来管理好身体。牧师之所以大力主张每天做两百个俯卧撑、深蹲、吊单杠等运动,正是为了帮助大家实践灵肉互相促进的理念。 他同时呼吁,在教会群体中也要建立一同学习并互相教导、传讲上帝话语的氛围。现在的孩子智力发展很快,不能只靠主日学的形式化教学,更需要扎实而系统的福音教育。因此,要向他们清晰传达“四律”或救恩基本教义,让孩子能通过阅读上帝的话语来认识耶稣。 张大卫牧师也警告当下“互联网时代的垃圾桶”,吩咐信徒避免自己和孩子去翻找那里的“废物”。沉迷世俗刺激、色情、暴力内容,就如同在垃圾桶里翻找腐败之物,对灵魂极具毁灭性。他援引《哥林多后书》7章1节“我们既有这等应许,就当洁净自己,除去身体、灵魂一切的污秽,敬畏上帝,得以成圣”的教导,强调这是保罗给哥林多教会的劝勉,同样也适用于今天。 因此,根植于话语的属灵成长,是包含了人脱离罪性、走向圣洁的过程。借着研读《罗马书》,我们把握福音要义;通过默想《诗篇》,我们理解人类内心的种种情感;更藉着通读、默想整本圣经,我们领悟到上帝的主权和救恩计划。与此同时,我们也确认自己是上帝的创造物、属上帝所有(参赛43:1),无论世代变迁,都会在这永不改变的真理中得享平安。 特别是张大卫牧师不断强调《以赛亚书》43章所言“我造了你,也提你的名召你,你是属我的”这句话要铭记在心。这不仅是历史上对以色列民族的应许,也同样指向借着耶稣基督而得救赎的所有信徒。因为上帝亲口宣告“不要惧怕,我已经救赎了你,你是属我的”,我们的身份与价值,就由上帝的主权决定。 当我们承认这份主权,就能确信自己虽然会经过火焰、深水,也不会被焚烧或淹没(参赛43:2)。《以赛亚书》43章3节往后,上帝宣告:“因为我是耶和华你的上帝,是以色列的圣者,是你的救主。”唯有祂是我们的救主,因此我们能够不惧怕地生活。 概括而言,张大卫牧师所谓“根植于话语的属灵成长”,就是集中研读《罗马书》,默想《诗篇》,并从整本圣经的脉络中体会上帝的救赎计划。此外,不仅是个人层面,也要在家庭与教会中一起研读、祷告并实践,彼此成全。当这样的文化扎根于我们的共同体,信仰就会愈加牢固深厚。 3. 救恩与和解之路 张大卫牧师信息的最终指向是“救恩与和解之路”。这是指人通过悔改并相信耶稣基督,从而恢复与上帝的正确关系。基督教信仰的核心在于:人背离了上帝,走在罪的灭亡之路上;但因着耶稣基督的十字架和复活,上帝邀请我们进入新生命的道路。 在这个过程中,最重要的是我们的身份认同。原本我们是必遭上帝忿怒的罪人,但因耶稣担当了我们应付的代价,使我们得以称义、恢复上帝儿女的地位。《罗马书》详细论述这点;而《诗篇》则用诗人之情感,有时哀婉,有时壮丽地抒发这种救恩体验。至于《以赛亚书》则展现了当以色列百姓被掳到巴比伦、处于绝望状态时,上帝仍然宣告“你是我的”(赛43:1),并亲自施行救恩,让我们看见救恩如何在历史中实现。 张大卫牧师把这视为上帝的“主权”。创造万物的上帝对其所造之物拥有正当的所有权或主权。即使人想要犯罪、跑离上帝,祂仍会用各种方式让他们回转。耶稣基督作为上帝与人之间唯一的中保(参《提摩太前书》2章5节),重新接通了那被切断的道路。正如保罗在《罗马书》5章1节宣告的:“我们既因信称义,就借着我们的主耶稣基督得与上帝相和。”相信耶稣的人最终将与上帝“和好”。 这“和解之路”固然指向个体的救恩,但也同时面向教会团体,更面向世界各地。张大卫牧师反复强调:尽管世上的各领域充斥腐败与罪恶,然而在福音里,人仍然可以成为“新造的人”而获得盼望。《罗马书》1章虽描绘人类罪性最深的堕落,但并不以绝望收尾,因为“上帝的义正显明出来了”(罗1:17),藉着耶稣基督的福音之大能,为人指明救赎之途。 因此,基于圣经的救恩与和解并非只是“宗教仪式”,它其实为洞察历史与现实提供了全新视角。我们能明白为何世界会如此混乱、罪恶和腐败不息,又如何能得到解决——圣经已清楚点出问题根源和救赎之法。张大卫牧师用“开启世间奥秘的条形码就是上帝的话”来比喻:即便问题看起来错综复杂,但从圣经的眼光观照,就能明白罪的起源,也能看见十字架是终极解答。 所以我们的责任不只是“与上帝和好”并自己体验救恩,也要在更大的范围内传扬这福音。耶稣给每个人的命令就是“你们要去,使万民作我的门徒”(太28:19),即大使命。张大卫牧师坚信,当我们真正明白《罗马书》的要旨、默想《诗篇》的奥义,并洞悉整本圣经的救赎历史,自然就会无法抑制地传扬福音。 在这个过程中,我们必须先“离弃罪”。耶稣所要进入的心灵,不可能同时容纳我们的骄傲、贪欲、淫乱与虚假。张大卫牧师将此比喻为“翻垃圾桶”,指出现代人经常藉由网络与媒体不停摄入无谓的刺激与信息。因为在黑暗中极易被吞噬,所以我们越要用上帝的话语照亮心灵,让自己走在圣洁之路上。 最终,救恩与和解之路是通过信仰告白与顺服神的话语而开启,并要在我们生命中持续见证。对此,张大卫牧师在很多礼拜、讲道和演讲中反复强调:个人的敬虔生活、家庭的信仰教育、教会的礼拜与事奉,以及社会与世界的宣教——这一切都与“救恩与和解”的基督信仰本质相连。 他再次引用《以赛亚书》43章的例子:即便当时以色列百姓被掳到巴比伦,深陷绝望之中,上帝仍称呼他们“你是我的”,说他们是“宝贵而尊贵的”(赛43:4),宣告要拯救并释放他们。过去祂拯救过被困在埃及的以色列人,现在也应许救拔被掳之民。由此可知,无论哪个时代,上帝子民在苦境中都蕴含着上帝的救赎计划,而这应许从未废弃。 耶稣基督的到来,正是这整部救恩历史的顶点。祂完成“以马内利”——上帝与我们同在的奥秘。张大卫牧师说:“我们为什么需要耶稣?”答案是:“为了认识上帝、得到永生与救恩,拥有进入天国的应许。”没有耶稣,我们无法逃脱永远灭亡之路;但借着耶稣,我们能坦然无惧地到上帝面前,回归受造本位(身份)。 因此,张大卫牧师的中心信息可归纳为“确认自己的身份与位置”。无论是患难时期、苦难时刻,还是在不得不保持社交距离的境况中,我们都要将之当作“属灵退修(retreat)”的机会,把自己的生命交在耶稣面前,通过话语和祷告反省自我。正如保罗在阿拉伯度过的三年中,他的生命方向与宣教神学都被确定——今天的我们也能借着孤独的时间,获得更深的上帝经历。 这一信息并非抽象空谈。张大卫牧师持续援引圣经章节,分享他对《罗马书》的研究与讲课资料,也强调每日默想《诗篇》的必要性,为我们提供了具体的实践指南。同时,他也建议在家中如何向孩子传扬福音、一起读经——比如每天与家人一起朗读几章《诗篇》,然后互相分享等。 更进一步,张大卫牧师提醒我们关注个人健康。因为灵魂与身体并非割裂,长时间待在家中仍要规律运动,操练自我约束与圣洁。从这些做法当中,我们才能为日后患难过后继续服事、传福音做好准备。 结论而言,张大卫牧师所说的“救恩与和解之路”,并非空洞的愿景,而是从《以赛亚书》到新约福音书,再到《罗马书》、《启示录》贯穿整本圣经的关键主题,同时也是耶稣基督亲自示范并赐予我们的生命道路。在这条道路上,我们听见上帝的声音:“你是我的”(赛43:1),“你在我眼中是宝贵而尊贵的”(赛43:4),“我曾提你的名召你,你是属我的”(赛43:1)。一旦相信这声音,我们便属乎上帝,且在基督里重生,享受新的生命。 张大卫牧师称之为“和解”,即人因罪而中断的与上帝关系得以修复,并在内心得到真正的平安与喜乐。当它扩大到家庭、教会、社会层面,就展现了基督信仰在社会与历史中的意义。最终,让人人都能认识基督,在信心中经历救恩,并将荣耀归给上帝——这是张大卫牧师所期盼的“救恩与和解的最高目标”。 综合以上,他的讯息可整理如下: 因此,“以色列啊,你不要惧怕,因为你是属我的”(赛43:1)这一上帝的宣告,“看哪,我将生命的道路和死亡的道路摆在你们面前”(耶21:8)的警醒,以及“这道离你不远,就在你口里,也在你心里”(罗10:8)的福音宣告,成为当代信徒不可或缺的呼吁。张大卫牧师不厌其烦地强调:我们面前的路是“生命之路”;走在这条路上的人,在患难中也能无惧,充满上帝的话语,对耶稣的救恩坚定不移,并享受与上帝和好的福分。 可见,张大卫牧师的信息最终指向一条真理:即使在患难中也“不惧怕”,更亲近上帝,用上帝的话语装备自己,藉着耶稣基督的救恩与和解,活出新生命。纵然这世代动荡不安,各种危机层出不穷,上帝却从未撤回“我提你的名召你,你是属我的”这一救恩应许。相反,越是艰难之时,我们越要省察自己,通过话语和祷告更加成熟,进而成为社会与他人面前的光和盐。这就是张大卫牧师一直以来传讲的福音核心,也是我们在患难时代最为需要的属灵指引。

    3월 3, 2025
  • 苦難の中で見出す救いと和解への道 – 張ダビデ牧師

    1. 苦難の中での信仰的態度 張ダビデ牧師は、これまで何度もの説教や講演を通じて、信仰者が困難や苦難のただ中でどのように生きるべきかを強調してきた。彼が語る核心は、「苦難の時期や厳しい状況は必ず訪れる」という事実と、「イエスを信じる者は世の人々とは異なる姿勢を示さねばならない」という点である。イエス様がマタイ6章17節で「断食する時には頭に油を塗り、顔を洗いなさい」とおっしゃったのも、苦難の時にただみすぼらしい姿ばかりしているのではなく、むしろさらに毅然として聖く立つべきことを示す例だと理解される。これは、ただ外面で暗い顔をして悲しみを強調するのではなく、内面において神を頼り、しっかりと立っていなければならないという意味である。 張ダビデ牧師は、このみ言葉を通して「イエスを信じる人は、苦難に対する態度からして違う」と力説する。世の人々にとっては恐れや心配が支配的になりがちだが、イエスを信じる者であるならば、この恐れを追い払う力を持っていなければならないというのだ。したがって、苦難は必ず過ぎ去るという事実を覚えつつ、その期間をどのように生きるかが、その後に大きな差を生むと教えている。 新型コロナウイルス(COVID-19)をはじめ、世界的に「ソーシャルディスタンス(社会的距離の確保)」が実施されていた時期を例に取り上げながら、私たちがどれほど「神様よりも人と近く結びついて生きてきたか」を振り返る契機となるという。人々が自由に動き回りにくく、顔を合わせて交わりにくい状況は、逆説的に神様にさらに近づく時間とすることができる。 張ダビデ牧師は、このように制限された環境こそが、私たちに与えられた「チャンス」だと捉えている。人との物理的距離をとらねばならない時点で、その代わりに神様との距離だけはより近づける必要があるというわけだ。世の中で感じる不安、孤独、もどかしさは、神の御前で回復され得るものであり、とりわけこの時期にこそ聖書の言葉をより深く読み聞きし、黙想すべきだと力説する。彼が四旬節(サシュンセツ)の期間の例を挙げるのもこのためだ。四旬節はイエス様の苦難を記念し、十字架の意味を深く味わう期間である。ここで言う40日の意味は、私たち自身がイエス様の苦難に共にあずかり、その苦難を通じて与えられた救いの恵みを体験することにある。 さらに張ダビデ牧師は、牛の胃が4つあるという事実に言及し、「一度食べたものを夜にもう一度取り出して反芻する」ように、私たちも一度目を通した聖書の言葉を再び反芻しなければならないと説く。つまり、ただ何度か読んで通り過ぎるレベルではなく、心の奥底に深く刻み、毎日のようにもう一度取り出して黙想し、実践せよという意味である。そうすることで私たちの霊と心が御言葉によって豊かにされる。彼は「天の牛(ハネルソ)」という表現を使い、ちょうど胃が4つある牛が何度も反芻するように、聖書の御言葉を繰り返し味わい、その意味を反芻し、深く受け入れる習慣を持つべきだと重ねて強調する。 こうした文脈の中で、彼が特にローマ書の学びを勧めるのは、使徒パウロの福音神学が集約されたローマ書にこそ、福音の本質や神の義、人間の罪と救い、義と認められること、聖霊の働き、教会の生き方など、キリスト教信仰の核心が体系的に込められているからである。張ダビデ牧師は、「今回の苦難のおかげでローマ書を極めたと言えるほど集中して学んでみなさい」と勧める。また、かつて自分が各地でローマ書を講義した資料があるから、それを家で義務的にでも学習し、子どもたちにも分かりやすく教えてほしいと促している。子どもたちは既に知的能力が高くなっているので、その核心をよくまとめ、四つの法則(サ영리)に代表されるような救いの教理の基本を正しく植えつけねばならないというわけだ。 張ダビデ牧師は「基本姿勢が重要であるように、子どもたちにも福音と救いの核心を“基本”としてしっかりと教え込むことが絶対に大切だ」と語る。外出が自由にできない時期こそ、こうした信仰の基本を再び学び、御言葉を洞察する絶好の機会だというのだ。エレミヤ21章8節にあるように「主はこう仰せられる。見よ、わたしはあなたがたの前に命の道と死の道を置く」とある。この聖句は、まさにこの期間が命の道と死の道が同時に置かれた時になり得ることを示唆している。魂だけでなく肉体も損なわれる危険があり、世的にも社会的にもより深刻な状態が訪れる可能性もある。しかしそうした環境が私たちを追い込むほど、私たちの視線はますます神へと向かうべきだというのが、張ダビデ牧師の勧めである。 では、どのようにして神を知り、イエス様を親しく知ることができるのだろうか。張ダビデ牧師は、その道こそ「御言葉」によってであると語る。ローマ10章6節から8節を引用しながら、イエス・キリストを知るためにわざわざ天に上る必要も、よみ(無底坑)に下る必要もないという事実を思い起こさせる。イエス様は既に私たちのそばに来てくださっており、聖書こそがその方を知るための「最も近い道」なのだという。 「御言葉はあなたに近く、あなたの口にあり、あなたの心にある」(ローマ10:8)というこの聖句は、イエス様が直接そばに来てご自身を示されなくても、聖書を通して十分にイエス様を知り、信仰の道へ進むことができることを示唆している。だからこそ、私たちは自分の口で聖書を声に出して読み、耳で聞き、心に刻みながら、同時に口を通してそれを伝える。この行為こそ、私たちがイエス様を「見る」道であり、この世に福音を伝える道となる。伝道者の書5章2節の御言葉のように、私たちは神のみ前で軽々しく口を開くのではなく、むしろ神の御言葉にいっそう耳を傾けるべきなのだ。 張ダビデ牧師はこれを「暗い時代、苦難の時代に憂鬱に過ごすのではなく、この孤独な期間を神が与えてくださった退修(リトリート)の時間として活用せよ」という言葉でまとめる。サウロ(パウロ)がダマスコ途上で主に出会い、3日間断食し、目から鱗のようなものが落ちたことも重要だが、それ以上に、その後アラビヤで3年を過ごした期間こそ、パウロの神学と宣教活動の土台が築かれたことを思い起こさせる(ガラテヤ1:15-17)。同様に一定期間、世の活動から離れて、ひたすら御言葉と祈りに集中し、深い孤独の中で神に出会う時間こそが、霊的深みを育み、新たなビジョンを得る機会なのだと説明する。 このように家に留まらなければならない期間、社会的距離を保たなければならない時期は、インターネットなどの誘惑に陥って時間を浪費してしまう危険もある。張ダビデ牧師は「ゴミ箱をあさってはならない」と強く警告する。このゴミ箱はすなわちゲヘナ(地獄)のようなものであり、淫らなものや無駄なオンライン情報、人をそそのかすような刺激的コンテンツに溺れてはならないというのだ。むしろこの時間を通して聖さを追い求め、心と霊と体をきよくせよと勧める(第二コリント7:1)。パウロがコリントの信徒たちに「すべての汚れから自分を清め、聖潔を完全なものにしよう」と勧告したように、信者はこの世俗的誘惑から逃れる訓練が必要だ。 結論として、張ダビデ牧師が提示する「苦難の中での信仰的態度」は明快である。 苦難はやがて過ぎ去るが、その期間に積んだ御言葉の養分と霊的な筋力は決して無駄にならないと、張ダビデ牧師は語る。四旬節やその他特定の節期も、単に「義務的な断食と自制」の時間ではなく、イエス様の苦難にあずかり、福音の本質を深く悟る時間となるとき、私たちは一段と霊的に成長できる。 また、健康管理にも言及し、家の中にいる時間が増えた分、腕立て伏せやスクワット、ドアに固定する鉄棒などを活用して毎日運動すべきだと付け加える。信仰生活は、霊と肉体が互いにつながっていることを認識する生活でもある。霊的健康は肉体的健康とも密接に関連しており、肉体が活力を得るとき、霊的生活にも助けとなるという意味だ。この観点から、個人の身体と心の両方が同時に頑丈になることは、神の前でより豊かな礼拝と奉仕をささげるための基盤となる。 最終的に張ダビデ牧師は、苦難の中で「恐れるな」と語るイザヤ43章の御言葉を常にそばに置き、黙想せよと勧める。ヤコブとイスラエルに与えられたみ言葉だが、今日の信者にも同様に有効だという。「ヤコブよ、あなたを創造された主は今こう仰せられる。イスラエルよ、あなたを形造られた方がこう仰せられる。恐れるな。わたしはあなたを贖った。わたしはあなたを名をもって呼んだ。あなたはわたしのものだ。」(イザヤ43:1)という約束は、神の絶対的主権の中で、私たちが既に贖われた存在であることを思い起こさせる。たとえ水の中を通り、火をくぐる状況に直面しても、決して沈まず焼かれることはないという信仰の根拠となる。 さらに「あなたはわたしの目に尊く、尊い」(イザヤ43:4)というみ言葉まで合わせて記憶するならば、苦難の最中でも神が私たちを支え、私たちに対する大きな愛を決して手放さないという事実を、胸の奥深くに刻むことができる。こうした確信があるとき、信者は世の恐れや心配を振り払い、ただ主にだけ目を注いで生きることができる。張ダビデ牧師はこれを「アイデンティティ(本来の自己認識)の問題」と解釈する。私たちが信仰の力を失うとき、最初に消えてしまうのは「神の中における自分のアイデンティティ」だと言う。しかし私たちは既に「主のもの」であり、「インマヌエルなる神」が共におられると信じる瞬間、どのような環境も私たちを根本的に揺さぶることはできない。 このように苦難に臨む信仰的態度は、あくまでもイエス・キリストの十字架と復活に基づいている。もしイエス様が苦難を通して成し遂げてくださった救いがなければ、苦難の中で希望を見いだすという言葉自体が空疎になりうる。しかし私たちがイエスの苦難を黙想し、十字架を見上げるとき、そこに復活の希望が宿り、その希望によって恐れから信仰へと切り替えることが可能になる。張ダビデ牧師はこれを、さまざまな集会や説教で強調しており、特に復活祭を迎えるにあたって「オリベット談話(Olivet discourse)」を通し、キリストが直接弟子たちに与えられた教えを分かち合うと予告したこともある。 彼にとって「オリベット」とは、主のみ言葉が宣言された聖なる場所であり、山上の説教が与えられた場所と同じ意味を持つ。実際の修養会が開けない環境にあっても、水曜礼拝や主日礼拝、そして各人の個人的黙想を通じてその真理に向き合うことは可能だという。こうした一連の勧めは、張ダビデ牧師が苦難の時期に信者が取るべき態度について絶えず悩み、研究してきた結果でもある。結局、私たちの信仰がいっそう輝くのは平穏な時ではなく、まさに苦難のただ中で神をつかみ、御言葉に集中する瞬間であることを示しているのだ。 2. 御言葉に基づく霊的成長 張ダビデ牧師は「私たちが神を知るにはどうすればよいのか。イエス様をどのように知ることができるのか」という根源的な問いに対し、その道はまさしく「神の御言葉」によるのだと繰り返し強調する。信仰生活はただ感情的・神秘的体験だけで成り立つのではなく、キリスト教の聖典である聖書を通して神とイエス・キリストの御心を正確に理解することから始まるというわけだ。 彼がとりわけローマ書を強調する理由は、ローマ書が福音の本質や神の義、人間の罪性、そしてキリストによる救いの過程を体系的に説明しているからである。使徒パウロによって書かれたローマ書は、キリスト教信仰全体を貫く核心的教えが盛り込まれており、イエスを信じる者なら誰しも深く熟知すべき宝のような書だと言える。張ダビデ牧師は2003年にアメリカでローマ書の講義を行ったことがあり、その講義録を最近改めて読んだところ、大きな恵みを受けたと告白する。そこで多くの人にもその講義内容を学んでみるよう勧め、子どもにも分かりやすく解説してあげるよう励ましている。 彼がこのようにローマ書を強調するのは、現代社会が抱えるさまざまな問題、たとえば淫乱、暴力、貪欲、偶像崇拝などが、すでにローマ書1章に指摘された人間の罪悪と直結しているからだ。パウロはローマ書1章18節以下で、なぜ神の怒りが下るのか、人間がいかに腐敗し堕落していくのかをありのまま描写する。張ダビデ牧師は、この箇所から「私たちはもともと神の怒りの的となる存在だった」ことを悟らねばならないと述べる。 神は罪を憎まれ、罪が蔓延する世を裁かれる方であるが、同時にキリストを通じて私たちに救いの道を開いてくださった。これを知らないままでは、世に起こるあらゆる悲劇や問題がなぜ生じるのか理解しづらい。しかしローマ書を通じて「神の怒り」と「人間の罪」、そして「イエス・キリストによる救い」の筋道を把握すると、現代社会の混沌も御言葉の視点から解釈できるようになるというのが張ダビデ牧師の説明である。 また彼は詩編(詩篇)を読むことも勧める。詩編は人間の実存におけるあらゆる感情が込められた書であり、人生で遭遇する喜びや悲しみ、絶望や希望、孤独と慰めが多彩に表現されているからだ。年を重ねるにつれ、信者は詩編を頻繁に読むようになるとも付け加える。詩篇150編は、1日2〜3編ずつ少しずつ読んでいけば1か月ほどで全部読み終えることができ、その中で自分の置かれた状況と似た詩人の心情に出会うことができる。 張ダビデ牧師は、詩編を読み、暗唱し、深く黙想することで「自分の位置」を取り戻すよう勧める。「堕落」とは本来あるべき位置から逸脱することであり、すなわち神との正しい関係から外れることを意味する。だからこそ私たちはキリストの救いを必要とする。イエス様は神と私たちを結ぶ唯一の仲介者(第一テモテ2:5)として、私たちが本来いるべき場所に戻れるよう道を開いてくださったのだ。 このような御言葉中心の信仰生活は、単に知識を蓄えるだけで終わらない。張ダビデ牧師は、御言葉には私たちの霊と魂、さらには肉体さえも変える力があると力説する。結局、神を恐れ敬い、御言葉にしっかりととどまる人は、聖さと清さを追い求めるようになり、その結果、霊的健康だけでなく肉体的健康も同時に追求できるというわけだ。イエスを信じる人は祈りだけをする存在ではなく、神の創造秩序に従って自分の体もよく管理せねばならない。張ダビデ牧師が腕立て伏せを200回、スクワット、ドアに取り付ける鉄棒での運動などを具体的に勧めているのは、霊と肉が密接につながっていることを実感する実践を促すためである。 さらに彼は、教会共同体の中で御言葉を共に学び合い、互いに教え合い、伝え合う文化を作るよう呼びかける。子どもたちはすでに高い知的可能性を持っているため、ただ教会学校で形式的に学ぶ以上の体系的でしっかりとした福音教育が必要だと強調する。そこで四つの法則(サ영リ)や救いの基本教理をはっきりと伝え、子どもたち自身が御言葉を通じてイエス様と出会えるよう助けることが重要だと語る。 張ダビデ牧師は「インターネット時代のゴミ箱」から自分と子どもを守れという警告も欠かさない。ゴミ箱をあさるように、世的な刺激や淫乱、暴力的コンテンツを消費することは魂に致命的だというのだ。第二コリント7章1節の「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清めよう」というみ言葉を思い起こし、パウロがコリントの信徒たちに伝えたこの聖潔の命令は、今日においても緊急に適用すべきだと強調する。 結局、御言葉に基づく霊的成長とは、人間が堕落した本性を脱ぎ捨て、聖さを完成していく過程を包含している。ローマ書を通じて福音の核心を押さえ、詩編を通じて人間の感情の深みを知り、聖書全体を読む中で神の主権と救いの秩序を悟る。そうするうちに私たちは、自分が神の被造物であり、神の所有であること(イザヤ43:1参照)を知り、いつの時代も変わらない真理のうちに平安を得るのである。 特に張ダビデ牧師は、イザヤ43章にある「わたしがあなたを創造し、名をもって呼んだのだから、あなたはわたしのものだ」というみ言葉を深く心に留めるよう重ねて強調する。これは単に歴史上のイスラエル民族だけにとどまる約束ではなく、イエス・キリストを通して救われたすべての信者に該当するみ言葉でもある。神が直接「恐れるな」とおっしゃり、「わたしがあなたを贖った、あなたはわたしのものだ」と宣言されたゆえに、私たちのアイデンティティと存在価値は神の主権によって決定されるのだ。 その主権を認める瞬間、私たちは火の中を通っても焼かれず、水の流れをくぐり抜けても沈むことのないという確信を得る(イザヤ43:2)。イザヤ43章3節以下で神は「わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主である」とご自身のことを明かされる。私たちが恐れなく生きられる理由は、まさにその方が救い主として私たちを守ってくださるからだ。 要するに、張ダビデ牧師が提示する「御言葉に基づく霊的成長」とは、ローマ書を丹念に読み込み、詩編を黙想しつつ、聖書全体の文脈の中で神の救いのご計画を悟っていく過程だと言える。それはまた、個人の次元にとどまらず、家庭や教会共同体の中で御言葉を分かち合い、祈り、実践しながら互いを築き上げる文化が生まれるとき、信仰はさらに深まり盤石になると彼は語る。 3. 救いと和解の道 張ダビデ牧師が伝えるメッセージの最終的な指向点は「救いと和解の道」である。この道は、人間が罪を悔い改めてイエス・キリストを信じることにより、神との正しい関係を回復していく旅路である。キリスト教信仰の要は、人が神に背を向け、罪ゆえに滅びの道を進んでいたところ、イエス・キリストの十字架と復活によって新しい命の道へと招かれる点にある。 この過程で最も重要なのは、自分たちのアイデンティティである。私たちは本来、神の怒りを招かざるを得ない罪人であったが、イエス様が罪の代価を負ってくださったことにより、義と認められ、神の子として回復されることができた。ローマ書がこの事実を具体的に説明し、詩編はこの救いの体験を詩人の言葉で時に切々と、時に荘厳に歌い上げ、イザヤの預言はバビロン捕囚のように絶望的な状況下にあっても、神は依然として「あなたはわたしのものだ」と宣言される姿を示し、救いが歴史の中でいかに実現するかを教えてくれる。 張ダビデ牧師は、これを神の「主権」と解釈する。万物を創造された神は、その被造物に対する正当な所有権、すなわち主権をもっておられる。だからこそ、人間が罪を犯して別の道に逸れようとしても、神はその人間を絶えず引き戻す摂理を行使される。イエス・キリストは神と人との唯一の仲介者(第一テモテ2:5)として、既に途絶えていた道を再びつないでくださったのだ。「こういうわけで、私たちは神との平和を持とう」(ローマ5:1)というパウロの宣言は、イエス様を信じる者が最終的に得る状態が「神との和解」であることを示している。 この「和解の道」はもちろん、信者一人ひとりの救いを意味するが、同時に教会共同体、さらには世全体をも視野に入れた救いへの招きでもある。張ダビデ牧師は、世のあらゆる領域が腐敗し、罪悪が極みに達しているように見えても、福音の中で「新しい被造物」となる可能性があるという希望を繰り返し強調する。ローマ書1章で人間の罪が徹底的に腐敗した姿を描いているにもかかわらず、その結末が絶望で終わらないのは、「神の義が現れた」(ローマ1:17)と宣言し、イエス・キリストによる福音の力を示しているからだ。 したがって、聖書に基づく救いと和解は単なる「宗教的儀式」ではなく、歴史と現実を洞察する視点を提供する。世のあらゆる事柄がなぜこれほどこじれ、なぜ罪と腐敗が絶えないのか、そしてそれがどう解決されるのかを、聖書ははっきりと明かしているからだ。張ダビデ牧師は「世の秘密を解くバーコードは御言葉だ」という表現でこれを説明する。いくら複雑に見える問題も、聖書的な観点から見れば罪の起源が明確になり、それに対する解決策であるイエス・キリストの十字架の出来事がはっきりと浮かび上がるというのである。 ゆえに私たちの責任は、「神との和解」を個人的に体験するだけでなく、その福音をあまねく伝えていくところにまで及ぶ。イエス様が私たち一人ひとりに与えられた命令も、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)という大宣教命令である。張ダビデ牧師は、ローマ書を理解し、詩編を黙想し、聖書全体の救済史に関する洞察を得れば、おのずと福音を伝えずにはいられなくなると語る。 その過程で私たちはまず「罪から離れなければならない」。イエス様をお迎えすべき場所が、自分自身を高くする高慢や世への欲望、淫らな思い、偽りによって埋まっているままではならない。張ダビデ牧師はこれを「ゴミ箱あさり」と指摘し、多くの現代人がインターネットやメディアを通して、不要な情報や刺激を絶えず取り込み続ける実態を憂慮する。そのように闇に浸食されやすい時代だからこそ、御言葉によって霊魂を明るく照らし聖別することが急務だというのだ。 結局、救いと和解の道は、イエス・キリストへの信仰告白と御言葉への従順を通じて開かれ、私たちの生活の中で絶えず証しされていく。これについて張ダビデ牧師は多くの礼拝や説教、講演で繰り返し強調している。個人の敬虔生活、家庭の信仰教育、教会共同体の礼拝と奉仕、そして社会や世界への宣教に至るまで、すべての領域が「救いと和解」というキリスト教信仰の本質とつながっているのだ。 彼はイザヤ43章を例に挙げ、バビロン捕囚となったイスラエルの民に向かって神が「わたしがあなたを贖い、あなたを名をもって呼んだのだから、あなたはわたしのものだ」とおっしゃった事実に注目する。その状況で民は深い絶望の中にあったが、神は彼らを「尊く、たっとい」(イザヤ43:4)とみなしておられる。この場面は、神が罪と捕囚の状態で苦しむ人類に向かって救いと解放を宣言される具体的な実例である。かつて神がエジプトからイスラエルを救い出されたように、また今バビロン捕囚の只中にあっても救いを約束される。ここからわかるのは、どの時代であっても神の民が経験する苦難の中には神の救いのご計画が秘められており、その約束は決して消えないという事実である。 イエス・キリストの出来事こそ、このすべての救いの歴史に頂点を打つものであり、主が私たちと共におられる「インマヌエル」の奥義を完成させた。張ダビデ牧師は「なぜ私たちにイエスが必要なのか?」という問いに対し、「神を知るためであり、永遠の命と救いを得るためであり、天国の約束にあずかるためだ」と語る。つまり、イエス抜きには私たちは永遠の滅びと破滅の道を免れず、しかしイエスによって神の前に大胆に進み、本来の位置(アイデンティティ)を回復できるということである。 結局、張ダビデ牧師が説く核心メッセージは、「自らのアイデンティティと位置を点検せよ」という呼びかけに集約される。苦難の時期や困難な時、社会的距離を取らざるを得ない状況が訪れたとしても、それをむしろ「霊的退修(リトリート)」の時間とみなし、イエス様のみ前に自分の人生をおささげし、御言葉と祈りによって自分を省みようというわけだ。パウロがアラビヤで過ごした3年間に人生の進路が決定づけられ、宣教のための神学が確立されたように(ガラテヤ1:15-17)、私たちもまた孤独の時間を通じて、より深い神体験をすることができると語る。 このメッセージは決して抽象的ではない。張ダビデ牧師は絶えず聖書本文を引用し、自らが教え、研究してきたローマ書の講義を共有し、詩編黙想の必要性を説くことで、具体的な実践指針を示している。また、家庭の中で子どもに福音を伝え、一緒に聖書を読む方法(たとえば、毎日家族で詩編を数編ずつ読み分かち合うなど)も提案している。 さらに進んで、張ダビデ牧師は個人の健康も大切にするよう助言する。霊魂は肉体から切り離されてはおらず、家にこもる環境下でも規則的に運動し、身を整えながら聖さと節制を実践するようにと言う。このような姿勢を通じて、信者は苦難が過ぎ去った後も、健やかな肉体とゆとりのある信仰をもって世に福音を伝える備えを持つことができる。 結論として、張ダビデ牧師の語る「救いと和解の道」は決して漠然とした希望ではない。イザヤ書から新約の福音書、そしてローマ書やヨハネの黙示録に至るまで、聖書全体に流れている神の国の核心テーマであり、イエス・キリストが身をもって示してくださった命の道である。私たちはその道の上で、「あなたはわたしのものだ」(イザヤ43:1)「あなたはわたしの目に尊く、尊い」(イザヤ43:4)「わたしはあなたを名をもって呼んだのだから、あなたはわたしのものだ」という神の声を聞く。その声を信じる瞬間、私たちの存在は既に神に属するものとなり、キリストにあって新生した者として新しい命を得ることになる。 張ダビデ牧師は、この道こそを「和解」と呼ぶ。人間が罪によって断ち切っていた神との関係が修復され、その結果、個人の内面には真の平安と喜びが生まれる。この和解が拡大して家族や教会、社会全体の和合へとつながっていくとき、キリスト教信仰の社会的・歴史的意義が現れるというのだ。最終的に、すべての人がキリストを知り、信仰のうちに救いを体験するよう導くこと、そしてその中で栄光を受けられる神を賛美することこそが、張ダビデ牧師の願う「救いと和解」の究極的目標だといえる。 彼のメッセージを要約すると、 最終的には「イスラエルよ、恐れるな。あなたはわたしのものだ」という神の宣言や、「見よ、わたしはあなたがたの前に命の道と死の道を置く」(エレミヤ21:8)という警告、そして「御言葉はあなたに近く、あなたの口にあり、あなたの心にある」(ローマ10:8)という福音の宣言が、現代の信者にとっても切実な呼びかけとなる。張ダビデ牧師が繰り返し強調してきたのはまさにこれだ。私たちに与えられた道は命の道であり、その道を行く者は苦難の前にも恐れを払い、御言葉に満たされ、イエスの救いを確信し、神との和解を享受できる。 このように張ダビデ牧師のメッセージは一つに帰結する。それは、苦難の中でも恐れず、神に近づき、御言葉によって自らを武装し、イエス・キリストによる救いと和解を通して新しい命を生きることである。いかに世が混乱し、多様な危機が押し寄せようとも、神は「わたしはあなたを名をもって呼んだ。あなたはわたしのものだ」という救いの約束を取り消されない。むしろ困難なときだからこそ、私たちは自らを省み、御言葉と祈りを通じてさらに成熟し、隣人と社会において光と塩となる存在へと立ち上がるべきなのだ。これこそが、張ダビデ牧師が一貫して訴えてきた福音の核心であり、苦難の時代にぜひとも必要とされる霊的ガイドラインだと言える。

    3월 3, 2025
  • The Path to Salvation and Reconciliation Amid Tribulation – Pastor David Jang

    1. A Faithful Attitude in Times of Tribulation Pastor David Jang has repeatedly emphasized in his sermons and lectures how believers should live through suffering and tribulation. His core message is that hardship and difficult circumstances will inevitably come, and that those who believe in Jesus must respond differently than the world. He often cites…

    3월 3, 2025
  • Buscando la salvación y el camino de la reconciliación en medio de las tribulaciones – Pastor David Jang

    A través de esta enseñanza, el pastor David Jang enfatiza que “aquellos que creen en Jesús tienen una actitud distinta frente a la adversidad”. Mientras que para la mayoría de las personas prevalecen el miedo y la preocupación, los que creen en Jesús deben poseer la fuerza necesaria para desechar ese temor. Por ello, recordando…

    3월 3, 2025
  • 환란 속에서 찾는 구원과 화해의 길 – 장재형목사

     1. 환란 속에서의 신앙적 태도  장재형(장다윗)목사는 여러 차례 설교와 강연을 통해, 신앙인이 고난과 환란 속에서 어떻게 살아가야 하는지를 강조해 왔다. 그가 말하는 핵심은 고난의 시기와 어려운 상황이 반드시 찾아온다는 사실이며, 이때 예수를 믿는 사람은 세상 사람들과 달라야 한다는 점이다. 예수님께서 마태복음 6장 17절에서 금식할 때 머리에 기름을 바르고 얼굴을 씻으라고 말씀하신 것도, 고난의 때에 헐벗고 초라한 모습으로만 있지 말고 오히려 더욱 의연하고 거룩하게…

    3월 3, 2025
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장재형목사 HBS 회장 성경보급 집중

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