장재형목사 HBS 회장 성경보급 집중

새가 날고있는 일러스트.
  • 苦難の中で見出す救いと和解への道 – 張ダビデ牧師

    1. 苦難の中での信仰的態度 張ダビデ牧師は、これまで何度もの説教や講演を通じて、信仰者が困難や苦難のただ中でどのように生きるべきかを強調してきた。彼が語る核心は、「苦難の時期や厳しい状況は必ず訪れる」という事実と、「イエスを信じる者は世の人々とは異なる姿勢を示さねばならない」という点である。イエス様がマタイ6章17節で「断食する時には頭に油を塗り、顔を洗いなさい」とおっしゃったのも、苦難の時にただみすぼらしい姿ばかりしているのではなく、むしろさらに毅然として聖く立つべきことを示す例だと理解される。これは、ただ外面で暗い顔をして悲しみを強調するのではなく、内面において神を頼り、しっかりと立っていなければならないという意味である。 張ダビデ牧師は、このみ言葉を通して「イエスを信じる人は、苦難に対する態度からして違う」と力説する。世の人々にとっては恐れや心配が支配的になりがちだが、イエスを信じる者であるならば、この恐れを追い払う力を持っていなければならないというのだ。したがって、苦難は必ず過ぎ去るという事実を覚えつつ、その期間をどのように生きるかが、その後に大きな差を生むと教えている。 新型コロナウイルス(COVID-19)をはじめ、世界的に「ソーシャルディスタンス(社会的距離の確保)」が実施されていた時期を例に取り上げながら、私たちがどれほど「神様よりも人と近く結びついて生きてきたか」を振り返る契機となるという。人々が自由に動き回りにくく、顔を合わせて交わりにくい状況は、逆説的に神様にさらに近づく時間とすることができる。 張ダビデ牧師は、このように制限された環境こそが、私たちに与えられた「チャンス」だと捉えている。人との物理的距離をとらねばならない時点で、その代わりに神様との距離だけはより近づける必要があるというわけだ。世の中で感じる不安、孤独、もどかしさは、神の御前で回復され得るものであり、とりわけこの時期にこそ聖書の言葉をより深く読み聞きし、黙想すべきだと力説する。彼が四旬節(サシュンセツ)の期間の例を挙げるのもこのためだ。四旬節はイエス様の苦難を記念し、十字架の意味を深く味わう期間である。ここで言う40日の意味は、私たち自身がイエス様の苦難に共にあずかり、その苦難を通じて与えられた救いの恵みを体験することにある。 さらに張ダビデ牧師は、牛の胃が4つあるという事実に言及し、「一度食べたものを夜にもう一度取り出して反芻する」ように、私たちも一度目を通した聖書の言葉を再び反芻しなければならないと説く。つまり、ただ何度か読んで通り過ぎるレベルではなく、心の奥底に深く刻み、毎日のようにもう一度取り出して黙想し、実践せよという意味である。そうすることで私たちの霊と心が御言葉によって豊かにされる。彼は「天の牛(ハネルソ)」という表現を使い、ちょうど胃が4つある牛が何度も反芻するように、聖書の御言葉を繰り返し味わい、その意味を反芻し、深く受け入れる習慣を持つべきだと重ねて強調する。 こうした文脈の中で、彼が特にローマ書の学びを勧めるのは、使徒パウロの福音神学が集約されたローマ書にこそ、福音の本質や神の義、人間の罪と救い、義と認められること、聖霊の働き、教会の生き方など、キリスト教信仰の核心が体系的に込められているからである。張ダビデ牧師は、「今回の苦難のおかげでローマ書を極めたと言えるほど集中して学んでみなさい」と勧める。また、かつて自分が各地でローマ書を講義した資料があるから、それを家で義務的にでも学習し、子どもたちにも分かりやすく教えてほしいと促している。子どもたちは既に知的能力が高くなっているので、その核心をよくまとめ、四つの法則(サ영리)に代表されるような救いの教理の基本を正しく植えつけねばならないというわけだ。 張ダビデ牧師は「基本姿勢が重要であるように、子どもたちにも福音と救いの核心を“基本”としてしっかりと教え込むことが絶対に大切だ」と語る。外出が自由にできない時期こそ、こうした信仰の基本を再び学び、御言葉を洞察する絶好の機会だというのだ。エレミヤ21章8節にあるように「主はこう仰せられる。見よ、わたしはあなたがたの前に命の道と死の道を置く」とある。この聖句は、まさにこの期間が命の道と死の道が同時に置かれた時になり得ることを示唆している。魂だけでなく肉体も損なわれる危険があり、世的にも社会的にもより深刻な状態が訪れる可能性もある。しかしそうした環境が私たちを追い込むほど、私たちの視線はますます神へと向かうべきだというのが、張ダビデ牧師の勧めである。 では、どのようにして神を知り、イエス様を親しく知ることができるのだろうか。張ダビデ牧師は、その道こそ「御言葉」によってであると語る。ローマ10章6節から8節を引用しながら、イエス・キリストを知るためにわざわざ天に上る必要も、よみ(無底坑)に下る必要もないという事実を思い起こさせる。イエス様は既に私たちのそばに来てくださっており、聖書こそがその方を知るための「最も近い道」なのだという。 「御言葉はあなたに近く、あなたの口にあり、あなたの心にある」(ローマ10:8)というこの聖句は、イエス様が直接そばに来てご自身を示されなくても、聖書を通して十分にイエス様を知り、信仰の道へ進むことができることを示唆している。だからこそ、私たちは自分の口で聖書を声に出して読み、耳で聞き、心に刻みながら、同時に口を通してそれを伝える。この行為こそ、私たちがイエス様を「見る」道であり、この世に福音を伝える道となる。伝道者の書5章2節の御言葉のように、私たちは神のみ前で軽々しく口を開くのではなく、むしろ神の御言葉にいっそう耳を傾けるべきなのだ。 張ダビデ牧師はこれを「暗い時代、苦難の時代に憂鬱に過ごすのではなく、この孤独な期間を神が与えてくださった退修(リトリート)の時間として活用せよ」という言葉でまとめる。サウロ(パウロ)がダマスコ途上で主に出会い、3日間断食し、目から鱗のようなものが落ちたことも重要だが、それ以上に、その後アラビヤで3年を過ごした期間こそ、パウロの神学と宣教活動の土台が築かれたことを思い起こさせる(ガラテヤ1:15-17)。同様に一定期間、世の活動から離れて、ひたすら御言葉と祈りに集中し、深い孤独の中で神に出会う時間こそが、霊的深みを育み、新たなビジョンを得る機会なのだと説明する。 このように家に留まらなければならない期間、社会的距離を保たなければならない時期は、インターネットなどの誘惑に陥って時間を浪費してしまう危険もある。張ダビデ牧師は「ゴミ箱をあさってはならない」と強く警告する。このゴミ箱はすなわちゲヘナ(地獄)のようなものであり、淫らなものや無駄なオンライン情報、人をそそのかすような刺激的コンテンツに溺れてはならないというのだ。むしろこの時間を通して聖さを追い求め、心と霊と体をきよくせよと勧める(第二コリント7:1)。パウロがコリントの信徒たちに「すべての汚れから自分を清め、聖潔を完全なものにしよう」と勧告したように、信者はこの世俗的誘惑から逃れる訓練が必要だ。 結論として、張ダビデ牧師が提示する「苦難の中での信仰的態度」は明快である。 苦難はやがて過ぎ去るが、その期間に積んだ御言葉の養分と霊的な筋力は決して無駄にならないと、張ダビデ牧師は語る。四旬節やその他特定の節期も、単に「義務的な断食と自制」の時間ではなく、イエス様の苦難にあずかり、福音の本質を深く悟る時間となるとき、私たちは一段と霊的に成長できる。 また、健康管理にも言及し、家の中にいる時間が増えた分、腕立て伏せやスクワット、ドアに固定する鉄棒などを活用して毎日運動すべきだと付け加える。信仰生活は、霊と肉体が互いにつながっていることを認識する生活でもある。霊的健康は肉体的健康とも密接に関連しており、肉体が活力を得るとき、霊的生活にも助けとなるという意味だ。この観点から、個人の身体と心の両方が同時に頑丈になることは、神の前でより豊かな礼拝と奉仕をささげるための基盤となる。 最終的に張ダビデ牧師は、苦難の中で「恐れるな」と語るイザヤ43章の御言葉を常にそばに置き、黙想せよと勧める。ヤコブとイスラエルに与えられたみ言葉だが、今日の信者にも同様に有効だという。「ヤコブよ、あなたを創造された主は今こう仰せられる。イスラエルよ、あなたを形造られた方がこう仰せられる。恐れるな。わたしはあなたを贖った。わたしはあなたを名をもって呼んだ。あなたはわたしのものだ。」(イザヤ43:1)という約束は、神の絶対的主権の中で、私たちが既に贖われた存在であることを思い起こさせる。たとえ水の中を通り、火をくぐる状況に直面しても、決して沈まず焼かれることはないという信仰の根拠となる。 さらに「あなたはわたしの目に尊く、尊い」(イザヤ43:4)というみ言葉まで合わせて記憶するならば、苦難の最中でも神が私たちを支え、私たちに対する大きな愛を決して手放さないという事実を、胸の奥深くに刻むことができる。こうした確信があるとき、信者は世の恐れや心配を振り払い、ただ主にだけ目を注いで生きることができる。張ダビデ牧師はこれを「アイデンティティ(本来の自己認識)の問題」と解釈する。私たちが信仰の力を失うとき、最初に消えてしまうのは「神の中における自分のアイデンティティ」だと言う。しかし私たちは既に「主のもの」であり、「インマヌエルなる神」が共におられると信じる瞬間、どのような環境も私たちを根本的に揺さぶることはできない。 このように苦難に臨む信仰的態度は、あくまでもイエス・キリストの十字架と復活に基づいている。もしイエス様が苦難を通して成し遂げてくださった救いがなければ、苦難の中で希望を見いだすという言葉自体が空疎になりうる。しかし私たちがイエスの苦難を黙想し、十字架を見上げるとき、そこに復活の希望が宿り、その希望によって恐れから信仰へと切り替えることが可能になる。張ダビデ牧師はこれを、さまざまな集会や説教で強調しており、特に復活祭を迎えるにあたって「オリベット談話(Olivet discourse)」を通し、キリストが直接弟子たちに与えられた教えを分かち合うと予告したこともある。 彼にとって「オリベット」とは、主のみ言葉が宣言された聖なる場所であり、山上の説教が与えられた場所と同じ意味を持つ。実際の修養会が開けない環境にあっても、水曜礼拝や主日礼拝、そして各人の個人的黙想を通じてその真理に向き合うことは可能だという。こうした一連の勧めは、張ダビデ牧師が苦難の時期に信者が取るべき態度について絶えず悩み、研究してきた結果でもある。結局、私たちの信仰がいっそう輝くのは平穏な時ではなく、まさに苦難のただ中で神をつかみ、御言葉に集中する瞬間であることを示しているのだ。 2. 御言葉に基づく霊的成長 張ダビデ牧師は「私たちが神を知るにはどうすればよいのか。イエス様をどのように知ることができるのか」という根源的な問いに対し、その道はまさしく「神の御言葉」によるのだと繰り返し強調する。信仰生活はただ感情的・神秘的体験だけで成り立つのではなく、キリスト教の聖典である聖書を通して神とイエス・キリストの御心を正確に理解することから始まるというわけだ。 彼がとりわけローマ書を強調する理由は、ローマ書が福音の本質や神の義、人間の罪性、そしてキリストによる救いの過程を体系的に説明しているからである。使徒パウロによって書かれたローマ書は、キリスト教信仰全体を貫く核心的教えが盛り込まれており、イエスを信じる者なら誰しも深く熟知すべき宝のような書だと言える。張ダビデ牧師は2003年にアメリカでローマ書の講義を行ったことがあり、その講義録を最近改めて読んだところ、大きな恵みを受けたと告白する。そこで多くの人にもその講義内容を学んでみるよう勧め、子どもにも分かりやすく解説してあげるよう励ましている。 彼がこのようにローマ書を強調するのは、現代社会が抱えるさまざまな問題、たとえば淫乱、暴力、貪欲、偶像崇拝などが、すでにローマ書1章に指摘された人間の罪悪と直結しているからだ。パウロはローマ書1章18節以下で、なぜ神の怒りが下るのか、人間がいかに腐敗し堕落していくのかをありのまま描写する。張ダビデ牧師は、この箇所から「私たちはもともと神の怒りの的となる存在だった」ことを悟らねばならないと述べる。 神は罪を憎まれ、罪が蔓延する世を裁かれる方であるが、同時にキリストを通じて私たちに救いの道を開いてくださった。これを知らないままでは、世に起こるあらゆる悲劇や問題がなぜ生じるのか理解しづらい。しかしローマ書を通じて「神の怒り」と「人間の罪」、そして「イエス・キリストによる救い」の筋道を把握すると、現代社会の混沌も御言葉の視点から解釈できるようになるというのが張ダビデ牧師の説明である。 また彼は詩編(詩篇)を読むことも勧める。詩編は人間の実存におけるあらゆる感情が込められた書であり、人生で遭遇する喜びや悲しみ、絶望や希望、孤独と慰めが多彩に表現されているからだ。年を重ねるにつれ、信者は詩編を頻繁に読むようになるとも付け加える。詩篇150編は、1日2〜3編ずつ少しずつ読んでいけば1か月ほどで全部読み終えることができ、その中で自分の置かれた状況と似た詩人の心情に出会うことができる。 張ダビデ牧師は、詩編を読み、暗唱し、深く黙想することで「自分の位置」を取り戻すよう勧める。「堕落」とは本来あるべき位置から逸脱することであり、すなわち神との正しい関係から外れることを意味する。だからこそ私たちはキリストの救いを必要とする。イエス様は神と私たちを結ぶ唯一の仲介者(第一テモテ2:5)として、私たちが本来いるべき場所に戻れるよう道を開いてくださったのだ。 このような御言葉中心の信仰生活は、単に知識を蓄えるだけで終わらない。張ダビデ牧師は、御言葉には私たちの霊と魂、さらには肉体さえも変える力があると力説する。結局、神を恐れ敬い、御言葉にしっかりととどまる人は、聖さと清さを追い求めるようになり、その結果、霊的健康だけでなく肉体的健康も同時に追求できるというわけだ。イエスを信じる人は祈りだけをする存在ではなく、神の創造秩序に従って自分の体もよく管理せねばならない。張ダビデ牧師が腕立て伏せを200回、スクワット、ドアに取り付ける鉄棒での運動などを具体的に勧めているのは、霊と肉が密接につながっていることを実感する実践を促すためである。 さらに彼は、教会共同体の中で御言葉を共に学び合い、互いに教え合い、伝え合う文化を作るよう呼びかける。子どもたちはすでに高い知的可能性を持っているため、ただ教会学校で形式的に学ぶ以上の体系的でしっかりとした福音教育が必要だと強調する。そこで四つの法則(サ영リ)や救いの基本教理をはっきりと伝え、子どもたち自身が御言葉を通じてイエス様と出会えるよう助けることが重要だと語る。 張ダビデ牧師は「インターネット時代のゴミ箱」から自分と子どもを守れという警告も欠かさない。ゴミ箱をあさるように、世的な刺激や淫乱、暴力的コンテンツを消費することは魂に致命的だというのだ。第二コリント7章1節の「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清めよう」というみ言葉を思い起こし、パウロがコリントの信徒たちに伝えたこの聖潔の命令は、今日においても緊急に適用すべきだと強調する。 結局、御言葉に基づく霊的成長とは、人間が堕落した本性を脱ぎ捨て、聖さを完成していく過程を包含している。ローマ書を通じて福音の核心を押さえ、詩編を通じて人間の感情の深みを知り、聖書全体を読む中で神の主権と救いの秩序を悟る。そうするうちに私たちは、自分が神の被造物であり、神の所有であること(イザヤ43:1参照)を知り、いつの時代も変わらない真理のうちに平安を得るのである。 特に張ダビデ牧師は、イザヤ43章にある「わたしがあなたを創造し、名をもって呼んだのだから、あなたはわたしのものだ」というみ言葉を深く心に留めるよう重ねて強調する。これは単に歴史上のイスラエル民族だけにとどまる約束ではなく、イエス・キリストを通して救われたすべての信者に該当するみ言葉でもある。神が直接「恐れるな」とおっしゃり、「わたしがあなたを贖った、あなたはわたしのものだ」と宣言されたゆえに、私たちのアイデンティティと存在価値は神の主権によって決定されるのだ。 その主権を認める瞬間、私たちは火の中を通っても焼かれず、水の流れをくぐり抜けても沈むことのないという確信を得る(イザヤ43:2)。イザヤ43章3節以下で神は「わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主である」とご自身のことを明かされる。私たちが恐れなく生きられる理由は、まさにその方が救い主として私たちを守ってくださるからだ。 要するに、張ダビデ牧師が提示する「御言葉に基づく霊的成長」とは、ローマ書を丹念に読み込み、詩編を黙想しつつ、聖書全体の文脈の中で神の救いのご計画を悟っていく過程だと言える。それはまた、個人の次元にとどまらず、家庭や教会共同体の中で御言葉を分かち合い、祈り、実践しながら互いを築き上げる文化が生まれるとき、信仰はさらに深まり盤石になると彼は語る。 3. 救いと和解の道 張ダビデ牧師が伝えるメッセージの最終的な指向点は「救いと和解の道」である。この道は、人間が罪を悔い改めてイエス・キリストを信じることにより、神との正しい関係を回復していく旅路である。キリスト教信仰の要は、人が神に背を向け、罪ゆえに滅びの道を進んでいたところ、イエス・キリストの十字架と復活によって新しい命の道へと招かれる点にある。 この過程で最も重要なのは、自分たちのアイデンティティである。私たちは本来、神の怒りを招かざるを得ない罪人であったが、イエス様が罪の代価を負ってくださったことにより、義と認められ、神の子として回復されることができた。ローマ書がこの事実を具体的に説明し、詩編はこの救いの体験を詩人の言葉で時に切々と、時に荘厳に歌い上げ、イザヤの預言はバビロン捕囚のように絶望的な状況下にあっても、神は依然として「あなたはわたしのものだ」と宣言される姿を示し、救いが歴史の中でいかに実現するかを教えてくれる。 張ダビデ牧師は、これを神の「主権」と解釈する。万物を創造された神は、その被造物に対する正当な所有権、すなわち主権をもっておられる。だからこそ、人間が罪を犯して別の道に逸れようとしても、神はその人間を絶えず引き戻す摂理を行使される。イエス・キリストは神と人との唯一の仲介者(第一テモテ2:5)として、既に途絶えていた道を再びつないでくださったのだ。「こういうわけで、私たちは神との平和を持とう」(ローマ5:1)というパウロの宣言は、イエス様を信じる者が最終的に得る状態が「神との和解」であることを示している。 この「和解の道」はもちろん、信者一人ひとりの救いを意味するが、同時に教会共同体、さらには世全体をも視野に入れた救いへの招きでもある。張ダビデ牧師は、世のあらゆる領域が腐敗し、罪悪が極みに達しているように見えても、福音の中で「新しい被造物」となる可能性があるという希望を繰り返し強調する。ローマ書1章で人間の罪が徹底的に腐敗した姿を描いているにもかかわらず、その結末が絶望で終わらないのは、「神の義が現れた」(ローマ1:17)と宣言し、イエス・キリストによる福音の力を示しているからだ。 したがって、聖書に基づく救いと和解は単なる「宗教的儀式」ではなく、歴史と現実を洞察する視点を提供する。世のあらゆる事柄がなぜこれほどこじれ、なぜ罪と腐敗が絶えないのか、そしてそれがどう解決されるのかを、聖書ははっきりと明かしているからだ。張ダビデ牧師は「世の秘密を解くバーコードは御言葉だ」という表現でこれを説明する。いくら複雑に見える問題も、聖書的な観点から見れば罪の起源が明確になり、それに対する解決策であるイエス・キリストの十字架の出来事がはっきりと浮かび上がるというのである。 ゆえに私たちの責任は、「神との和解」を個人的に体験するだけでなく、その福音をあまねく伝えていくところにまで及ぶ。イエス様が私たち一人ひとりに与えられた命令も、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)という大宣教命令である。張ダビデ牧師は、ローマ書を理解し、詩編を黙想し、聖書全体の救済史に関する洞察を得れば、おのずと福音を伝えずにはいられなくなると語る。 その過程で私たちはまず「罪から離れなければならない」。イエス様をお迎えすべき場所が、自分自身を高くする高慢や世への欲望、淫らな思い、偽りによって埋まっているままではならない。張ダビデ牧師はこれを「ゴミ箱あさり」と指摘し、多くの現代人がインターネットやメディアを通して、不要な情報や刺激を絶えず取り込み続ける実態を憂慮する。そのように闇に浸食されやすい時代だからこそ、御言葉によって霊魂を明るく照らし聖別することが急務だというのだ。 結局、救いと和解の道は、イエス・キリストへの信仰告白と御言葉への従順を通じて開かれ、私たちの生活の中で絶えず証しされていく。これについて張ダビデ牧師は多くの礼拝や説教、講演で繰り返し強調している。個人の敬虔生活、家庭の信仰教育、教会共同体の礼拝と奉仕、そして社会や世界への宣教に至るまで、すべての領域が「救いと和解」というキリスト教信仰の本質とつながっているのだ。 彼はイザヤ43章を例に挙げ、バビロン捕囚となったイスラエルの民に向かって神が「わたしがあなたを贖い、あなたを名をもって呼んだのだから、あなたはわたしのものだ」とおっしゃった事実に注目する。その状況で民は深い絶望の中にあったが、神は彼らを「尊く、たっとい」(イザヤ43:4)とみなしておられる。この場面は、神が罪と捕囚の状態で苦しむ人類に向かって救いと解放を宣言される具体的な実例である。かつて神がエジプトからイスラエルを救い出されたように、また今バビロン捕囚の只中にあっても救いを約束される。ここからわかるのは、どの時代であっても神の民が経験する苦難の中には神の救いのご計画が秘められており、その約束は決して消えないという事実である。 イエス・キリストの出来事こそ、このすべての救いの歴史に頂点を打つものであり、主が私たちと共におられる「インマヌエル」の奥義を完成させた。張ダビデ牧師は「なぜ私たちにイエスが必要なのか?」という問いに対し、「神を知るためであり、永遠の命と救いを得るためであり、天国の約束にあずかるためだ」と語る。つまり、イエス抜きには私たちは永遠の滅びと破滅の道を免れず、しかしイエスによって神の前に大胆に進み、本来の位置(アイデンティティ)を回復できるということである。 結局、張ダビデ牧師が説く核心メッセージは、「自らのアイデンティティと位置を点検せよ」という呼びかけに集約される。苦難の時期や困難な時、社会的距離を取らざるを得ない状況が訪れたとしても、それをむしろ「霊的退修(リトリート)」の時間とみなし、イエス様のみ前に自分の人生をおささげし、御言葉と祈りによって自分を省みようというわけだ。パウロがアラビヤで過ごした3年間に人生の進路が決定づけられ、宣教のための神学が確立されたように(ガラテヤ1:15-17)、私たちもまた孤独の時間を通じて、より深い神体験をすることができると語る。 このメッセージは決して抽象的ではない。張ダビデ牧師は絶えず聖書本文を引用し、自らが教え、研究してきたローマ書の講義を共有し、詩編黙想の必要性を説くことで、具体的な実践指針を示している。また、家庭の中で子どもに福音を伝え、一緒に聖書を読む方法(たとえば、毎日家族で詩編を数編ずつ読み分かち合うなど)も提案している。 さらに進んで、張ダビデ牧師は個人の健康も大切にするよう助言する。霊魂は肉体から切り離されてはおらず、家にこもる環境下でも規則的に運動し、身を整えながら聖さと節制を実践するようにと言う。このような姿勢を通じて、信者は苦難が過ぎ去った後も、健やかな肉体とゆとりのある信仰をもって世に福音を伝える備えを持つことができる。 結論として、張ダビデ牧師の語る「救いと和解の道」は決して漠然とした希望ではない。イザヤ書から新約の福音書、そしてローマ書やヨハネの黙示録に至るまで、聖書全体に流れている神の国の核心テーマであり、イエス・キリストが身をもって示してくださった命の道である。私たちはその道の上で、「あなたはわたしのものだ」(イザヤ43:1)「あなたはわたしの目に尊く、尊い」(イザヤ43:4)「わたしはあなたを名をもって呼んだのだから、あなたはわたしのものだ」という神の声を聞く。その声を信じる瞬間、私たちの存在は既に神に属するものとなり、キリストにあって新生した者として新しい命を得ることになる。 張ダビデ牧師は、この道こそを「和解」と呼ぶ。人間が罪によって断ち切っていた神との関係が修復され、その結果、個人の内面には真の平安と喜びが生まれる。この和解が拡大して家族や教会、社会全体の和合へとつながっていくとき、キリスト教信仰の社会的・歴史的意義が現れるというのだ。最終的に、すべての人がキリストを知り、信仰のうちに救いを体験するよう導くこと、そしてその中で栄光を受けられる神を賛美することこそが、張ダビデ牧師の願う「救いと和解」の究極的目標だといえる。 彼のメッセージを要約すると、 最終的には「イスラエルよ、恐れるな。あなたはわたしのものだ」という神の宣言や、「見よ、わたしはあなたがたの前に命の道と死の道を置く」(エレミヤ21:8)という警告、そして「御言葉はあなたに近く、あなたの口にあり、あなたの心にある」(ローマ10:8)という福音の宣言が、現代の信者にとっても切実な呼びかけとなる。張ダビデ牧師が繰り返し強調してきたのはまさにこれだ。私たちに与えられた道は命の道であり、その道を行く者は苦難の前にも恐れを払い、御言葉に満たされ、イエスの救いを確信し、神との和解を享受できる。 このように張ダビデ牧師のメッセージは一つに帰結する。それは、苦難の中でも恐れず、神に近づき、御言葉によって自らを武装し、イエス・キリストによる救いと和解を通して新しい命を生きることである。いかに世が混乱し、多様な危機が押し寄せようとも、神は「わたしはあなたを名をもって呼んだ。あなたはわたしのものだ」という救いの約束を取り消されない。むしろ困難なときだからこそ、私たちは自らを省み、御言葉と祈りを通じてさらに成熟し、隣人と社会において光と塩となる存在へと立ち上がるべきなのだ。これこそが、張ダビデ牧師が一貫して訴えてきた福音の核心であり、苦難の時代にぜひとも必要とされる霊的ガイドラインだと言える。

    3월 3, 2025
  • The Path to Salvation and Reconciliation Amid Tribulation – Pastor David Jang

    1. A Faithful Attitude in Times of Tribulation Pastor David Jang has repeatedly emphasized in his sermons and lectures how believers should live through suffering and tribulation. His core message is that hardship and difficult circumstances will inevitably come, and that those who believe in Jesus must respond differently than the world. He often cites…

    3월 3, 2025
  • Buscando la salvación y el camino de la reconciliación en medio de las tribulaciones – Pastor David Jang

    A través de esta enseñanza, el pastor David Jang enfatiza que “aquellos que creen en Jesús tienen una actitud distinta frente a la adversidad”. Mientras que para la mayoría de las personas prevalecen el miedo y la preocupación, los que creen en Jesús deben poseer la fuerza necesaria para desechar ese temor. Por ello, recordando…

    3월 3, 2025
  • 환란 속에서 찾는 구원과 화해의 길 – 장재형목사

     1. 환란 속에서의 신앙적 태도  장재형(장다윗)목사는 여러 차례 설교와 강연을 통해, 신앙인이 고난과 환란 속에서 어떻게 살아가야 하는지를 강조해 왔다. 그가 말하는 핵심은 고난의 시기와 어려운 상황이 반드시 찾아온다는 사실이며, 이때 예수를 믿는 사람은 세상 사람들과 달라야 한다는 점이다. 예수님께서 마태복음 6장 17절에서 금식할 때 머리에 기름을 바르고 얼굴을 씻으라고 말씀하신 것도, 고난의 때에 헐벗고 초라한 모습으로만 있지 말고 오히려 더욱 의연하고 거룩하게…

    3월 3, 2025
  • La grâce et la lutte intérieure – David Jang

    Le texte qui suit est un résumé du sermon du pasteur David Jang sur l’intégralité de Romains 7. Puisse cette étude, fondée sur l’examen et la méditation du chapitre 7 de l’Épître aux Romains, contribuer à mieux saisir, dans le parcours spirituel concret des croyants, la question de la « loi et de l’Évangile »,…

    2월 16, 2025
  • 恩典与内在争战——张大卫牧师

    以下内容是根据张大卫牧师对《罗马书》第七章所做讲道的整理。愿这篇信息能帮助我们在研读与默想《罗马书》7章时,更深入地理解“律法与福音”、“罪与恩典”、“内在冲突与得胜”等在信徒实际信仰旅程中所面临的课题。 1)律法与我们崭新的关系 《罗马书》第七章开篇,保罗以一段独特的婚姻比喻来阐述他对律法的教导。他先引用了“有丈夫的妇人,只在丈夫活着的时候,才受律法约束;若丈夫死了,她就自由了”这一事实,通过婚姻与死亡的实例,来说明“脱离律法的辖制,转而与基督建立新的联合”。人在律法“活着”的那段时期——更准确地说,只要人还被困在律法之下,就一直处于这部律法的效力和管控之中。可是当借着基督的十字架,信徒被宣告“与基督同死”时,从前律法对他们的束缚就失去了效力,而与基督的新关系便正式建立。 有趣的是,保罗并没有说“丈夫死了”,而是说“我死了”,因此他并未宣称“律法废去了”或“律法消失了”,而是强调透过与耶稣基督同钉十字架,信徒在“对律法而言”算是已经死了。“我死了,所以先前那种关系就不再生效”,这一观点正是基督教信仰的核心福音信息。当耶稣在十字架上受死,完成了代赎之工时,所有相信祂的人也被算作一同死了,从而脱离了律法原本施加的罪之定罪功能。 然而,很多出身于犹太背景的基督徒会质疑保罗:“那是否意味着可以废掉律法呢?”他们一方面散居罗马帝国各地,却仍尊崇律法传统;另一方面,又接受了借耶稣而来的救恩福音。在这个过程中,关于“律法与福音如何和谐共存”的疑问始终存在。对此,保罗明确表明他并非“废除律法的人”。因为律法是上帝神圣的言语,丝毫不可废去。正如基督所说:“不要以为我来是要废掉律法和先知;我来不是要废掉,而是要成全。”保罗也同样珍视律法,只是透过基督十字架的事件,“我”——这个在律法之下的存在已大为不同,因此与律法所缔结的那种旧关系也被重新定位。 保罗在《罗马书》7章4节对此有非常精辟的总结:“你们借着基督的身体,对律法也是死了,叫你们归于别的,就是归于那从死里复活的,叫我们结果子给神。”这里强调“结果子给神”这一目的性极为关键。保罗要带出的重点是:若仍然滞留在律法之下,我们无法结出那样丰富而满溢的属灵果子;只有在基督里才能结出更丰盛的果子。在《约翰福音》第15章也明确指出:主是葡萄树,我们是枝子,唯有住在主里面才能结出许多果子。就像枝子若离了葡萄树就无法结果,单靠停留于律法之下的生命往往不会结出属灵的果子。律法虽能显明并规制罪,却不能赐下最终的生命果实,也即“恩典的救赎”与“藉着圣灵大能得来的属灵成熟”。 并且,《罗马书》7章6节还说:“要按着心灵的新样,不按着仪文的旧样。”这表明我们不应停留在仅仅“守住诫命文字”的律法主义式信仰,而要转向顺从圣灵内在引导的生活。如同耶稣在《约翰福音》13-17章的临别教训中所传授的一样,当我们住在主的爱里,便得真自由,结出更丰硕的果子,且心得到充足喜乐。 在基督教两千年的历史中,每当教会无法在“恩典”与“律法”之间取得平衡时,都易引发重大危机。律法主义和反律法主义这两个极端都曾削弱教会:前者常带来过度的定罪与审判,使人失去怜悯与饶恕,灵命也随之干涸;后者则容易轻忽罪的严重性而陷入放纵与安逸。无论多么强调恩典福音,我们仍需铭记上帝是公义与正直的主,并且我们需要遵守祂的诫命。在这两极中任何一端的彻底倒塌都会使信仰失衡。 因此,《罗马书》7章透过“与基督联合之人”这一婚姻比喻,虽然看上去有些复杂难解,却指向一个简单直接的结论:过去律法犹如“丈夫”一般辖制、定罪我们,如今由于我们与基督同死,“我”对律法而言已死,律法便无法再捆绑我们。当然,律法并未消失,仍是彰显上帝公义、揭示人罪性的神圣工具,但我们不再被它的咒诅所挟制。这正是信仰的要义:耶稣基督在十字架上成就了代赎,亲自担当了我们的罪,使我们脱离了罪与死的权势。其结果是,我们现今能在“圣灵的新律”——即顺从圣灵的引导中,自发地遵行上帝喜悦的道路。 如果更进一步在信仰实践中应用的话,这意味着我们不再是因“这是罪,不能碰”那种“惧怕”而顺从,反倒是因“我爱主,若合乎祂的旨意,我乐意去遵行”而主动地事奉。保罗在《罗马书》、《加拉太书》及其他书信中屡次强调这转变过程。尤其在《加拉太书》2章20节,他说:“我已经与基督同钉十字架,现在活着的不再是我,乃是基督在我里面活着。”这正是在说明:那律法下的旧人已经死了,取而代之的是基督在我里面活着,带来新造的生命。 当然,要具体地在日常生活中实践这一教义,少不了属灵省察、祷告与默想圣经。张大卫牧师在讲解《罗马书》第七章的婚姻比喻时,也强调:“向律法死的人,如同基督的新妇,将在一个崭新的层面上结出属灵的果子。”换言之,过去在律法之下只能靠“禁止”来压抑罪,而如今在圣灵里可以超越罪,并结出新的喜乐与果实。对于很多信徒而言,这一观点带来相当的安慰与确据。因为若基于律法框架来生活,我们总会与自己的罪性碰撞,并常会陷入“我怎么就是这样不堪?”的自我厌弃;可若明白了与基督联合、并且相信圣灵内在引导,就不会绝望,反而会因祂的爱而渐渐活出上帝的善意,也就是保罗所说要“结果子归给神”。 归结起来,第一个小主题着重于“律法与我们新的关系”究竟是如何被重塑的。因为在“死”这个意象的带领下,我们不再受律法的挟制,反而与基督联合并能结出丰盛果子——这就是“信仰的自由”。同时,律法并未被废,而是在更高的层面——恩典的主权之下,实现了真顺从的可能性。这正是核心要旨。 2)律法的功能与人的局限 进入《罗马书》第七章中段,保罗提出另一个疑问:“这样,律法本身岂会有错吗?”保罗答道:律法能使罪显明为罪。换言之,若无律法,人就无法识别哪些行为是罪。例如,“不可贪恋”这一诫命若不存在,人便不会知道心中生出的贪念也算罪。从这个层面看,律法的确有益:它好比一面镜子,映照出我们脸上的污垢,让我们看清自己的本相。 然而,问题在于“罪的诡诈”。当律法告诉我们“这是罪,不要碰”时,人反而会因好奇和欲望而被吸引去触碰,这就是内在罪性所滋长出的反叛心。就像嘱咐孩子“千万别动这个玩具”时,孩子偏偏更想去碰。这便是罪藉着诫命而利用人性的软弱,将人引向犯罪之路。保罗在《罗马书》7章8节直言:“罪趁着机会,借着诫命,在我里头发动各样贪心。”明明律法是善的、圣洁的,但罪却利用它来让人跌倒,充分暴露了人性的败坏与悲惨。 从《创世记》第3章也看得出这一点。上帝说“不可吃分别善恶树上的果子,吃的日子必定死”,本意是要保护人类,但蛇(撒但)却藉此质疑并引诱夏娃:“神岂是真这样说?祂是不是怕你们吃了便和神一样,所以故意不让你们吃?”若仔细推敲,这条“不可吃”的命令实际上是出于对人的保护,可罪却将之反转来蛊惑人心。结果亚当、夏娃抱着些许怀疑与欲望,最终摘下禁果而坠落。保罗透过这样的例子,阐明这个世界有多么诡谲:律法本是为了指出并制止罪,但被罪“反客为主”地利用后,人便陷入悲剧。 保罗并非因此把结论指向“律法就是罪”。事实上,他清楚声明:“律法是圣洁的,诫命也是圣洁、公义、良善的”(罗7:12)。保罗要突显的是:上帝所赐的诫命是善的,而问题在于罪侵蚀了人性,使人无法成全律法,从而凸显人的悲惨处境。“律法”那高而神圣的标准,让人无法自诩为义,这正引导我们渴慕“恩典”。也就是说,律法能清晰地摆出“高标准”,并让我们明白自己全无能力靠自力达标,这最终会促使人谦卑地承认:“我是无法自救的罪人,只能仰望上帝的救恩。”保罗在《加拉太书》里称律法是引领我们归向基督的“训蒙的师傅”,也是同样的道理。 在这一连串论述中,保罗还透过“律法使我知罪”这句话,暗示着律法虽可抑制并揭示罪,却不具备根除罪的力量。对此,张大卫牧师在讲解《罗马书》时也提到:“人的根本罪性,不会因为律法的教导就被彻底拔除。相反,若愈强调律法,人的欲望就可能在别处变形或喷发。”这是什么意思呢?律法有“让罪显明”的正面功能,但无法解决“罪的根源”。从根本上除掉罪的,唯有福音——即耶稣基督在十字架上的代赎。换言之,律法让我们明白“罪有多严重”,并将我们带到这样的结论:“我既无望,只有基督的恩典才能拯救我。” 那么,律法究竟为何重要?简单总结保罗的要点是:律法为罪人提供了一个“第一步”的照亮过程。若有人认为自己是义人,那么当他来到律法面前,就会察觉自己其实是大罪人。没有经历这一过程,他便不会说出“我是罪人”。因此,律法扮演类似“探照灯”或“手电筒”的角色,在黑暗中照亮隐匿的罪,使信徒顿悟“原来我竟是这样可怕的罪人”,于是痛哭悔改。但事情并不止于此;律法能揭露或暂时压制罪,却没有最终铲除罪的力量。唯有转向基督才能获得赎罪的恩典,并在圣灵的帮助下,真正尝到与罪争战的胜利果实。 保罗在本章所谈的“困苦”或“痛苦”,正是指他明知律法是美善,却无力完全遵行时的矛盾和挣扎。那崇高而美好的标准摆在眼前,却因人性的软弱而始终无法企及,这种无助与悲哀被他深刻地表达出来。这并非保罗个人的独特境遇,而是所有真诚追求圣洁的信徒都会经历的。“明知神的旨意是善的,但为何我依然如此无能为力?”的哀叹,也是真实信仰生活的一部分。 然而,保罗并没有止步于绝望。在第七章末尾,他高声宣告了解决之道:“我真是苦啊!谁能救我脱离这取死的身体呢?感谢神,靠着我们的主耶稣基督就能脱离了!”律法揭露了我们的罪,使我们陷入绝望,但也在绝望之中指向了基督的十字架。只要仰望那救赎之工,我们就能得着盼望。这就是“律法的功能与人类的局限”这一第二小主题的关键:尽管律法完美无瑕,但堕落的人性无法完成它。人在深感“我是苦啊”的同时,却能转向基督,从中获得真正的得救盼望。律法如同守门人,将人引向基督,同时也暴露人的无能,使人明白自己对基督的恩典有多么迫切的需要。 3)信徒的内在冲突与恩典的胜利 在《罗马书》第七章后半部分,保罗所做的一段著名告白就是:“我所愿意的善,我反不去做;我所不愿意的恶,我倒去行。”(参罗7:19)凡是认真操练信仰生活的人,对此定会感同身受。尽管已经因信耶稣基督而被称义,人的旧有罪性和属肉体的本能并未彻底消失,以至于有时还是会陷入犯罪或软弱。“我想做的事却做不出来,偏偏去做那些自己厌恶的事”,保罗由此发出无奈的叹息。 关于这个问题,若仅仅停留在“信徒一旦犯罪,是否会再次被定罪”这样的争论上,恐怕还是表面。保罗谈的是更深层的“属灵存在冲突”。他一方面说:“按着我里面的意思(内心深处),我是喜欢神的律。”这是指着“重生的内在”,即新造的生命;另一方面又说:“我觉得肢体中另有一个律,就是罪的律,把我掳去。”这指肉体本性或亚当性尚未完全消失。在这两种律的对立冲突中,信徒每日都在进行属灵争战,于是常常发出“我真是苦啊!”的叹息。 值得注意的是,保罗并非因此陷入彻底的失败主义。他正是那个为福音献上整个人生、最富热情的使徒,却毫不掩饰地承认“我想行的善行不出来,我里面的罪性绊倒了我”。这正体现了基督教灵性的“美丽悖论”:越是自觉软弱的人,越能紧抓恩典;而自以为刚强的人,往往体会不到对恩典的需求。正如保罗常引用的名言:“神的能力,是在人的软弱上显得完全。” 尽管如此,保罗在《罗马书》第6章和第8章等处反复宣告:“罪必不能作你们的主,因你们不在律法之下,乃在恩典之下。”也就是说,信徒不再处于罪与死的绝对管辖之下。虽然偶尔还会被罪性诱惑,并在习惯的软弱中跌倒,但罪不再是我们的“主人”。这是因为我们已被基督的宝血赎买,成为神的儿女;且因圣灵内住,我们可以坦然称神为“阿爸父”。虽然肉体还在,但罪已无法再完全主宰我们。 在《罗马书》7章24节,保罗发出“我真是苦啊,谁能救我脱离这取死的身体?”的呼喊之后,紧接着第25节就爆发了颂赞:“感谢神,靠着我们的主耶稣基督!”表明在这场争战中,使人得胜的乃是耶稣基督,以及那来自祂的恩典。也正因为对此笃信不疑,保罗在面对个人的软弱、冲突、反复失败与罪的缠累时,仍能发出感恩的赞美。这其实也成为他对“救赎全然是因恩典,不在乎我们自己的义行”之最有力见证。 对于此内在冲突与恩典的得胜,张大卫牧师也常在辅导与讲道中提及:即使信了耶稣、领受了罪得赦免,原有的恶习与罪性也未必一夕之间彻底消失。相反,若真与基督有深切相遇,之前麻木不觉的罪也会变得更敏锐,引发更多痛苦。但这痛苦并非毫无意义,而是让我们更渴望真正的悔改、更深的圣洁。当我们在这时呼求圣灵帮助,并且以神的话语与祷告为武装,就能一步步经历胜过罪的实际体验。虽然我们仍难达到完全无罪的境地,但在圣灵的能力下,罪也不能再辖制我们。我们便可在这种确信中生活。 进入《罗马书》第8章时,保罗发出了那句著名宣告:“如今,那些在基督耶稣里的,就不被定罪了。”(罗8:1)要深刻理解这节经文,就得先回看保罗在第7章怎样痛陈内心的撕裂与绝望,继而抓住基督带来的胜利。正是“我虽然是个罪魁,但主耶稣拯救了我,所以我绝不再被定罪”的神圣悖论,贯穿了保罗书信的神学核心。 那么,我们在实际生活中,该如何处理《罗马书》7章所描绘的“争战”呢?第一,要诚实地承认自己的罪;第二,要有诚挚的心志渴望胜过罪;第三,真正成就这渴望的途径惟有耶稣基督的恩典,以及圣灵的同工。如同保罗所说,当我们在神面前呼喊“我真是苦啊”时,主也回应:“我的恩典够你用的。”牢牢抓住这恩典的人,就不会继续在律法的控告或死亡的阴影中被捆绑,而是依然会与罪争战,哪怕一时软弱也不至绝望,总能因仰望主的救赎重新振作,并最终让感恩与颂赞充满生命。正是保罗在第7章末端所持有的态度。 因此,《罗马书》7章展现了救恩论与成圣论在具体生命中的真实交汇:即便我们“已被称义”,但为何依然要与罪性纠缠?原来“已得救”与“尚在地上生活”之间,并不互相矛盾,反而意味着属灵的争战仍会持续。故此,每一天我们都要回到十字架前省察自己,并操练顺从圣灵的生活。在这过程中,律法并非来阻止我们前行,反倒是不断“照亮”我们生命中的罪,并指向神的公义。然而,当我们意识到无论如何努力也无法自救时,基督的恩典便更显宝贵。 最后,保罗十分清楚地知道罗马教会里既有犹太背景的信徒,也有外邦背景的信徒;他希望除去对律法的误解。以色列人固然领受律法,却并未能完全遵守;这律法也揭露了罪,并将人带向死亡。可并非因为律法本身邪恶或无用,而是罪借着诫命进入人心。如今福音之恩大量地彰显,也不是要彻底否定律法,而是将其提升到更圆满的层次。结论就是:“我虽然苦恼软弱,然而靠着耶稣基督得以自由。” 事实上,凡在信仰上有一段历程的人都明白:起初我们或许带着极大的感动和喜乐,但渐渐地会发现自己内心还有隐藏的黑暗面,那根罪性常会再次抬头。那时我们易陷入“像我这样的人,有什么资格……”的灰心。可保罗却在这种处境中宣告“我要感谢上帝”,这看似自相矛盾,却正是福音的奇妙之处:罪越显大,十字架的恩典就越突出,因而我们可以因信而勇敢地向前迈进。故此,罗马书7章教导我们看见内在冲突和争战并非毫无意义,反倒成为我们经历恩典得胜的途径。 简而言之,这第三个小主题聚焦“信徒的内在冲突与恩典的胜利”。确实的信徒难免在律法与罪之间经受深刻的存在性苦恼,但在那苦境尽头,我们看见了使我们得释放的耶稣基督之恩典。于是信徒可以这样见证:“我是困苦的人,但因主耶稣救我脱离这取死的身体,我便能感恩!”这就是《罗马书》第七章所带来的深沉共鸣,也将我们引向第八章中所唱的自由与胜利之歌。此章的信息直到今日仍然适用于所有基督徒:当我们在与罪的交战中感到痛苦时,能确知自己是在“恩典之下”,因此心里获得真正的安慰与激励。 总的来说,若以三个小主题总结全文:首先是**“律法与我们新的关系”,保罗用婚姻与死亡的比喻,讲明律法已无法再捆绑我们,因为我们已与基督联合享有属灵的自由,并能在这种自由中为神结出果子;第二个小主题是“律法的功能与人的局限”,强调律法虽是圣洁、美善,却因罪的狡诈与人的软弱,反而会引出死亡。但律法让人面对自己罪性的真实面目,并终归意识到惟有倚靠基督的恩典才能得救;第三个小主题是“信徒的内在冲突与恩典的胜利”**,即便重生后的信徒依然与罪性纠缠,却因与基督同在而能够在终局上得胜。 正因此,《罗马书》7章让我们看见:即便被宣告“称义”之后,我们仍需继续与罪性作战。这并非否定我们真实得救的身份,而是指出我们在恢复“按神形象而造的真我”之路上,绝不能停止对罪性的抵抗。但从恩典的角度看,就连这场争战本身也在神的爱里大有意义,并能结出果实。因为律法虽未被废却,再也无法用定罪的功能来牢笼我们;相反,它继续在我们心中发挥使人知罪的益处。当我们清楚自己的局限后,就能唱出“靠着拯救我的耶稣基督,我要感谢神”的信心之歌。这正是《罗马书》第七章的核心要义,也是张大卫牧师曾多次强调的信息。最终,与罪争战的过程并不会以绝望为结局,而会因基督的恩典而转向感恩与赞美。并且在此过程中,我们也会借着圣灵的帮助,真实地经历生命的成长与内在的自由。《罗马书》7章让每位基督徒都正视“在成圣过程中必然经历的争战”,并且宣告“这争战最终要以恩典的胜利而告终”。祝愿所有踏上信仰之路的人都能在这一真理中得安慰与鼓舞。阿们。

    2월 16, 2025
  • 恩恵と内なる闘い– 張ダビデ牧師

    以下の文は、張ダビデ牧師がローマ書7章全般について説教した内容を整理したものである。ローマ書7章を研究し黙想する際、また信徒が実際の信仰生活で直面する「律法と福音」「罪と恩恵」「内的葛藤と勝利」などのテーマをより深く理解する助けとなることを願う。 1) 律法と私たちの新しい関係 ローマ書7章は、パウロが律法について非常に独特な“婚姻”の比喩を提示するところから始まる。パウロはまず「夫のある女は、その夫が生きている間は法によって縛られているが、夫が死ねば自由になる」という事実を語る。こうした結婚と死の例を用いて、「律法の支配とキリストとの新しい結合」を説明しようとするのだ。人は律法が生きている間、正確に言えば自分がその律法の下に縛られている間は、律法の効力と統制の中に置かれる。しかしキリストの十字架によって信じる者が「キリストと共に死んだ」と宣言されるとき、以前には律法が持っていた支配は効力を失い、代わりに新しい関係が成立するという論理である。 興味深い点は、パウロが「夫が死んだ」とは言わず、「私が死んだ」と語ることによって、律法が消滅したとか、もはや存在しなくなったと言っているわけではないことだ。律法そのものが無効化されたのではなく、イエス・キリストと連合して十字架で死んだ者となったので、“私”が律法に対して死んだというのである。「私が死んだから、以前の関係はもはや効力をもたない」という視点は、キリスト教信仰の核心となる福音のメッセージと直結している。イエスが十字架で死なれ、その功労と代償(代贖)を成し遂げられたとき、信じる者もまた共に死んだと宣言され、律法が持っていた罪の罪定めの機能から解放されたのだ。 しかし、ユダヤ人出身の多くのキリスト者たちはパウロに「それでは律法を廃棄しても良いということか」と問いかけた。彼らは一方でローマ帝国に離散(ディアスポラ)していながらも律法の伝統を尊重しており、他方ではイエスを通して救われたという福音を受け入れていた。その過程で、律法と福音がどのように調和して結びつくのかという疑問が絶えず提起されていたのである。これに対してパウロは、「私は決して律法廃棄論者ではない」と明確に答える。律法は神の聖なる御言葉であり、一点一画たりとも消え去ることはないからだ。キリストご自身も「律法や預言者を廃棄しに来たのではない。廃棄ではなく完成するために来たのだ」と言われたように、パウロもまた律法を無価値なものとしてはいない。むしろ、キリストの十字架の出来事によって「私」という存在が以前とは変わったのであり、律法との関係が新しく再編されたのだと強調するのである。 パウロはローマ書7章4節で、この点を明確に総括している。 「あなたがたもキリストの体によって律法に対して死んだ者とされたのです。それは、ほかの人、すなわち死者の中からよみがえられた方に属するようになり、私たちが神のために実を結ぶためです。」 ここで「神のために実を結ぶためです」という目的語が重要である。律法の下にとどまったままでは決して結ぶことのできない、より豊かで満ち溢れる実をキリストのうちにおいて結べというのだ。主はぶどうの木であり、私たちはその枝であるゆえ、ヨハネ15章で明言されたように、キリストにつながっていなければ多くの実を結ぶことはできない。枝がどれほど努力しても、木を離れては実を結べないのと同じように、律法の下だけにとどまる生き方は実を結ばない生き方になりやすい。律法には罪を明らかにし、規制する効力があるが、「究極的ないのちの実」、すなわち恵みによる救いと聖霊の力による霊的成熟をもたらすことはできないからだ。 さらに7章6節には「霊の新しき方式によって仕えるのであって、律法の文字の古い方式によるのではありません」という御言葉が出てくる。これはただ戒めを文字どおり守るだけの律法主義的な信仰ではなく、聖霊の内的な導きに従う生き方へと移行せよという招きである。イエスが別れの説教(ヨハネ13~17章)で教えられたように、私たちは主の愛にとどまることで真の自由を得、より多くの実を結び、喜びが満ち溢れる恵みを味わえるのだ。 実際、キリスト教の2千年の歴史において、恵みと律法のバランスを取れなくなったとき、大きな問題が生じてきた。律法主義と律法廃棄論という二つの極端は、教会を弱体化させてきたのである。律法主義は過度の罪定めと裁きを生み、互いに慈しみや赦しがなくなり、信仰生活が枯渇してしまう。一方、律法廃棄論に陥ると、罪を軽く考えて安易な放縦へと流れがちになる。どれほど恩恵の福音が強調されようとも、神は今もなお義と正義の神であられ、私たちが守るべき法があることを忘れてはならない。この二つのどちらか一方が完全に崩れてしまえば、信仰のバランスは崩壊するのである。 このように、ローマ書7章は「キリストと結婚した人」という比喩を通して、一見するとかなり難解に見えるが、その結論は非常に明快である。過去には律法がまるで「夫」のように私たちを支配し罪定めを下していたが、今やキリストと結合して「私が死んだ」のだから、律法はもはや私を縛ることはできないということだ。もちろん、律法が消滅したわけではない。律法は今でも依然として神の義を示し、私たちが罪を認識する助けとなる聖なる機能を果たしている。しかしもはや、私たちは律法の呪いの下に縛られていないということが核心である。イエスが十字架において代償(代贖)として私たちの罪を身に負われたゆえ、私たちは罪と死の権勢から解放された。その結果、私は「霊の新しき律法」、すなわち聖霊の導きに従い、神を喜ばせる自発的な従順の道を歩むことができるようになったのだ。 これをさらに実際的に適用するなら、信仰生活で「これは罪だからやめよう」という“恐れ”による従順ではなく、「主を愛するがゆえに、主の御心なら喜んで従いたい」という次元の能動的な仕え方へと進むことを意味する。パウロはこの過程をローマ書やガラテヤ書、そして他の書簡でも繰り返し強調している。特にガラテヤ2章20節で、 「私はキリストと共に十字架につけられました。それゆえ、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」 と述べ、律法的な古い人が死に、キリストが私の内に生きておられるという新しい創造の御業を説明してくれる。 一方、この教理を日常生活の中で具体的に実践するためには、霊的な省察や祈り、そして御言葉の黙想が欠かせない。たとえば、張ダビデ牧師はローマ書7章の婚姻の比喩を解き明かす際に、「律法に対して死んだ者はキリストの花嫁として、以前とはまったく異なる次元の実、すなわち霊的な実を結ぶようになる」と強調する。すなわち、律法の下にあったときはただ「禁止」されることで罪を抑える程度にとどまっていたが、今や聖霊のうちにあって罪を超克する新しい喜びと実を結ぶようになるという視点だ。この観点は多くの信徒にとって実際的な慰めと確信を与える。なぜなら、律法の枠の中で信仰生活をすると、自分の罪深さと常に衝突し、「私はなぜこんなにもだめなのか」と自己嫌悪に陥りやすいからである。しかしキリストとの連合を知る者、聖霊の内なる導きを信頼する者は失望に陥らない。むしろその愛に感激して次第に神の善き御心を行うようになり、それこそがパウロの言う「神におささげする実」となるのだ。 要するに、第一の小テーマでは「律法と私たちの新しい関係」がいかに再定義されたかに焦点を当てる。死によって、もはや律法に縛られず、キリストと連合して豊かな実を結ぶ「信仰の自由」が強調され、律法が決して廃棄されたのではなく、より高い次元、すなわち恵みの支配の下で真の従順が可能になったという事実が核心といえるだろう。 2) 律法の機能と人間の限界 ローマ書7章の中盤に移ると、パウロは「それでは律法自体が悪いのか」という疑問に答えている。パウロの宣言によれば、律法は罪を罪として露わにする機能をもつ。言い換えると、律法がなければ罪を“罪”として認識することはできないということだ。たとえば、「隣人のものをむさぼってはならない」という戒めがなければ、人は心でむさぼりを抱くことが罪だとは少しも思わなかっただろう。この点からすれば、律法は実に有益である。律法は鏡のようなものであり、自分の顔についた汚れを映し出す役割を果たす。その鏡があって初めて、自分自身の姿を正確に知ることができるのだ。 ところが問題は「罪の狡猾さ」である。律法が教えてくれる、すなわち「これは罪だから行ってはならない」と教わるほど、人間はかえって好奇心を刺激され、やってみたいという内的欲望が芽生えてしまうという。子どもに「絶対にこのおもちゃには触れないで」と言えば、むしろそのおもちゃにますます触れたくなるのと似ている。これこそが罪が戒めを利用して私たちの内に入り込む姿なのだ。パウロはローマ書7章8節で、「罪が機会をとらえて戒めによってあらゆるむさぼりを私に起こさせた」と告白している。律法自体は善で聖なるものなのに、罪がそれを利用して人間を堕落させる状況が起こるゆえ、人間の惨めさがありのままに露呈されるのである。 これは創世記3章を見れば分かる。神は「善悪の知識の木の実を食べてはならない。食べれば必ず死ぬ」と言われたが、サタン(蛇)はそれをきっかけにエバを誘惑し「本当に神はそう言われたのか。これを食べれば神のようになることを恐れて隠しているのではないか」とそそのかした。冷静に考えれば、その律法(「食べてはならない」)は人間を守るためのものであったのに、罪はそれを逆手に取り、アダムとエバを誘惑したのだ。そうして彼らはわずかな疑いと欲望に囚われ、ついに禁じられた実を食べてしまった。パウロは、この世界がいかに狡猾で複雑かを解き明かしつつ、律法には「罪を露わにする」善なる機能があるものの、罪に陥った人間の実存があまりにも弱いために、むしろ罪に振り回される危険性があることを指摘している。 しかしパウロはこれを「だから律法が罪なのだ」と結論づけたいわけではない。「律法は聖なるものであり、戒めは聖であり正しく善なのだ」とローマ書7章12節ではっきりと断言する。ここに示される神学的メッセージは明快である。神から与えられた戒めは善であるが、罪に汚染された人類がその戒めを完全に守るのは不可能だということだ。そして、この不可能性こそが、人間に「恩恵」を渇望させる要因となる。つまり、律法は大きく聖なる基準を提示することによって、人間が自らを義とすることはできないと悟らせ、最終的に人間に「私はどうしようもない罪人です」と認めさせて神の救いを仰ぎ見るように仕向ける教師(師)の役割を担っているのである。ガラテヤ書でもパウロは「律法は私たちをキリストへ導く養育係(モンハペダゴゴス)」だと言わなかっただろうか。 パウロはこうした論旨を展開しながら、さらに重要な事実を明らかにする。「律法によらなければ罪を知らなかった」という言葉は、律法が罪を抑制しさらけ出す機能を持っているものの、その罪の問題を根本的に解決してくれるわけではない、という限界を示唆しているのである。この点について、張ダビデ牧師もローマ書の説教で「人間の根本的な罪性は、律法の教えだけでは抜本的に取り除かれない。むしろ律法が強調されればされるほど、人間の欲望は別の方向へ発散しようとする傾向を見せる」と説明している。これはどういうことか。律法の順機能は罪を示すことだが、その罪を除去する根源的な力は福音、すなわちイエス・キリストの十字架の出来事にあるということだ。言い換えれば、律法は「罪がいかに深刻か」を教えてくれ、その結果、人間は「私はもう望みがない。唯一キリストの恵みしか道はない」という結論に至る、というわけだ。 では、そもそも律法はなぜ必要なのか。パウロの言い分を簡潔に整理すると、次のとおりである。まず、律法は罪を認識する第一段階として不可欠である。誰かが自分を正しい人だと思っているなら、その人は律法の基準の前に立ったとき、初めて自分がいかに大きな罪人であるかを知らされるのだ。この事実を通過していない者は、決して「私は罪人です」と告白することはできない。最終的に律法は一種の「懐中電灯」「フラッシュライト」とも言え、闇の中に隠されていた罪を照らし出す。光があることで罪の実態が露呈し、信じる者は「ああ、私はこんなにも罪深い者だったのか」と嘆きつつ悔い改めに進むことができるのである。しかし、それで終わりではない。律法は罪の正体をさらけ出して抑制することができるかもしれないが、罪を根底から消し去る力は持っていない。その時点で必ずキリストのもとへ移らなければならない。そうしてこそ贖罪の恵みが与えられ、聖霊の力によって罪との戦いにおいて実際的な勝利を味わうことができるのだ。 パウロがこの章で言う「苦悩(곤고함)」とは、律法がいかに善いものであるかを知りながら、それを守る力が自分にはないと痛感する時に訪れる苦しみである。果てしなく高く美しい基準の前で、自分はとても達することができないという絶望感がそのままに伝わってくる。しかし、これは決してパウロだけの問題ではなく、すべての誠実な信徒にも共通する告白である。「神の御心が善いと知っていて、それが正しいと分かっているのに、なぜ私はこんな有様なのか」という嘆きは、私たちが福音の前で自分をへりくだらせなければ、究極の絶望へとつながってしまう。 しかしパウロはそこで終わらず、7章の最後の部分に至ると、解決策を賛美で宣言する。「この死の体から、だれが私を救い出してくれるのか。私たちの主イエス・キリストによって神に感謝します!」という結論の言葉である。律法が罪を露わにし私たちを絶望させたが、その絶望の真っただ中で十字架の贖い(救贖)を見上げるとき、私たちは初めて希望を得ることができる。それこそが、「律法の機能と人間の限界」という第二の小テーマの核心なのだ。いかに律法が精妙で完璧であろうとも、罪の中に陥った人間にはその法を完全に成就することはできない。結果として、人の内には「ああ、私はなんと惨めな人間なのだろう」という嘆きがわき上がるが、その嘆きはキリストにあって救いの希望へとつながる。律法は私たちをキリストへ導く門番であり、私たちの無力さと限界を暴露しつつ、同時にキリストの恵みがいかに絶対的に必要かを示す役割を忠実に果たしているのである。 3) 聖徒の内的葛藤と恩恵の勝利 ローマ書7章の後半には、パウロの有名な告白である「願っている善を行わず、かえって望まない悪を行ってしまう」という嘆きの言葉が登場する。この箇所は、真剣に信仰生活をしてきた人なら誰しも共感せずにはいられないだろう。すでにイエス・キリストを信じ、義と認められた信徒であっても、依然として罪の性質や肉的本性が残っており、ときにはつまずいて罪を犯してしまう。「自分がやりたいことは行わず、むしろ憎んでいることを行ってしまう」というパウロの嘆きが、そのまま心に響いてくる。 この問題は単に「信徒が罪を犯せば再び罪定めを受けるのか、それともそうではないのか」という表面的な問いに終始するのではなく、パウロはより深い霊的な実存の葛藤を語っている。彼は一方で「私は内なる人としては神の律法を喜んでいる」と言う。これが、いわゆる「新生した内面」、「新しい被造物」としての自己である。同時に「私の肢体の中にはもう一つの法、すなわち罪の法があって私を捕えようとする」とも告白する。これは肉的本性、アダム的な罪の性質がまだ完全に消え去らずに残っているということだ。このように二つの法が対立するため、聖徒の内面では日々霊的戦いが起こり、その過程で「ああ、私はなんと惨めな人間なのか!」という嘆きがほとばしるのである。 しかしここで重要なのは、パウロがこの告白をしているからといって、自分が完全に敗北主義に陥っているわけではないという点だ。彼は当時、最も情熱的な使徒の一人であり、福音のために生涯を捧げた人物である。それにもかかわらず、「私は不十分で、願っている善を行えず、私の内なる罪が私を打ち負かす」と言うのだ。これは、キリスト教の霊性が示す美しい逆説を表している。すなわち、「自分の弱さを自覚する者こそ恩恵をつかむことができ、自分を強いと思っている者は恩恵の必要性を感じない」ということである。パウロがしばしば引用した御言葉のように、神の力は「弱さのうちに完全に現れる」のだ。 それにもかかわらず、パウロがローマ書6章や8章などで繰り返し強調するように、「罪はもはやあなたがたを支配できない。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのだから」という宣言がある。聖徒は罪と死の権勢の下に置かれた者ではなく、たとえ罪の誘惑や習慣的な弱さによってつまずくことはあっても、最終的には罪が私たちの“主人”となり得ないのだ。理由ははっきりしている。私たちはすでにキリストの血によって「贖い」され、神の子どもとされた者であり、聖霊が私たちの内に住んでくださるがゆえ、「アバ、父よ」と大胆に近づくことができるからである。まだ肉の性質が残っているゆえに葛藤はあっても、罪の支配は終わったというわけだ。 ローマ書7章24節の「私はなんと惨めな人間でしょう。この死の体から誰が私を救い出してくれるのでしょうか」という痛切な絶叫に、すぐ続く25節こそが頂点である。「私たちの主イエス・キリストによって、神に感謝します!」。最終的にこの戦いで勝利させてくださる方はイエス・キリストであり、その恵みこそが聖徒の希望なのだ。パウロは、自身の弱さと葛藤、繰り返される失敗と罪の苦悩のただ中においても、「イエス・キリスト」を仰ぎ見るとき、感謝と賛美が湧き上がる。それはすなわち「死からいのちへと救い出してくださる方」への確かな信頼に基づくものであり、同時に救いの完成が私たちの力や義ではなく、純粋に神の恵みにかかっていることを逆説的に証する場面でもある。 こうした内的葛藤と恩恵による勝利について、張ダビデ牧師もまた信仰相談や説教でしばしば触れている。イエス・キリストを信じ罪の赦しを受けたからといって、一瞬ですべての悪習や罪がなくなるわけではない。むしろキリストを真実に経験した信徒であれば、以前は鈍感だった罪がより鮮明に見え始め、それゆえ余計につらく感じることもある。しかしそれは、恵みの中で「霊的な成熟」へ向かうプロセスであり、より深い悔い改めと真の聖さを渇望する心を呼び起こす。そのときこそ、聖霊の助けを求め、御言葉と祈りにより自らを武装するとき、私たちは次第に罪の勢力に打ち勝つという実際的な経験を得るようになる。たとえ完全無欠の“罪なき”境地に達するのは困難だとしても、罪がもはや私を支配できないようにする聖霊の力が共にあるという確信の中で生きられるのだ。 ローマ書8章に入ると、パウロは「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は決して罪定めされることはありません」という有名な宣言をする。この文脈を正しく理解するためには、7章でパウロが痛烈に告白した内的な分裂と挫折、そしてキリストによる究極的勝利をまず押さえておく必要がある。「私は罪人の頭であるが、イエス様が私を救ってくださったゆえ、私は決して罪定めされることがない」という逆説こそ、パウロの書簡全体を貫く恩恵の福音なのである。 それでは私たちは実際の生活で、このローマ書7章の“闘い”をどのように扱うべきだろうか。第一に、自分の罪を正直に認めること。第二に、その罪から逃れたいという切実な渇望を持つこと。第三に、その渇望を実現させる道は、結局イエス・キリストの恵みであり、聖霊の助けに他ならないということだ。パウロが言うとおり、神の前で「私はなんと惨めな人間だろう」と叫ぶとき、主の声が聞こえてくる。「わたしの恵みはあなたに十分である」。この恵みをつかむ者は、律法の罪悪感に押しつぶされ、死の恐怖に閉じ込められて生きることはない。むしろ罪と最後まで戦いつつも、つまずいて倒れても、主の贖いを仰ぎ見て立ち上がり、最終的には神に感謝と賛美をささげる方向へと進む。パウロが7章の終わりで示した態度がまさにそうである。 このようにローマ書7章は、救いの教理と聖化の教理が交差する実存的な現場を示している。信じる者が「すでに義と認められたのに、なぜ私はこれほど罪に苦しむのか」という問いに真正面から答えてくれる章といえるだろう。すでに救いは成就したが、まだこの地上に生きる間は霊的な戦いが続く。ゆえに信者は毎日十字架の前で自分を省み、聖霊に従って歩む訓練を休んではならない。この過程で、律法は私たちの足かせというよりは、むしろ「私の内に残る罪」を照らし出す役割を担い、同時に「神の義」を示す標識にもなる。とはいえ私たちがどれほど努力しても自力で自分を救うことはできないと悟るとき、キリストの恵みはいっそう輝くのである。 最後に、パウロはローマ教会のユダヤ人出身信徒と異邦人出身信徒が共に聞いている状況を意識しながら、律法に関する誤解を解こうとした。律法を与えられたイスラエルの民が、それを完全に守りきれず、むしろ律法が罪を暴露した結果として死が入り込んだが、それは決して律法自体が悪であるとか無価値だからではなく、罪が戒めを利用して人間に入り込んだからだと説く。そして恩恵の福音が豊かに宣べ伝えられる時、それは律法を完全に無視または廃止するのではなく、より完全な次元へと高めるのだと納得させる。「私はなんと惨めな人間だが、今はイエス・キリストによって自由になった」というのが結論なのである。 実際、長年信仰生活を送ってきた人ならわかることだが、最初は感動と喜びで歩み始めても、ある時点で自分の内にいまだ暗い影が存在し、その影が罪の本性によって再び頭をもたげてくる現実を目の当たりにする。そうなると「こんな罪人の私にいったい何の資格が…」と落胆しやすい。しかしパウロはそのような時こそ「神に感謝する」と宣言するのだ。一見すると逆説的に見えるが、これこそが福音の逆説である。罪が深く明らかになるほど、十字架の恩恵はさらに強く際立ち、結果として信仰へと踏み出す道が開かれるのである。このように、内なる葛藤と闘いは決して無駄な苦痛ではなく、むしろ恩恵の勝利を体験するための通路だという事実を教えてくれるのが、ローマ書7章が持つ深遠な意味なのである。 まとめると、全体を3つの小テーマだけでまとめた場合、第一は「律法と私たちの新しい関係」である。パウロは結婚と死というメタファーを用い、律法がもはや私たちを束縛できないことを説く。これはすなわち、キリストと結合した者が得る霊的自由であり、その自由のうちで私たちは神のために豊かな実を結ぶようになる。第二は「律法の機能と人間の限界」である。律法は確かに聖で善なるものだが、罪の狡猾さと私たちの弱さによって、かえって死に至ることがありうると指摘する。そして律法は人間に自分の罪を直視させ、キリストの恵みなしには救われないことを痛感させる。第三は「聖徒の内的葛藤と恩恵の勝利」である。救いを受けた後も、私たちの内には肉的本性や罪の習慣が残っているため、繰り返される葛藤が起こるが、イエス・キリストの力と愛に焦点を合わせるとき、究極的な勝利を経験できることが強調されている。 このようにローマ書7章は、私たちが「義と認められた」後にも依然として戦わなければならないことがあると説く。それは、神のかたちへと本来の姿が回復されつつある中で、なおも過去の罪の性質と戦いをやめることができないという意味である。しかし恩恵の面から見るなら、その戦いですら神の愛のうちで意味をなし、やがて実を結ぶものとなる。律法は決して廃棄されてはいないが、それはもはや罪定めの機能として私たちを死に閉じ込めておくことはできず、代わりに罪を示す有益性をもたらすのである。私たちは自分の限界を知ったときにこそ、「私を救い出してくださったイエス・キリストによって感謝します」との信仰の歌をうたうことができる。これこそローマ書7章を貫く核心的な真理であり、張ダビデ牧師も繰り返し強調してきたメッセージである。結果として、罪との闘いを抱える私たちの実存は決して絶望で終わることなく、キリストの恵みによって感謝と賛美へと導かれる。そしてその過程において聖霊の助けを通じて、私たちは実際の成長と内なる自由を経験していくのである。信仰の道を歩むすべての人にとって、ローマ書7章は「救いの聖化の段階で不可避に直面する闘い」を正直に見つめさせると同時に、「その闘いが最終的には恩恵の勝利に帰結する」ことを教えてくれる貴重な章である。

    2월 16, 2025
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    2월 16, 2025
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    2월 16, 2025
  • 은혜와 내적 투쟁– 장재형(장다윗)목사

    아래 글은 장재형(장다윗)목사의 로마서 7장 전반에 대한 설교를 정리한 것이다. 로마서 7장을 연구하고 묵상하며, 성도들의 실제적인 신앙 여정에서 맞닥뜨리게 되는 ‘율법과 복음’, ‘죄와 은혜’, ‘내적 갈등과 승리’를 심도 있게 살펴보는 데 도움이 되길 바란다. 1) 율법과 우리의 새로운 관계 로마서 7장은 바울 사도가 율법에 대해 아주 독특한 혼인의 비유를 제시하면서 시작한다. 바울은 먼저 ‘남편 있는 여인이 그 남편 생전에는 법으로 매여 있지만, 남편이 죽으면 자유롭게 된다는…

    2월 16, 2025
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장재형목사 HBS 회장 성경보급 집중

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