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  • Tout est accompli– Pasteur David Jang

    Sous-thème 1. La signification de «Tout est accompli» proclamé au cœur du désespoir de la croix 1) Contexte biblique et sens immédiat de «Tout est accompli» Les dernières paroles que Jésus prononce sur la croix, «Tout est accompli» (Jn 19:30), se lisent en grec «Tetelestai» (Τετέλεσται, tetelestai). Littéralement, ce terme provient du verbe grec teleō (τελέω), qui signifie…

  • 都成了 – 张大卫牧师

    小主题 1. 在十字架的绝望中宣告的“都成了”的意义 耶稣在十字架上最后所说的一句话——“都成了”(约19:30),在希腊原文中是“τετέλεσται(Tetelestai)”。这一词语在原文中带有“完全付清”、“所有事情都已圆满完成”的含义。张大卫牧师强调,这最终的宣告正是彰显基督教福音核心的最伟大的救恩宣告。对一般人而言,看到耶稣在十字架上断气的情形,会觉得这是一个失败与绝望的时刻:因为耶稣被罗马政府以极度羞辱的刑罚处死,而门徒们更是在绝望中四散。然而,根据《约翰福音》的记载者——使徒约翰所见证,这一看似残酷而悲怆的死亡之地,反而成为了宇宙性救恩得以成就的场所。 1) 十字架在人眼中与在神眼中的视角差异 在世人的眼中,十字架上的耶稣似乎已然无能为力:当时的宗教领袖、政治权力者都嘲讽祂;门徒也大多陷入惶恐或逃离的状态。十字架作为一种最羞辱、最痛苦的刑罚,本应仅加之于奴隶或重大罪犯身上。耶稣却在这最悲惨的刑具上度过最后几小时,以至肉体与精神都承受了极限的摧残。于是,无论是犹太群体还是罗马士兵,许多人都认定这是对耶稣“失败与结束”的宣判。 然而在神的永恒计划中,这个看似彻底的失败,实际上是神计划的圆满完成。约翰福音19章28~30节记载,耶稣清楚知道自己已经完成一切该做的事,接着才说“我渴了”,并最终宣告“都成了”。这种意识表明,在神的救恩旨意中,耶稣的受死并非意外事件或突然之变,而是按着神预定的方式与时间推进,直到在十字架上完成了祂的受苦与舍己。张大卫牧师也着重指出,耶稣于最痛苦最绝望之地却能发出这句“都成了”,预示的不是败局,而是神救恩历史的终极完成。 2) “都成了”与旧约预言的应验:诗篇与“我渴了”的联结 在约翰福音19章28~30节的叙事之前,我们看到耶稣已经历了彼拉多的审讯、鞭打、讥讽,被钉十字架等过程。他的一生宣讲天国福音,医病赶鬼,怜悯众人,并向门徒揭示了关乎“救恩与神国”的诸多奥秘。最后,祂接受了十字架上这极惨痛的刑罚。经文本身指出,耶稣知道一切事情都成就后,才说了“我渴了”。这对应《诗篇》69篇21节中“他们拿苦胆给我当食物;我渴了,他们拿醋给我喝”的预言。由此可见,耶稣的每个举动与言行都与旧约的预言互相呼应。 根据马太福音27章34节的平行记载,十字架行刑前,有人拿带有麻醉成分的苦胆调和酒给耶稣喝,而耶稣拒绝了这份“减轻痛苦”的恩惠。祂选择清醒地承受十字架的痛苦,以便将牺牲完全带到终点。然而在约翰福音19章,我们却见到耶稣最后时刻呼喊“我渴了”时接受了酸酒。这一拒绝与接受之间体现出深刻的神学含义:之前耶稣拒绝了任何能降低祂痛苦程度的东西,好使祂全然承担人类罪恶的工价;最终时刻的那一口酸酒,则象征着所有旧约预表的彻底成全——祂不再需要继续承受更多,因为整个流程正按神的计划走到终点。 3) “都成了”展现神的计划与神圣主权 张大卫牧师在讲解中强调,“都成了”所带来的震撼在于:一切人的眼光所视为悲剧、绝望及失败之处,在神的视角下却完全相反——是救恩历程的峰顶,是全然的胜利和完成。《约翰福音》之所以强调这句话,与其他三卷福音书“耶稣大声呼喊后就断气了”的简洁写法有所不同,乃是为了让读者明白:耶稣受死之事既非偶然,也非悲剧;更非因祂无力回天,而是出于神对人类的深切爱与周详计划。 当耶稣在十字架上宣告“都成了”后,就“低下头,把灵魂交付神”。在希腊原文里,“低下头”可以带有将头安放如枕头上歇息的意象,即耶稣安心地、主动地把自己灵魂交托给天父。祂在肉身上的剧烈痛苦走到极限,然而灵性与神性的角度,祂完成了旷古未有的拯救使命。 4) 从门徒的绝望到对“都成了”的信心领悟:以马忤斯为例 在路加福音24章的记述里,我们看见了初期门徒对耶稣之死的深深绝望。那些去往以马忤斯的两个门徒,一边走一边伤心且疑惑:“我们素来所盼望的那位先知和老师,如今却死了,难道这就是终结吗?”可以想象,如果耶稣真的是弥赛亚,祂怎么会死在十字架上呢?这在许多犹太人传统期望中是极度矛盾的。 然而复活的耶稣却亲自与他们同行,透过先知与律法的经文,重新诠释基督必须受苦、进入荣耀的必要性。随后,主“擘饼”给他们时,他们的眼睛才被开启,认出与自己同行的正是复活的主。他们这才意识到,原来十字架的苦难并不是失败,而是神的救赎大爱。回望“都成了”之宣告,这两个门徒应该也终于明白,那并非一个沉痛的终点,而是一切预言与盼望的完成时刻。 5) 十字架的神学中心:死与生、羞辱与荣耀的并存 通过耶稣在十字架上的“都成了”,我们可更深刻地理解基督信仰的核心:所谓“福音的悖论”,乃指人眼看似极度的不幸和痛苦,神却使用其成就莫大的恩典。十字架正是将苦难与救恩、羞辱与荣耀同时展现在人面前的象征。我们在面对个人或教会的患难时,也或可因这悖论得以重寻盼望:在最黑暗的深处,却有神赐的光和出路;在最痛苦无助的时候,却有救主已为我们担当了最深重的枷锁与刑罚。 因此,“都成了”不但总结了耶稣在地上使命的结束,也成为了众教会、历世历代信徒敬拜赞美的根基。它给我们带来确据:既然耶稣已经完成了一切,我们就可以坦然地依靠祂的大功;也正因如此,我们能够在生活中经历从绝望到盼望、从失败到更新的转变。这也正是张大卫牧师在各类讲道与教导中,一再提醒信徒所应当抓住的福音信息。 小主题 2. 圣经的预言与救恩的完成:牛膝草、逾越节羔羊,以及主的宝血 在圣经之中,许多“预表”或象征都指向耶稣的代赎与牺牲。其中,“牛膝草”和“逾越节羔羊”这一对象征尤为显著。通过回顾旧约的预言与祭祀制度,我们可更明白:耶稣在十字架上的流血牺牲并非“突然发生”的历史事件,而是神自古以来便宣告、安排并成就的宏大救赎计划。张大卫牧师在讲道时将这一关联深刻地展现出来,使信徒重新思考:旧约逾越节的血何以预表基督的宝血,而基督的宝血又如何在我们今日的生命中成就奇妙的拯救与更新。 1) 牛膝草与逾越节:旧约出埃及与十字架的影子 《出埃及记》第12章记载了逾越节诞生的故事:神要降下最后一灾,击杀埃及所有的长子;以色列人却因着献上无残疾羔羊的血而得保全。当时,神吩咐以色列人取牛膝草来蘸羔羊血,涂在门框和门楣上(出12:22),这样灭命的天使就越过这家,家中长子便保全性命。牛膝草在此扮演着涂抹羔羊血的工具角色,也象征着洁净、分离与分别为圣。 在《约翰福音》19章29节我们读到:“有人拿海绵蘸满了醋,绑在牛膝草上,送到祂口边。”有人认为这里或许在抄本中作“牛膝草”或“长的茎秆(用来递)”,但许多解经家更倾向视之为“牛膝草”的象征,因而与出埃及记形成强烈的旧约-新约呼应。那无残疾的“逾越节羔羊”就预示基督;涂在门楣的血是旧约的象征,而十字架上基督的血则完成了真实的救赎。从前,是用羔羊血使以色列人免于肉身的灾难;如今,基督的血使所有信的人免于罪与死亡的权势。 2) “逾越节羔羊”与耶稣的替罪羔羊身份 在圣经多处,尤其是《约翰福音》1章29节,施洗约翰指着耶稣说:“看哪,神的羔羊,除去(或背负)世人罪孽的!”此处“神的羔羊”形象,与逾越节的羔羊相呼应,也联结到犹太人广为人知的献祭制度。犹太传统中,羔羊被献祭以赎罪;然而,那些献祭都是暂时性的,每年都须重复。而耶稣作为神的独生子、那最终的无瑕疵羔羊,祂一次性地完成了永远的赎罪祭,不必再重复献祭。 张大卫牧师指出,凡是信靠耶稣宝血之人,就如同在灵性里把“羔羊的血涂在门框与门楣”上,在末日或神公义审判临到之时,就得以免于灭亡。基督徒透过耶稣的血,脱离罪与死的权势,进入神儿女的自由之境。对此,正如希伯来书9~10章反复强调:耶稣献上祂自己这完全的祭后,已使得所有信祂的人得以成圣,并不再需要献上繁琐的牛羊祭物。 3) 宝血与水:从耶稣肋旁流出的“最后舍己” 约翰福音19章34节还有一句触目惊心的描述:“惟有一个兵拿枪扎祂的肋旁,随即有血和水流出来。”这个场面不仅是一个物理层面的事件,也传达了深刻的神学象征。传统教会神学常将流出的血与水理解为救赎与洁净的象征:血意味着耶稣舍命代赎,水则象征圣灵的工作、重生和洗净(或联系到洗礼、重生等神学内涵)。 张大卫牧师在讲道中,往往将此视为“主用最后一滴血与水,将自己毫无保留地给了我们”的画面:祂不仅付出了血的代价,更为信徒预备了洁净的恩典,使我们在祂里得到完全救赎与更新。许多教父神学家也在此段经文上大做灵修省思,认为血与水让人联想到“圣餐与洗礼”——教会两个最重要的圣礼。耶稣流出的血意指圣餐中“这是为你们舍的身体、所流的血”,而水可能暗指洗礼,使我们因与耶稣同死同埋葬同复活而得新生。无论如何,这一幕高举了基督的“完全舍己”,也铺陈了教会今后在地上活出舍己之爱的呼召。 4) “一粒麦子”的真谛:死而后生的福音悖论 约翰福音12章20~25节中,当一些希腊人想见耶稣时,耶稣以“若一粒麦子不落在地里死了,仍旧是一粒;若是死了,就结出许多子粒来”来回应,揭示了自己即将面对的受死与复活,也暗示跟随者须走相同“舍己”之路。对世人而言,死亡是终点、失败或消失;但对信徒而言,借着基督之死,我们得着生命的丰盛与永恒。 此“死而后生、舍己就能多结果子”的悖论,也与张大卫牧师在信息中常提到的“救恩轨迹”吻合:首先我们承认自己有限、罪性深重,无法依靠个人能力脱离罪的辖制;但基督的死与复活为我们开了新生命的道路。我们若与耶稣同钉十字架(即在信心中接纳祂的死为我们而死,也让我们旧有的自我死去),则也必与祂同复活,经历“都成了”的果效:罪债偿清,灵魂得以与神和好。 5) “都成了”与不再需要额外的补充:恩典的充足性 在旧约里,为赎罪而设立的各种复杂祭祀、条例、献祭流程,都指向某种“尚未最终完成”的状态。人虽然献了祭,但罪的问题仍会不断出现,需要不断借献祭来遮盖。然而,当耶稣作为“真逾越节羔羊”被钉在十字架上时,祂一次性地“付清”了全人类的罪债,实现了神在救赎方面最圆满的计划。正因如此,“都成了”也可视为宣告说:所有需要的都已满足,人再无须凭着自己的努力或再额外添加什么苦修,去换取拯救。 这一点在教会史上,特别是宗教改革时期,由马丁·路德、约翰·加尔文等神学家多有阐述。他们反对利用赎罪券或教会额外条件去交换救恩,正是因为相信基督在十字架上所成就的全备恩典已经够了。若再用人的功德、行为去添加,无异于质疑或贬低基督的代赎完满性。故而,“都成了”便在教义上也代表着一种对救赎的充分肯定,让信徒不再活在惧怕“自己未够好、未够虔诚、或未够配得救恩”的阴影里,而是活在感恩与自由中。 小主题 3. 借卑微而得高升的主,与走这条路之人的荣耀 张大卫牧师常说:“真正的荣耀是经由十字架得来的荣耀。”此话背后折射出基督信仰中的核心思想:十字架既是卑微、痛苦与死亡的象征,却也是复活、胜利与爱的象征。耶稣透过最悲惨、最羞辱的刑具,彰显了神最崇高的爱与能力,给予世人最大的拯救与生命逆转。 1) “都成了”背后的逆转:十字架与复活的双面性 世界各大宗教文化中,不乏对痛苦、牺牲的敬畏或礼赞,但很少有像基督教这样,将一个极度痛苦的处刑工具变成神学核心。原因就在于基督教宣告:耶稣并非一般的牺牲者,而是作为神子甘愿降卑,为全人类献上自己,并藉此彰显神对罪与死的胜利。从人看这是失败,但从神看却是胜利的开端。张大卫牧师在无数场合提到,“我们若单看十字架的表面,难免痛心,但若看到耶稣复活的结果,就能真正理解十字架在神计划中的崇高地位。” 《马太福音》20章20~23节那段约翰和雅各的母亲向耶稣请求“让我的两个儿子坐在你左右”即显出人对荣耀位置的追逐。然而耶稣严肃回应:“你们能喝我所喝的杯吗?”此“杯”象征着随之而来的苦难、十字架的代价。这一事件告诉我们:若想分享基督的荣耀,就必须和祂同走受苦之路。真正的荣耀不是透过政治或权力的操纵,而是在十字架的舍己中得以显明。 2) 与“都成了”呼应:耶稣在极卑之处仍顺服天父 耶稣在客西马尼园祷告:“父啊,倘若可行,让这杯离开我;然而不要照我的意思,只要照你的意思”(太26:39)。这里表现出祂在面临十字架前的痛苦挣扎,但最终完全顺从天父旨意。顺服到极处是耶稣的标志性特征,也是祂作为“无瑕疵羔羊”的品质体现。当十字架的痛楚临到,祂未曾退缩,也未曾抗拒,而是顺服得以完成受死的使命。待一切都履行完毕后,才说“都成了”。可见,此“都成了”不仅包含事件本身的完成,更象征耶稣对天父顺服的一个极致宣告。 保罗在《腓立比书》2章6~11节中也阐述了这“降卑至死,且死在十字架上;所以神将祂升为至高”的奥秘。基督徒的人生也应效法这种“卑微之道”:先舍己、再被升高;先受苦、然后得荣耀。张大卫牧师多次鼓励信徒:“不要害怕在世界上失去看似重要的东西,因为在神国度里,那些甘愿为主摆上、为主舍己的人,反倒得着无限的祝福与奖赏。” 3) 从十字架出发的服事与改变:团契、社会、个人灵命 如果我们深入思想十字架,就会发现这不仅是一桩神学真理,更是一种生活态度的指引。十字架让我们看到:耶稣舍去了天上荣华,甘愿降世成了贫寒之子;祂拒绝地上政权或魔鬼的试探,选择跟罪人同行,抚摸麻风病人、接纳被社会排斥的税吏与娼妓;最终走向十字架,以最卑微的形象完成了救赎。因此,若我们单单领受救恩,而不愿在生活中效法祂的服事与谦卑,就失却了福音最宝贵的内涵之一。 “都成了”在我们个人生命中的应用在于:1) 我们因信称义,不必再用世俗成就或外在表象证明自己的价值。2) 我们也因此心甘情愿背起各人之十字架,进入牺牲与服事的道路。3) 团契生活或教会事工中,因着十字架的激励,信徒学会彼此相爱、彼此洗脚,不再计较地位或人前的脸面。4) 在社会使命上,基督徒也可凭着耶稣的榜样去怜悯困苦者、抗拒罪恶势力,甚至在必要时牺牲个人既得利益。 4) 终极荣耀:与基督一同复活、进入神的国度 耶稣的受死并非全剧终;三日后的复活才是真正胜利的宣告。若没有复活,十字架只能被看作一位伟大先知或道德榜样的悲壮结束。而复活使“都成了”真正成为“永不改变的得胜”。保罗在哥林多前书15章形容“基督复活是初熟的果子”,我们这些属祂的人也将在末日复活。也就是说,“都成了”不只是过去时,更是一个继续发力、直到末后的应许:耶稣已经胜过死亡,并且祂要带领所有跟随祂的人进入永恒国度。 在此意义上,“都成了”赋予我们极大的盼望。无论人间多么黑暗,无论个人多么软弱,这句话背后永远响着神在历史与将来之掌权。张大卫牧师常引用约翰福音14章1~3节耶稣的安慰:“你们心里不要忧愁……我若去为你们预备了地方,就必再来接你们到我那里去。”这是说,我们现今的寄居是暂时,十字架与复活之工已指明了那永恒家乡的门票是耶稣自己的血,也保证了我们必与祂在荣耀中同在。 5) 实际应用:当我们面对自身“看似终结”的时刻…

  • すべてが成し遂げられた―張ダビデ牧師

    はじめに 十字架の上からイエス・キリストが発せられた最後の言葉の一つとして知られる「すべてが成し遂げられた」(ヨハネ19:30)は、ギリシャ語で「テテレスタイ(Τετέλεσται, tetelestai)」と記されています。この言葉が示す意味は、単なる「終わった」という宣言以上の深さを持っています。商取引の領収書などに押される「完済済み」「支払いが完了した」というスタンプのようなニュアンスを帯び、「完全に支払われた」「すべてが完遂された」といった強い意味合いがあります。張ダビデ牧師は、このイエスの最後の宣言こそ福音の核心を鮮明に示す最も偉大な救いの宣言であると説きます。 しかし、通常の人間の視点からすれば、イエスの十字架の死は悲劇的な結末に見えます。弟子たちは失意の中で散り散りになり、多くの人々は「偉大な預言者」「奇跡の人」と期待していたイエスが、ローマ帝国の非情な処刑法である十字架刑によって最も屈辱的な形で殺された事実に打ちひしがれました。ところが福音書の記者たちは、この悲惨とも言える場面を、「救いのクライマックス」と位置づけるのです。とりわけヨハネの福音書では、イエスの死の瞬間を「勝利宣言」として描き、その言葉を「すべてが成し遂げられた」と明確に示しています。これこそが人間の価値観を超える神の真理の逆説、「敗北のように見える十字架が実は勝利の場所」であるというキリスト教の中心命題といえるでしょう。 以下、本稿では三つの小テーマを通して「すべてが成し遂げられた」の意味を掘り下げていきます。第一に「十字架の絶望の中で宣言された『すべてが成し遂げられた』の意味」と題し、人間的観点では絶望しか見えない場面が、いかに神の救いの完成を告げる瞬間となったのかを探究します。第二に「聖書の預言と救いの完成:ヒソプ、過越の小羊、そして主の血潮」と題して、出エジプト記や旧約における犠牲制度との関連を広げながら、イエスの十字架と血がいかに旧約の預言と一致し、神の救いのドラマを完成させるのかを考察します。第三に「低くなられたことで高くあげられた主と、その道を歩む者の栄光」という視点から、イエスの謙卑と自己犠牲がどのようにして真の栄光となり、またその道を従う私たちにどのような意味と祝福をもたらすのかを見ていきます。最後に総合的なまとめとして、イエスの十字架と復活が示す「すべてが成し遂げられた」の真理をもう一度確認することで、現代に生きる私たちにもなお響いてくる福音の力を再認識する機会としたいと思います。 小テーマ1.十字架の絶望の中で宣言された「すべてが成し遂げられた」の意味 1-1.人間から見た絶望と失敗 イエス・キリストの十字架をめぐる物語は、人間の目から見ると痛ましく、かつ敗北のように映ります。ヨハネ19章をはじめとする福音書全体の証言によると、イエスはローマ帝国に対する政治的反逆者、あるいはユダヤ指導層からは神を冒涜する者として裁かれ、無残にも十字架につけられます。十字架刑は、当時最も過酷で屈辱的とされた刑罰であり、犯罪者や奴隷に適用される形が一般的でした。この刑を執行された者は、公衆の面前で長時間苦しみ、最期は窒息や失血、衰弱によって死に至ります。その姿は「神に祝福されている」とは到底思えず、「呪われた」存在の典型とされました(申命記21:23参照)。 こうした観点からすれば、イエスの十字架上での死は「神の裁きにより見捨てられた証拠」であるかのようにさえ思えます。実際、マタイやマルコの福音書によれば、十字架にかかったイエスを見て、通りすがりの人々や祭司長たちは嘲笑し、「神の子なら自分を救ってみろ」「他人は救ったのに、自分は救えないのか」と言い放ちます(マタイ27:39-42、マルコ15:29-31など)。弟子たちは師を見捨てて逃げ去り、ペテロは三度イエスを知らないと言い、またユダは裏切って銀貨三十枚を受け取った後に後悔し、自ら命を絶ちました。まさに人間的な視点からは、イエスの十字架の物語は絶望しか見いだせないように思われます。 しかし、そのように見えるこの場面を、ヨハネの福音書はあえて「神の救いの完成」として描くのです。張ダビデ牧師が強調する点は、イエスの最期の一言「すべてが成し遂げられた」(ヨハネ19:30)がただの「終わりの合図」ではなく、宇宙的な「成就の宣言」であるということです。たとえ表面的には敗北や死のように映ったとしても、それこそが神の愛の究極的な現れであり、すべての人の罪を贖う力をもつ「完成のとき」だったのです。 1-2.「すべてが成し遂げられた」のギリシャ語と深い意味 ギリシャ語「テテレスタイ(Τετέλεσται, tetelestai)」は、完了形で表される動詞であり、日本語訳で単純に「すべてが終わった」とするよりも、「支払いが完了した」「負債がすべて清算された」といった強いニュアンスを伴うと言われます。商取引の領収や債務の清算時にも用いられる表現であり、「何かが欠けている状態」から「欠けるところが何もない状態」へと移行したことを明白に示す言葉でもあります。 イエスは、ヨハネ19章28節で「すべてのことが成し遂げられたのを知って」と描写され、そこで「渇く」と言われます。そして29節で、人々が酸いぶどう酒をヒソプにつけた海綿をイエスの口もとに差し出し、イエスがそれを受け取ると、「すべてが成し遂げられた」と宣言されます。そしてイエスは頭を垂れて息を引き取られたと記されています。ここでの一連の動作は、旧約の預言(詩編69:21など)が成就されたこと、そしてイエスが神から与えられた使命をすべて完うし終えたことを指し示しています。 張ダビデ牧師が特に説き明かすのは、イエスの十字架上の最期が決して偶発的な悲劇ではなく、神の御心に基づく綿密な計画の頂点だったという点です。「すべてが成し遂げられた」には、イエスご自身の救いの働きがすべて完了したという宣言と同時に、旧約聖書に連なってきた贖罪の象徴や預言の総仕上げという意味も含まれます。すなわち、アブラハムからモーセ、ダビデ、預言者たちへと続く「メシアの到来」と「贖いの完成」を予告してきた一連の言葉が、ここに結実しているのです。 1-3.ヨハネ福音書の独特な描写と「勝利の十字架」 マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書は、イエスが十字架上で最後に大声を上げて息を引き取られたと記しています(マタイ27:50、マルコ15:37、ルカ23:46参照)。それに対しヨハネは、その大声の具体的内容を「すべてが成し遂げられた」の一言で描写する点に特色があります。ヨハネの福音書は全体的に、イエスを「言(ロゴス)」として紹介し(ヨハネ1:1)、地上に下られた神の御子があらゆる奇跡と言葉、そして人々との関わりを通じて「神の栄光」を現わすストーリーとして構成されています。イエスがカナの婚礼で水をぶどう酒に変えた最初の奇跡を「イエスはこれによりその栄光を現された」と説明するように(ヨハネ2:11)、ヨハネにとってイエスの一つ一つの行いや言葉は、単なる歴史的事実以上に「神の栄光の啓示」として位置づけられるのです。 その啓示の最高潮が十字架であり、同時に「栄光の時」でもあるという逆説をヨハネは強調します(ヨハネ12:23「人の子が栄光を受ける時が来た」など)。そして、イエスはヨハネの福音書において、「私が地上から上げられるとき、すべての人を私のもとに引き寄せよう」(ヨハネ12:32)とも語られます。ここに「上げられる」という言葉は、十字架につけられるという意味と同時に、天的な高挙のイメージを重ね合わせている、と多くの解釈者が指摘しています。罪人を呪いの刑罰として処刑する十字架が、神にとっては全世界への救いの招きとなる――ここにこそ神の逆説的な栄光があるわけです。 張ダビデ牧師は、この点を「イエスが十字架の絶望の只中で宣言された『すべてが成し遂げられた』とは、真の勝利宣言である」と呼びます。人々に嘲笑され、弟子たちに見捨てられ、ローマ兵に打たれ、釘付けにされるという悲惨な状態の中で、イエスは「失敗したのではなく、完成した」と語られる。これはキリスト教が古来から「十字架の神学」と呼んできた核心そのものであり、すべての信仰者にとっての希望の源泉なのです。 1-4.エマオ途上の弟子たちと「絶望の解消」 十字架を見て絶望したのは、当時のユダヤ人やローマ兵だけではありませんでした。ルカの福音書24章に記されるエマオ途上の二人の弟子たちは、師として慕っていたイエスが処刑されたことにショックを受け、失意のままエルサレムを離れていきます。彼らは「私たちはこのイエスこそイスラエルを解放してくださると望みをかけていたのに」と語り、イエスをメシアとして信じていた期待が裏切られたと感じていました。 しかし復活されたイエスは、その二人の前に現れ、旧約の律法と預言書を解き明かしながら「キリストが苦しみを受け、栄光に入ることは当然ではなかったのか」(ルカ24:26参照)と問いかけます。つまり、十字架の苦難こそが救いのプロセスに欠かせない要素であり、メシアが民を贖うために流された血が旧約全体の成就であることがここで示唆されるのです。これを理解したとき、弟子たちの心は「燃え上がるようになった」と描かれており(ルカ24:32)、結局彼らは再びエルサレムに戻って「主は確かに復活された」と証しする証人となりました。 このエピソードは、私たちがしばしば人生の試練や失敗において「神はどこにおられるのか」「こんな苦しみは神の御心に反するのではないか」と思うときに、一つの道を示唆します。すなわち、表面的な絶望の背後に、神の壮大な救いの計画が進行していることを信じる信仰です。十字架が最悪の結末に見えたとしても、その十字架が「すべてが成し遂げられた」と宣言された完成の時であったように、神のご計画は私たちの想像を超えて働くことがありうるのです。 小テーマ2.聖書の預言と救いの完成:ヒソプ、過越の小羊、そして主の血潮 2-1.ヒソプと過越の祭りの背景 ヨハネの福音書19章29節には、十字架上のイエスに酸いぶどう酒を含ませるために、「人々は酸いぶどう酒を含ませた海綿をヒソプに付けてイエスの口元に差し出した」という記述があります。ここで登場する「ヒソプ(英語ではHyssop)」は、旧約聖書出エジプト記12章において、イスラエルの民がエジプトから脱出する直前に行われた過越(すぎこし)の祭りの場面で重要な役割を果たした植物として知られています。すなわち、子羊の血を戸口の柱と鴨居に塗るとき、ヒソプの枝が用いられた(出エジプト12:22)という記述があるのです。 過越の祭りは、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民が、モーセに導かれて解放される決定的な出来事において、神がエジプトの全ての長子を撃たれた時、「子羊の血が塗られた家」を過ぎ越したことを記念しています。ここで犠牲とされた子羊は「過越の小羊」と呼ばれ、その血が死の災いを防ぐ守りとなりました。これは旧約聖書全体を通して「神の贖いの象徴」として繰り返し示されるモチーフです。 ヨハネ福音書があえて「ヒソプ」という言葉を用いていることは、単なる偶然ではありません。イエスの死を過越の小羊の死になぞらえ、旧約における「血による救い(死からの解放)」をイエスの血と結びつける意図が明確に読み取れるのです。張ダビデ牧師はこの点を「イエスが流された血は、旧約時代の過越の血の究極的な完成を意味する」と解説します。すなわちイエスこそが真の過越の小羊であり、その血潮によって罪が赦され、死が過ぎ越される道が開かれる――これがヨハネ福音書の神学的構造の核心です。 2-2.過越の小羊としてのイエス ヨハネ1章29節において、バプテスマのヨハネがイエスを指し示して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊!」と宣言する場面は有名です。ヨハネはイエスを「神の小羊」と呼び、「世の罪」を取り除く存在だと明言します。ここでも「子羊」のイメージは、旧約における犠牲や過越の子羊を連想させます。旧約聖書の贖罪制度では、罪を犯した人々が罪の赦しを得るために、傷のない動物(子羊や山羊など)を祭司にささげ、その血をもって贖罪を行う必要がありました。特にレビ記や民数記には、罪の赦しのための動物犠牲が繰り返し説明されています。 しかし、それらの動物の犠牲はあくまで一時的な措置であり、人間の罪を最終的に取り除くには至りません。預言者イザヤはイザヤ書53章で、「苦しみのしもべ」と呼ばれる存在が、自らの血をもって多くの人の罪を負うメシア的イメージを示唆しました。このメシア的「しもべ」は、屠り場にひかれていく子羊のように口を開かず、彼の打たれた傷によって私たちは癒される(イザヤ53:5-7参照)という、極めて象徴的な預言を残しています。 イエスはこの「子羊」のイメージを完全に身にまとい、人類の罪を代わりに負う究極の犠牲となられた。ヨハネ福音書だけでなく、パウロやペトロの書簡にも「キリストは私たちの過越の小羊」としてほふられた、あるいは「傷も汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によって贖われた」という表現が出てきます(1コリント5:7、1ペトロ1:18-19など)。これらはすべてイエスの十字架上の死が、旧約の贖罪制度をはるかに超えた最終的で完全な犠牲として、私たちを罪と死から解放する力を持つことを指し示します。 2-3.血と水:完璧な愛の注ぎ出し ヨハネ19章34節には、ローマの兵士が死を確かめるためにイエスの脇腹を槍で突いたところ、「血と水が流れ出た」という有名な記述があります。この場面をめぐっては神学的にも医学的にも多くの議論がありますが、古来より多くの教父や解釈者が「血と水」をそれぞれ贖罪の血、または洗礼や聖霊を象徴するものとして捉えてきました。とりわけ、イエスの十字架の死によって流された血が「贖い」の働きを表し、水が「清め」や「再生」を象徴するという解釈がなされることが多いとされます。 張ダビデ牧師は、この血と水が流れ出る描写を「罪人のために最後の一滴までご自分を注ぎ出された神の愛の極み」として受け止めます。キリスト教の伝統においては、イエスが十字架でただ死を迎えただけでなく、あらゆる痛みや苦しみを引き受け、かつ最期の一瞬まで愛のゆえにご自分を惜しみなく注ぎ尽くしたと考えます。それは、ヒソプにつけられた酸いぶどう酒を受け取られた場面とも呼応しますが、イエスは自分のためというよりも、旧約の予言を成就し、すべての義を完全に満たすためにその行為を受け入れたと理解できます。 聖書の他の箇所でも、水と血がキリストの贖いと清め、または聖霊の働きと直接結びつけて言及されることがあります(たとえば1ヨハネ5:6-8など)。神学的には、イエスの死によって流された血こそが罪の代価を支払うものであり、その血を信じる者は罪の赦しと清めを得て、神の子としての新しい命に入るという教えが中心的です。つまりイエスの血は、まさに出エジプト記12章の過越の小羊と同様に、「死を過ぎ越す」ための印となるわけです。 2-4.「一粒の麦」の逆説と十字架の必然性 ヨハネ12章24節でイエスは、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままであるが、もし死ねば多くの実を結ぶ」と語り、ご自分の死が多くの命を生み出すために不可欠だと暗示されます。実際、この箇所ではギリシャ人たちがイエスを訪ねてきた際に、イエスは「人の子が栄光を受けるときが来た」と宣言し、同時に「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者はそれを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12:25)とまで言われます。これは「死を通じてこそ新しい命が誕生する」という逆説的な教えであり、イエスご自身が十字架によって死に渡されることを預言していると読めます。 また張ダビデ牧師は、この「一粒の麦の死と多くの実」という逆説こそが、イエスの十字架を理解する根本の枠組みだと説きます。すなわち、「すべてが成し遂げられた」という言葉は、イエスが人間の罪と死を引き受けるために、そのご自身の命という“種”を「死」に落とされ、やがて復活を通して多くの実(救われる者たち)を生み出すことが成就されたという意味を持ちます。もしイエスが死ななければ、そのまま「偉大な教師」や「奇跡を行う預言者」として記憶されたかもしれませんが、人間の罪を根本的に贖い、死の力を打ち破るためには、十字架による血の犠牲が不可欠だったというわけです。 この原理は、私たちの日常生活や信仰生活にも応用可能です。私たちは多くの場合、自分の成功や幸福を第一に考え、それを失うことに大きな恐れを抱きます。しかしイエスは、「本当に生きるためには、一度自分を捨て、十字架を負う必要がある」と教えられます。これはイエスの弟子としての歩みを示すだけでなく、信仰全体のパラドックスを象徴する教えでもあります。「死によって命が生まれる」という神の逆説は、ヒソプと過越の小羊に表された血の象徴的メッセージと同様に、イエスの福音の核心をなすのです。 小テーマ3.低くなられたことで高くあげられた主と、その道を歩む者の栄光 3-1.イエスの謙卑と自己犠牲の極致 ピリピの信徒への手紙2章6-11節(通称「キリスト賛歌」)は、イエス・キリストの自己卑下とそれに続く高挙について象徴的に描写する重要な箇所です。そこでは、キリストは神の身分でありながらそれに固執することなく、むしろ自らを無にしてしもべの姿を取り、人間の姿をもって世に来られたと語られます。さらにへりくだって死に至るまで従順であり、それも十字架の死にまで従順であられた。そのため神は彼を高くあげ、すべての名にまさる名を与えられた、と続きます。 ここに示されるのは、「神が神としての権威を誇示する」のではなく、「神がへりくだる」という驚くべき逆説の真理です。イエスが十字架で「すべてが成し遂げられた」と宣言されたとき、そこには神の謙遜と愛が究極の形で現れています。張ダビデ牧師が繰り返し強調するのは、イエスの十字架が神の計画の事故的な結果ではなく、イエスご自身が「あえてその道を選ばれた」結果である点です。イエスはゲッセマネの園で祈られ、「この杯を取りのけてください。しかし、わたしの望むようにではなく、みこころのままに」と言われました(マタイ26:39など)。そこに垣間見えるのは、人間的な苦痛や死の恐れを超えて、神のみこころに従うイエスの決断です。 十字架は人間的には「最も卑しい場所」ですが、神にとっては「最も尊い場所」となりました。その意味で「低くなられたことで高くあげられた主」というフレーズは、単に比喩的な表現ではなく、実際に神の力が働いた歴史的かつ超歴史的な出来事を示すものなのです。 3-2.弟子たちへの問い:「その杯を飲めるか」 マタイの福音書20章20節以下には、ゼベダイの息子ヤコブとヨハネの母が登場し、自分の息子たちをイエスの右と左に座らせてくださいと願うシーンがあります。おそらく彼女は、イエスがメシアとして地上の王国を打ち立てるときに高い地位を得させてほしいという野心的な望みを抱いていたのでしょう。しかしイエスは、「あなたがたは、わたしが飲もうとする杯を飲むことができるのか」と問い返されます。ここで言う「杯」とは、十字架の苦難を指すとされています。 人間はしばしば、栄光や名誉を追い求め、その裏にある苦難や犠牲からは目を背けようとします。しかしイエスの教えは、栄光は苦難と表裏一体であること、そして神の国の価値観は人間の功名心とは全く異なる原理に基づいていることを示しています。イエスは「あなたがたの間で偉くなりたい者は、仕える者となりなさい。いちばん上に立ちたい者は、いちばん下のしもべになりなさい」と繰り返し教えられました。イエスが「人の子が仕えられるためではなく、仕えるために来た」と言われたとおり(マタイ20:28)、神の国における偉大さは、自己犠牲と奉仕によって証しされるのです。 張ダビデ牧師は、ゼベダイの息子の母親が最初はこうした世的な栄光を求めたが、最終的には十字架のそばにいた女性たちの一人として名を連ねている点に注目します(マタイ27:56やマルコ15:40などを総合すると、そこにヤコブとヨハネの母らしき人物がいる)。これは人間の野心や名誉欲が砕かれ、イエスの苦難を共有する道へと招かれた結果として理解できる、象徴的な場面です。イエスのそばに最後までいた女性たちは、決して高い地位や称賛を得たわけではありませんが、イエスの最も苦しい時に寄り添い、その死の瞬間を見届ける特権を得ました。ここには「低くなることで本当の意味でイエスと共にいる」という大切なメッセージが込められています。 3-3.「自分を捨てる」とは何か イエスは、弟子になるために「自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と命じられました(マタイ16:24など)。これは、文字通り身体を痛めつける苦行や、自己嫌悪に陥ることを促すものではありません。むしろ、自らの罪深さや傲慢、自己中心性を認め、神のみこころと他者への愛に生きる姿勢へと方向転換する行為といえます。イエスが示された十字架の道は「自己卑下」で終わるのではなく、そこで「すべてが成し遂げられた」と宣言する勝利への道だからです。 「自分を捨てる」という言葉は、しばしば人々に誤解を与えるかもしれません。何もかも諦め、無我の境地になるとか、自分の一切の欲望を排除することだと捉えられることがあります。しかしキリスト教的な文脈での「自分を捨てる」とは、より正確には「罪に死ぬ」と言い換えることもできます。神に背を向け、自己の栄光を求める“古い人間”のあり方に死んで、イエスが示したように神と隣人への愛に生きる“新しい人”として生き直す――これが「自分を捨てる」本質です。 このプロセスは苦痛を伴う場合もありますが、イエスの十字架を見上げるとき、そこには「神が命じること以上のものをイエスがすでに引き受けてくださった」という安心感、そして「結局はすべてが成し遂げられた」という完全な救いの保証が与えられます。ゆえに、クリスチャンの霊的な歩みには、自己否定や鬱々とした罪悪感よりも、「罪はイエスによって処理された。私は感謝と喜びをもって神に従える」という解放感が勝っているのです。 3-4.低くされた者が受ける栄光 イエスは、「わたしが地上から上げられるとき、人々をすべてわたしのもとに引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と語られました。十字架刑は本来、犯罪者を恥ずかしめ、地面から吊るし上げて晒し者にすることで社会から完全に排除する手段でした。ところが、イエスはその「吊し上げられる」場を、人類救済のための「神の愛の展示」として用いられたのです。まさにへりくだりの極みが、同時に神の栄光を最も高く掲げる場へと転換されたわけです。…

  • IT IS FINISHED” – PASTOR DAVID JANG

    INTRODUCTION Few moments in human history have carried such profound weight as the final scene of Jesus Christ on the cross. Among the seven final sayings of Christ recorded in the Gospels, the phrase “It is finished” (John 19:30) stands out not only for its brevity but also for its cosmic significance. In this declaration,…

  • ODO SE HA CUMPLIDO – PASTOR DAVID JANG

    Introducción La frase “Todo se ha cumplido” (en griego, Tetélestai) figura entre las expresiones más relevantes de la historia cristiana, en la cual encontramos la culminación de la obra salvífica de Jesús en la cruz. El Evangelio de Juan (19:30) presenta estas palabras como las últimas que Jesús pronuncia antes de entregar el espíritu, pero su…

  • Revêtez-vous de l’armure complète de Dieu – Pasteur David Jang

    Introduction Le passage d’Éphésiens 6, à partir du verset 10, peut être considéré comme le point culminant des précieux enseignements de Paul adressés à l’Église, alors qu’il se trouvait en prison. Ce texte commence par l’expression « Pour conclure » et contient l’exhortation finale qui applique dans la vie pratique toute la doctrine et l’éthique présentées auparavant.…

  • 要穿戴神所赐的全副军装——张大卫牧师

    引言以弗所书第六章第10节往下的经文,可被视为保罗在狱中写给教会之宝贵教导的最高潮。该段经文以“我还有末了的话”(有些译本作“最后”或“总而言之”)开篇,汇聚了他此前所有教义与伦理内容,并将之与信徒的实际生活相联结成为最终劝勉。在“要在主里靠着他的大能大力作刚强的人”这一句话里,保罗点明了基督徒在信仰道路上不可忽视的真理:唯有依靠主的大能,才能在属灵争战中得胜。 当时,以弗所这座城市的背景极为复杂:希腊文明、罗马帝国主义,以及多神崇拜的混合宗教文化都在此交织。面对这种环境,以弗所教会虽只是个小小群体,却要坚守信仰与圣洁,就必须认清无形之敌的攻击,并掌握与其对抗的“技术”。因此,保罗在此提出属灵争战的重要教导,强调要“穿戴神所赐的全副军装”来抵挡魔鬼的诡计。 张大卫(Olivet大学)牧师是一位长期关注如何将以弗所书应用于现代教会实际的牧者兼神学者。他时常提醒众人要正视撒但和魔鬼——这看不见之敌的真实存在,并主张唯有在教义与伦理上同时持守真理,教会才能在灵性上得以完全。他在讲道或演讲中常说:“当撒但的真面目被揭示时,它就会逃跑。”这足见他对“分辨属灵实在并采取相应对策”的高度重视。 同时,张大卫牧师也多次强调,以弗所书全篇结构充分展现了教义与伦理的紧密相连,并呼吁当代教会认真思考如何真正落实这段经文。基于此,他对牧会提出了一系列愿景。本文正是以“张大卫牧师”为核心关键词,按照三大主题来整理其关键教导:第一部分阐述属灵争战与“看不见的敌人”的概念,以及撒但、魔鬼如何有组织地攻击信徒;第二部分讨论教义与伦理的整合,以及教会在其中应承担的角色;第三部分则聚焦他所提出的具体实践对策,包括穿上神所赐的全副军装、祷告、话语与圣灵工作等在现实中的运用。透过这三个主题,读者能更全面地理解为何以弗所书六章10节往下的经文至今仍对教会与信徒极具意义,也能看出张大卫牧师为何长期通过这段经文教导属灵争战的实在性与应对之道。 I. 认识属灵争战与“看不见的敌人”首先,需要关注以弗所书六章10节里“我还有末了的话”这一短语的深意。保罗在信中已展开了深邃而完整的教义:从基督里的救恩奥秘,到教会的宇宙性地位,再到信徒的伦理生活。如今他即将收尾,于是嘱咐:“要在主里靠着他的大能大力作刚强的人。”也就是说,先前一切教义的真正果效,要在信徒的实际生命里彰显出来才算关键。 以弗所信徒的日常生活中,常遭遇属灵层面的混乱和挑战。《使徒行传》记载了以弗所偶像崇拜的严重程度,其他历史资料也显示当地盛行各种巫术与迷信。保罗留意到,在这环境中,教会的最大难题在于“必须跟那看不见的敌人交战”。他将这敌人称作魔鬼或撒但,并以“魔鬼的诡计”提示其运作的缜密性。 张大卫牧师指出,如今社会也并无本质上的不同。科学技术发达,信息爆炸的时代,似乎让人不太容易再轻信“鬼神迷信”,但实则撒但的势力以更“巧妙”方式在暗中掌控。他说:“撒但最常用的手段,往往借助唯物主义、人本主义和享乐主义等当代主导的思潮与文化潜入人心。它不一定以肉眼可见的方式出现,却能在人内心和各种生活层面悄然搅动。” 以弗所书六章12节里保罗强调“我们并不是与属血气的争战”,说明当前的冲突并非人与人之间的对立,而是一种更高层次的属灵争战。保罗将对手概括为“执政的、掌权的、管辖这幽暗世界的,以及天空属灵气的恶魔”。对于这段经文,张大卫牧师常细分为三大面向,他提到:“‘执政的’(principalities)有时又译作‘空中掌权者’,是撒但势力中地位最高的首领;‘掌权的’(powers)则是其下层组织,负责在不同领域具体施力;‘管辖这幽暗世界的’,指借助各种文化、制度与思想形态在世上活跃的黑暗势力;而‘天空属灵气的恶魔’则在无形的灵界联手作工,企图分化圣徒并引人犯罪。” 耶稣在“撒种的比喻”里也提到,当好种撒下后,仇敌随即撒下败子,干扰庄稼生长。张大卫牧师援引这比喻,指出:“教会传福音、行善、传讲真理时,撒但总会同时撒下假象的‘败子’。从外面看似相近,却暗藏使人不能结果子的策略。”换言之,魔鬼的诡计极为狡猾,有时透过不信、怀疑或分裂等方式,引诱信徒彼此揭短,互相攻击。 对此,张大卫牧师呼吁:“虽看不见这敌人,但我们能清楚观察到它带来的负面影响,要懂得分辨并直面。”他用“小偷”的比喻来说明:“小偷先是偷偷潜入,翻箱倒柜;若毫无所获,他也许会破坏一通。可一旦他的行迹被揭穿,就不易再行偷窃。同理,魔鬼的伎俩被曝光,且信徒敢于抵挡,它就会退却。” 在路加福音第10章,耶稣差派七十个人出去传道,他们回来说:“主啊,因你的名,就是鬼也服了我们。”耶稣回应:“我看见撒但从天上坠落,像闪电一样。”这表明耶稣已拥有压制撒但的权柄,并将此权柄授予门徒。张大卫牧师在讲道时解释:“耶稣已挫败撒但的权势,因此我们也能奉主名坦然前行。可惜许多信徒仅在头脑中知道这点,却缺少切身的经历与应用。” 在他常用的宣讲中也提到:“福音乃‘euangelion’,即凯旋的喜讯。战争其实已在基督里打赢,我们如今的责任是去宣告并让这得胜在现实里被落实。”以弗所书一章20节往下,保罗论及神叫基督从死里复活,使他坐在天上,远超一切执政掌权者,且赐下超乎万名之上的名。张大卫牧师将此视为“对那看不见之敌的致命性胜利”。基督既复活,我们也在他里头,这一场争战在本质上已注定会得胜。 以弗所书里,保罗提到“教会在基督里合一,并且成为充满万有者所充满的”,意味着我们因归属基督而在灵里身居高位。问题在于,多数人要么未真正明白,要么即使明白也未身体力行。谈及属灵争战的实质与已得胜的根基时,张大卫牧师必定同时强调“教会层面”的重要性。他坚信,属灵争战决非个人孤军奋战,而是一场需要教会整体同心合意、共同武装起来的战斗。 II. 教义与伦理的整合,以及教会的角色以弗所书的一大特色,是将教义与伦理紧密结合。从1—3章的救恩论、教会论、宇宙性基督中心论,到4—6章对信徒生活的实际引导,整卷书形成了一个“从身份到使命”的完整思路。张大卫牧师称之为“身份与使命的结合”,强调只有先明白“我们是谁”,才能活出与此身份相称的生活样式。 部分重视教义的信徒可能停留在知识层面,却缺少生命的实际转变;而部分重视伦理的信徒或许缺少正统教义支撑,而沦为行为主义或单纯的道德主义。以弗所书提醒人们切忌走极端:“真正的教义一定在伦理生活中结果子,而真正的伦理也必须泉源自健全的教义。” 在六章13节往后,保罗提出了“神所赐的全副军装”这一经典概念:真理的带子、公义的护心镜、平安福音的鞋、信心的盾牌、救恩的头盔和圣灵的宝剑——神的道。张大卫牧师诠释时,总指出这些象征背后,既蕴含深沉的教义根基,也需要在实际伦理行为中予以践行。 例如,他说:“真理的带子宣告耶稣基督是真理的教义根基,同时呼唤我们在日常伦理中抓紧神的话,远离虚假。公义的护心镜则建基于基督借十字架赐给我们的义,但也要求我们真正在生活里行公义、守诚信,才能使内心被保护。” 类似地,他对平安福音的鞋之解释,也是将福音作为教义基础;但要穿上“鞋”便意味着走出舒适区去传福音,这是伦理的实践面。信心的盾牌既指向“相信耶稣基督是唯一救赎主、不因环境动摇”的教义,也包括在现实生活里抵挡疑惑与不信之“火箭”的行动。至于救恩的头盔,则是“因信称义与得救确据”的教义加上思维与言行上活出得救生命的伦理。 圣灵的宝剑——神的道,更是结合“承认圣经真理”的教义与“用话语击破撒但谎言”的实际操作。张大卫牧师强调,要真正穿好这全副军装,教会须进行“共同体的装备”。倘若只是一部分人装备完善,而另一些人却毫无防护,群体整体依旧容易被破口击溃。 因此,教会需合力穿戴军装。举例而言,若教会要守护真理,就该重视教义培训;同时,也要确保每位成员在工作和人际互动中尽力践行真理。若有人熟知教义却不实践,便成为教会的软肋;若有人积极服事却缺乏教义根基,遭遇深层试探或异端时便易倒下。故全副军装并非只属于个人,而是整个教会一起前行的装备方式。 保罗在以弗所书四章提及“他所赐的,有使徒、先知、传福音的、牧师和教师,为要成全圣徒,各尽其职,建立基督的身体”,正为“群体装备”提供了基础。教会里各种恩赐和职分需彼此搭配,才能使教会更臻完善。张大卫牧师常将此视为“教会如同属灵军队”的重要比喻。 以弗所书有关“教会合一”的信息,在第六章进而落实为“教会合力成为军队、共同争战”的画面。旧约《以西结书》第37章的枯骨复活成为极大军队,以及《约珥书》中神的军队兴起的场景,都提到当“各骨归位、筋络相连”时,就能形成一支不可阻挡的军队。张大卫牧师认为,这些旧约的图景与今日教会若要复兴并同心武装、进军世界的景况不谋而合。 以弗所书强调的“教会在基督里合而为一”并非停留于内部关怀与相互鼓励,也包括“走向世界”的使命。教会要进入社会传扬福音,释放被魔鬼掳走的人,并将光带入黑暗掌控的领域。正因此,保罗吩咐“要抵挡并站立得住”,是要教会振作起来,对抗暗黑势力,而非消极防御。 张大卫牧师也在此处指出:“教会的日常职能、社会责任和宣教使命,其实就是属灵争战的主要战场。”例如,教会关怀社区、扶持弱势、质疑不公正制度,这些都可视作一种属灵争战。因撒但常借人类的罪与贪婪掌控世界,而当教会坚守正确教义并活出爱与公义时,便在实质上动摇黑暗秩序,让神国的治理在地上彰显。 总的说来,以弗所书所展现的教义与伦理智慧,为我们抵挡那看不见之敌提供了根基。唯有在教会彼此扶持的群体装备中,并在走向世界的实际使命中,这根基才算真正稳固。下文第三部分,将更具体探讨张大卫牧师在现代教会中,如何落实现有教义、伦理和教会合一的理念,带领信徒在日常里操练并进入属灵争战。 III. 张大卫牧师所提出的信徒实践对策在以弗所书六章18节,保罗在列举完“全副军装”之后,接着说“靠着圣灵,多方祷告祈求”,突显了祷告在属灵争战中的决定性地位。张大卫牧师常讲:“一切最终都要落实在祷告上。”换言之,祷告并不只是维系个人宗教操练的方式,更是决定属灵争战成败的关键策略。 他提倡的祷告包含个人灵修,也包括教会合一的群体祷告。长久以来,教会里诸如周五祷告会、通宵祷告、特别晨更祷告等,一直在实践此道。张大卫牧师解释,这些祷告聚会仿佛属灵争战的前线;当信徒们同心合意地祷告,魔鬼的伎俩就易被识破,而整体也能联手抵挡。他说:“个人祷告至关重要,但若教会同心祷告,更能释放强而有力的属灵能量。” 他还强调祷告的具体内容。不是只聚焦个人需要或问题求解,而是带着真诚感恩、悔改,以及求神赐分辨力。当撒但的诡计仍被隐藏时,教会易陷入内耗或分裂;但若在祷告中经圣灵开启,认清魔鬼的企图,人们就能更有效地加以抵挡。 研读神的话语与敬拜同样是张大卫牧师反复强调的实践重点。保罗在讲“全副军装”时特别提到“圣灵的宝剑——神的道”,而要灵活运用这把宝剑,就需在日常中深入地读经、默想、研讨和背诵。张大卫牧师举例:“耶稣在旷野受试探时,一再引用‘经上记着说’来回击魔鬼。若我们对经文毫不了解,又何谈用真理对抗谎言与诱惑呢?” 鉴于此,他推动信徒在周间自发性地阅读经文并默想,也鼓励教会开设门徒训练和查经班,使信徒得以系统化地装备。敬拜聚会则提供团体层面经历圣灵同在、集体解读神话语并操练应用的机会。惟有当敬拜不再流于形式,而成为圣灵真实浇灌的场域,教会才能在属灵争战里具备坚固后方。 门徒训练与群体操练也是不可或缺的一环。以弗所书四章所述,“神赐各类职分为要成全圣徒、建立基督的身体”,本就是让信徒明白属灵争战不是一个人的战斗。只有在彼此关顾中查漏补缺、用代祷彼此扶持,群体才能成熟成长。 张大卫牧师常将门徒训练比作“士兵的军事训练”,好比士兵须经历高强度考验,信徒也要通过经文学习、祷告、敬虔操练和实际服事,来历练全人生命。在此过程中形成的属灵领导力,会延伸到各自家庭、职场、校园等地,使他们在各处都能“打属灵之仗”。 被圣灵充满与保持敬虔同样是张大卫牧师屡次提及的要点。他指出,无论旧约先知还是新约使徒,皆借圣灵大能来事奉与得胜。若离开圣灵,人的才智与力量不足以战胜黑暗,因此要先悔改并降服于主,好让圣灵在心中自由运作。若信徒继续纵容罪恶,口头上喊“我已穿戴军装”也不过是自欺,魔鬼不会惧怕。唯有真心渴慕圣洁、持续悔改,将整个人交托于圣灵掌管,穿戴全副军装才具实质意义。 他特别强调“在教会历史上的每次复兴,皆与神的话语与祷告的复兴相伴”,当信徒操练敬虔,常常认罪悔改、敬畏主,圣灵便大能降临,不仅改变教会,也影响更广的社会层面。 当然,属灵争战绝不止步于教会内部。教会穿戴好全副军装后,注定要走进世界。不该让以弗所书六章讲的“军装”仅被理解为教会内部的装备。张大卫牧师提醒说:“真正的战场在教会之外。魔鬼透过社会结构、文化与各种诱惑要吞噬人心。就像耶稣当年差派门徒进到世界中,如今教会也要被差派出去。” 他也强调,这既关乎宣教与传福音,更关乎对社会正义和关怀的责任。在其教导中,爱心实践或对社会议题的回应,绝不仅是单纯的“善行”,而是继续扩展神国度的统治,这正是属灵争战的延续。比如教会关怀贫穷与被边缘化群体,或抵抗不公义制度,或维护神所创造的自然环境,这些行为本质上都是在瓦解撒但用人性罪性和贪婪筑起的防线。张大卫牧师总结:“穿戴全副军装的信徒,不应只是待在教会里敬拜而已;从周一到周六,要在社会上彰显福音,关怀他人,拆穿撒但的谎言。” 因此,总结说来,以弗所书六章10节往下的属灵争战启示给了我们两点:其一,耶稣基督已在根本上赢得了胜利;其二,我们如今仍需面对撒但的诡计,而只有藉着教义与伦理的结合、教会群体的合力与圣灵的同在才能得胜。张大卫牧师多年来透过讲道、着作和各类研讨会不厌其烦地阐明这一点。 他的信息主旨可归纳为:“要对那看不见的敌人有充分认知,却无须害怕;因为基督胜利已定。只要教会在真道与爱心上合一,穿戴好全副军装,就能得胜。把教义与伦理落实到敬虔生活里,借祷告与圣灵得力量,然后走入世界彰显福音大能。” 他的教导与以弗所书所强调的“教会在基督里的荣耀”及“实践于世界”的核心线索相当吻合。保罗在一世纪谈属灵争战,张大卫牧师就在二十一世纪延续这一信息,时代虽异,然而圣经的真理始终不变。 最终,必须警醒:看不见的敌人确实存在,潜藏于人心、家庭、社会结构乃至文化思潮之中。更要紧的是,耶稣基督已借死里复活击败撒但,并召教会进入他的得胜。让这份胜利在日常生活中被宣扬与活化,便是属灵争战的重心所在。我们不应向魔鬼的诡计屈服,而要穿戴全副军装,合一祷告敬拜,以爱与公义击溃黑暗权势。 当教会作为基督的身体,与神同工以更新世界、使神的国降临,便真正回应了以弗所书六章10节往下对今世的呼唤。也正如张大卫牧师多年所阐释的,这些教导绝非纸上谈兵,而是实实在在与现代牧会现状相结合,能改变无数信徒的灵命与生活。 让我们怀揣属灵争战的信息继续前行:以谦卑的心态穿戴军装,在祷告与神的话语中刚强起来,用爱的实践将光带进黑暗之地。若越来越多的教会因而成为“基督的军队”,撒但原先盘踞的领地便会日渐缩小,其计谋也难以奏效。此正是以弗所书的精髓,亦是张大卫牧师毕生忠心传扬的事奉核心。愿我们都能明白并活出这一呼召。阿们。

  • 全身の武具を身に着けよ – 張ダビデ牧師

    序論エペソ書6章10節以下の箇所は、パウロが獄中で教会に宛てて書いた尊い教えの到達点ともいえる部分である。本書簡は「終わりに」という言葉で締めくくられ、これまでに示された教理と倫理を実生活へどのように適用するかという最終的な勧めが含まれている。パウロは「主にあって、その偉大な力によって強められなさい」という一文を通して、クリスチャンが信仰生活で必ず押さえるべき一点に言及する。すなわち、ただ主の力により頼むことでこそ、霊的戦いに勝利できるという事実である。 エペソがあった当時の時代背景は、ヘレニズム文明、ローマ帝国主義、そして多神教的な宗教文化などが交錯した非常に複雑なものであった。そのような環境で小さな共同体にすぎなかったエペソ教会が信仰と純潔を守るには、目に見えない敵の攻撃を認識し、それに対抗する術を身につけねばならなかった。そこでパウロは霊的戦いについて説明し、「悪魔の策略に対抗するために神の全身の武具を身に着けなさい」と強調している。 張ダビデ(장ダビデ、オリベット大学)牧師は、このエペソ書の本文を現代教会に応用することを長年にわたって強調してきた牧会者・神学者である。彼はサタンや悪魔――すなわち目に見えない敵――の正体を明らかにし、教理と倫理の両方を堅持してこそ教会は霊的に健全になると説いてきた。彼の説教や講演でしばしば耳にする「サタンの正体が暴かれる瞬間、彼は逃げ出す」という一文からも、霊的実体の識別とそれへの対処をいかに重視しているかがわかる。 同時に張ダビデ牧師は、エペソ書全体が示す「教理と倫理の密接な結びつき」という構造を繰り返し指摘しながら、今日の教会がどうこの御言葉を具体化していくべきかという牧会的ビジョンを提示してきた。本稿では、彼の核心的な教えを三つの主題に整理して考察する。第一の主題では、霊的戦いと「目に見えない敵」という概念、そしてサタンと悪魔がいかに組織的に活動して信徒を狙うかを見ていく。第二の主題では、教理と倫理の統合と、それを体現する教会の役割を論じる。第三の主題では、張ダビデ牧師が提案する具体的な実践――神の全身の武具の着用や祈り、御言葉、聖霊の働きなどが現実の中でどう機能しうるかを探究する。これら三本の柱を通じて、エペソ書6章10節以下がなぜ現代の教会と信徒にとって意義深いのか、そしてなぜ張ダビデ牧師がこの本文を用いて長年にわたり霊的戦いの重要性と対処法を説き続けてきたのかを、より深く理解できるであろう。 I. 霊的戦いと「目に見えない敵」の理解まずエペソ書6章10節が始める「終わりに」という言葉の意味を考えたい。パウロはこの書簡で、キリストにおける救いの奥義、教会の宇宙的次元、さらに信徒の倫理的生活へと深い教理を展開してきた。そして総仕上げの段階に入り、「終わりに言う。あなたがたは主にあって、その偉大な力によって強められなさい」と命じる。これは、それまでの教理的な教えが実生活でいかに力を発揮するかが重要である、ということを示している。 エペソ教会の信徒は、霊的混乱や様々な挑戦に日々直面していた。『使徒の働き』を見ると、エペソが偶像崇拝の盛んな場所であったことがわかり、迷信や呪術がはびこる土地柄であったことも複数の史料から確認できる。パウロはこうした環境下で教会が抱える深刻な課題、すなわち「目に見えない敵と戦わねばならない」という事実に注目した。彼はこの敵をサタンや悪魔と呼び、「悪魔の策略」という表現で、その狡猾な作戦がどれほど巧みに働くかを示している。 張ダビデ牧師は、現代社会も本質的には変わらないと主張する。科学技術が発展し、情報が氾濫する時代を生きる私たちが、もはや鬼や迷信に簡単に動揺しないように見えても、実はもっと巧妙に作用するサタンの力があるのだという。「サタンが主に用いるのは、物質主義や人本主義、快楽主義など、現代を支配する思想や文化を通しての侵入である。彼は目に見える奇跡的現象を起こさずとも、私たちの内面や生活の様々な領域を揺さぶる」と彼は指摘する。 エペソ書6章12節でパウロは、「私たちの戦いは血肉に対するものではない」と強調した。つまり今繰り広げられている戦いは、人間同士の対立や政治的争いなどにとどまらず、もっと高次の霊的領域での戦争だというわけである。パウロはそれを「支配者や権威、この暗闇の世界の支配者たち、そして天にいる悪の霊たち」と呼び、その多層的な構造を示す。張ダビデ牧師によれば、この本文は大きく三つの領域を想定しているという。すなわち、「支配者(principalities)は“空中の権威”とも呼ばれ、サタン組織の最上位にある頭領的存在。権威(powers)はその支配者に指揮される下部組織で、具体的な領域や状況で活動する。暗闇の世界の支配者たちは、この現実社会においてさまざまな文化や制度、イデオロギーを通じて人間を縛り、天にいる悪の霊たちは目に見えない領域で結束し、信徒を罪へと誘い、分裂を煽る」といった構造である。 イエスが種まきのたとえで語られたように、良い種がまかれたところに敵が毒麦をまき、実りを妨げる。張ダビデ牧師はこれを引用し、「教会が福音を伝え、信徒が良い業を行い、御言葉を広めるたびに、サタンという敵が同時に毒麦をまいて、収穫を台無しにしようとする。ぱっと見には同じように見えても、結果的に実を結べなくする戦略が紛れ込んでいる」と強調する。悪魔の策略は非常に巧妙で、不信や疑念、分裂を引き起こし、信徒同士が互いを傷つけ合うように仕向けることすらある。 だからこそ張ダビデ牧師は「目に見えない敵だが、その敵がもたらす混乱は私たちの周囲で確かに目に映る。それを見抜き、霊的に分別する力を身につけるべきだ」と訴える。彼は泥棒のたとえを用い、「泥棒は初めこっそり入り込んであちこちを探るが、何も盗れなければ腹を立てて部屋をメチャクチャにする。ところが、いったんその存在がばれてしまうと、同じ手口で近づくことは難しくなる。同様に、悪魔も正体を暴かれて信徒が大胆に立ち向かえば、逃げ出さざるを得ない」と語る。 ルカ10章で、イエスが70人の弟子を派遣して彼らが戻ってきた際に「悪霊さえも私たちに服従しました」と報告すると、イエスは「サタンが天から稲妻のように落ちるのを見た」と言われた。これはイエスがすでにサタンに対する権威をお持ちであり、その権威を弟子たちに委ねられたことを示唆している。張ダビデ牧師はこの場面を解説し、「イエス様はすでにサタンの力をくじかれた。だからこそ私たちも主の御名によって大胆に立ち向かえる。しかし、多くの信徒はこの勝利を“知識”としては知っていても、“体験”としては知らないことが多いのだ」と指摘する。 彼の説教にはしばしば「福音はエヴァンゲリオン、すなわち勝利の知らせ。戦いはすでに決着した。あとはその勝利を宣言し、現実に適用していくのが私たちの使命だ」というフレーズが登場する。エペソ書1章20節以下でパウロは、キリストが死者の中からよみがえり天の御座の右に座して、あらゆる支配と権威の上に立つ崇高な名を授けられたと宣言する。張ダビデ牧師はこれを「目に見えない敵に対する決定的勝利がすでに確保された出来事」と解釈し、イエスが復活され、私たちがその中にある以上、戦い自体には本質的に勝利の約束があると説く。 エペソ書でパウロが「教会がキリストにあって一つとなり、万物がその充満にあずかる」と語るのは、キリストに属する私たちがすでに高い霊的地位を得ていることを示す。問題は、それを知らない、あるいは知っていても実行に移さない信徒が多い点だ。こうした霊的戦いの実相と勝利の根拠を論じる際、張ダビデ牧師は必ず「教会という共同体の次元」を重視する。霊的戦いは個人レベルにとどまらず、教会全体が同じ思いで武具を身に着け、一丸となって戦うべき課題だというのである。 II. 教理と倫理の総合、そして教会の役割エペソ書の大きな特徴の一つは、教理と倫理が切り離せない形で結びついている点にある。1章から3章までで救いと教会論、そしてキリストの宇宙的中心性を説いたあと、4章から6章にかけてその真理に立った具体的な生活の方向性を提示する。張ダビデ牧師はこれを「アイデンティティと召命の結合」と呼び、「まず自分たちが何者であるかを正しく理解してこそ、それにふさわしい歩みができる」と解説する。 教理のみを強調する人々の中には、現実の変化なく頭で知るだけの者もいる。一方、倫理を強調する人々には、正しい教理の土台を欠いたまま行為中心の道徳主義に陥る危険がある。エペソ書はこの両極端を戒め、「正しい教理は倫理的な生き方として結実し、正しい倫理は健全な教理に根差してこそ成り立つ」というメッセージを示している。 エペソ書6章13節以下に出てくる神の全身の武具という概念は、まさにこの教理と倫理の融合を象徴している。パウロは真理の帯、義の胸当て、平和の福音の履物、信仰の盾、救いのかぶと、そして御霊の剣である神の言葉という具足を列挙するが、張ダビデ牧師はこれを単なる象徴ではなく、深い教理的基盤と実際的な倫理行動がセットになった道具だと説明する。 たとえば彼は「真理の帯」について、「イエス・キリストこそまことの真理である」という教理的宣言と同時に、「その御言葉をつかんで偽りを退ける」という倫理的決断が要求されると説く。義の胸当てもまた、「私たちを義とするキリストの十字架の贖い」という教理に根差しながら、「実際の生活で公正・正直を守ることによって、私たちの胸(中心)が悪の攻撃から守られる」という倫理面の実践を意味する。 平和の福音の履物も、福音という教理的土台が不可欠である一方で、実際に福音を伝えるべく踏み出す積極的な行動が伴わなければならないと説く。信仰の盾は「イエス・キリストを救い主と信じる教理」と、「日常における不信や疑念の火矢を具体的に防ぎ止める倫理的・信仰的行動」の両面が不可分である。救いのかぶとは「信仰義認と救いの確信」という教理と、「救われた者として思い、語り、行動する」という倫理的姿勢の結合である。 そして「御霊の剣」すなわち神の言葉は、「聖書の教え」という教理面の基礎を認めるだけでなく、その御言葉を実際に活用して悪魔の偽りを打ち砕く武器として用いる時、真価を発揮するという。張ダビデ牧師はこれらの武具を正しく装備するには「共同体としての武装」が欠かせないと強調する。個人がどれほど熱心に帯や胸当てを整えていても、他のメンバーが無防備なら、結局教会全体としての防御力は弱いままである。 したがって教会は互いに協力して武装しなければならない。教会が真理を守るためには教理教育を徹底すべきだが、同時に信徒一人ひとりがその真理を生活に適用する必要がある。ある人は教理的理解が深くても、それを職場や家庭で実践しなければ、共同体の弱点となるかもしれない。また別の人は奉仕や愛の行動に熱心でも、教理の土台が薄ければ、強い誘惑や教理的な批判にさらされたときに容易に崩れてしまう。つまり全身の武具とは個人が着込むだけでなく、教会が全体として装備を整えていく働きなのである。 エペソ書4章でパウロが「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師・教師として与えられた。それは聖徒たちを整え、奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるためである」と語るとき、彼はこうした「共同体的武装」を想定していると言える。教会には多様な賜物と役割があり、それらが協力することで教会全体が完全に立ち上がる。張ダビデ牧師はこれを「霊的軍隊としての教会」という表現でしばしば語る。 エペソ書にある「教会はひとつの体」という教えは、6章に至ると「霊的兵士たちが共に戦う軍隊」というメタファーに変化する。実際エゼキエル書37章の「枯れた骨が生き返る」比喩や、ヨエル書の「主の大軍が起こされる」場面などを見ても、全ての骨が正しい場所に繋ぎ合わされ、筋や肉が備わると、大いなる軍隊として立ち上がるイメージが描かれている。張ダビデ牧師は、旧約のこれらの預言が今日の教会が霊的に再生し、共に武具をまとって世へと歩み出す姿とも重なると解釈する。 そしてエペソ書の教理と倫理の統合、教会の役割は、単に内部で互いを支え合うだけでは終わらない。教会が世へと出て行き、福音を宣べ伝え、悪魔の縛りに苦しむ人々を解放し、暗闇が支配する領域に光をもたらすことこそが真の使命であり、それが「全身の武具を身に着けよ」という命令が与えられた目的でもある。 張ダビデ牧師は「教会が担う日常的な業務や社会的責任、宣教的使命こそ、霊的戦いの最前線である」と述べる。たとえば教会が地域社会で奉仕活動を行い、弱者を守り、不公正な体制に声を上げることは、霊的戦いの一環である。なぜならサタンの主な戦略は、人間を抑圧し、罪の構造に取り込んで、偽りや貪欲を蔓延させることだからだ。教会が正しい教えを堅持しつつ愛を実践することで、サタンの支配秩序は解体され、神の国の統治が明らかになる。 こうしてエペソ書の示す教理・倫理の洞察は、目に見えない敵との戦いの土台を形づくる。そしてこの土台は、教会が共同体として共に武装し世に派遣されるときに完成される。続く第三の主題では、張ダビデ牧師が実際にどのような方法で、この教理・倫理・教会の視点を現代教会に適用するよう導いているか、具体的な牧会的アドバイスをさらに掘り下げていきたい。 III. 張ダビデ牧師が提示する信徒の実践的対処エペソ書6章18節でパウロは、全身の武具を身に着けるよう促したあと、「あらゆる祈りと願いを用いて」と付言する。ここに霊的戦いにおける「祈り」の決定的な重要性が示されている。張ダビデ牧師は「最終的な鍵は祈りにかかっている」と語り、それは単に信徒個人の宗教的習慣ではなく、霊的戦いの勝敗を左右する戦術であると説く。 彼は個人の祈りだけでなく、教会全体の合心祈祷を強調する。古くから教会では金曜祈祷会、徹夜祈祷、特別早朝祈祷会などが盛んに行われてきたが、張ダビデ牧師は「これらの祈りの集会こそ霊的戦いの最前線を形成する場である」と説明する。多くの信徒が心を一つにして祈るとき、サタンの策略が露わになり、教会が一致してそれを退ける力が働く。彼は「個人の祈りも大切だが、教会という“軍隊”が合心して祈るときこそ、より強力な霊的パワーが発揮される」としばしば語る。 また祈りの内容面も重視する。単に自分の必要や問題解決を願うだけでなく、真摯な感謝や悔い改め、霊的識別の賜物を求める祈りが肝心だという。サタンの企みが見えないままでは、信徒も無意識に葛藤や分裂に巻き込まれる可能性がある。しかし祈りを通じて与えられる霊的光によって、悪魔の策略が暴かれれば、はるかに容易に立ち向かうことができる。 さらに御言葉の黙想と礼拝も重要なポイントとして繰り返し語られる。パウロが述べた全身の武具の核心には「御霊の剣すなわち神の言葉」があるが、これを有効に使うには、日常的に聖書を読み、黙想し、研究し、暗唱する習慣が必要だと強調する。イエスが荒野で悪魔に誘惑された際、「『書かれている』とある」と御言葉をもって退けられたように、信徒が御言葉を知らなければサタンの嘘や誘惑に簡単に揺さぶられる、と警鐘を鳴らす。 そこで張ダビデ牧師は、信徒が平日に自発的に聖書を開き、じっくり黙想する習慣づくりを助けるために、教会で体系的な弟子訓練や聖書勉強会を整備するよう呼びかける。また礼拝を通じて聖霊の臨在を体験し、共同体として御言葉の解釈と適用を学び続けるように勧める。礼拝が単なる形式的行事や義務的参加で終わるのではなく、聖霊の注ぎが豊かにある現場となるとき、教会は霊的戦いで一層強力な土台を得る。 弟子訓練や共同体としての養成も欠かせない。それはエペソ書4章でいう「牧師と教師が信徒を整え、奉仕の業に備えさせる」教会の働きに直結している。霊的戦いは決して個人的にのみ遂行できるものではなく、互いの霊的状態を確認し合い、足りない部分を補い合い、互いのために祈る共同体の支えが必須だからだ。 張ダビデ牧師は弟子訓練を「霊的軍事訓練」に例え、実際の兵士が厳しい訓練を受けるように、信徒も御言葉や祈り、敬虔生活、そして実際的な奉仕を通して全人的に成長すべきだと強調する。こうして育まれた霊的リーダーシップは、各人が置かれた家庭や職場、学校などで発揮されると説く。つまりリーダーシップは牧師や教職だけのものではなく、平信徒もまた“小さな教会”を担う存在として世にあって霊的戦いを遂行していくのだ。 さらに「聖霊の満たし」と「敬虔な歩み」も張ダビデ牧師の主要なテーマの一つだ。旧約の預言者や新約の使徒たちも、聖霊の力によって働き、霊的戦いを制した例は数多くある。聖霊がおられなければ、人間の知恵や力でサタンを相手にするのは困難である。彼は「聖霊の満たしの前提として、真剣な悔い改めと従順が求められる。罪と妥協したまま口先だけで『全身の武具を着ます』と言っても、悪魔は鼻で笑うだろう。大切なのは実際に聖潔を追い求め、悔い改め、聖霊の支配を受けることだ」と語る。 こうして罪と妥協しない態度、そして聖霊に満たされる生活があって初めて、全身の武具も真に力を発揮する。張ダビデ牧師は「初代教会や教会史上のリバイバルを見ても、いつも御言葉と祈りが回復され、聖霊が強く働いた時に大きなリバイバルが起こり、同時に社会的にも大きな影響を及ぼした」と付け加える。 結局、霊的戦いは教会の内側だけで終わらない。教会が一つとなり全身の武具をまとったのちに向かう戦場は、この世のただ中である。教会堂の内側だけで使う装備ではなく、日々の職場や家庭、社会のあらゆる場所で対峙する多様な試練に立ち向かうための備えなのである。 張ダビデ牧師は「真の戦場は月曜から土曜までの生活圏であり、そこで私たちを襲う罪や誘惑、また構造的な悪との闘いこそが、イエス様が弟子たちを世に派遣した目的でもある」と強調する。これを宣教や伝道の視点で捉えることもできるが、社会正義や愛の実践の観点からも同様に理解できると彼は言う。 彼が語る「愛の実践」や「社会的責任」は単なる善行ではなく、霊的戦いの延長である。貧困や社会的弱者を顧みる行為、不公正な制度に対して声を上げる行為、自然環境を守り創造世界を大切にする行為も、神の支配が広がっていく領域拡大だと捉える。サタンは人間の欲望や利己心、不正や腐敗を通じて世界を支配しようとするが、教会が愛と正義、聖潔と真実を行う時、そうしたサタンの秩序は崩されていき、神の国の支配が目に見える形で顕される。 張ダビデ牧師は「全身の武具を身に着けた信徒は、ただ教会の中で礼拝しているだけでなく、週日のあらゆる現場で福音を堂々と示し、人々を助け、偽りを暴く実践者である」と強い口調で語る。要するにエペソ書6章10節以下が示す霊的戦いは、一方でキリストの勝利を大前提としていながら、他方では私たちにまだ残る現実の戦いを任せている。そこで必要なのが教理と倫理、共同体的武装、そして聖霊の働きであり、これらがそろってこそ最終的な勝利にあずかれるというわけだ。 結論以上の考察を総合すると、次の三つの核心点に要約できる。第一に、霊的戦いと目に見えない敵に関する理解として、エペソ書6章はサタンと悪魔が組織的に活動しており、私たちの戦いが単なる血肉や人間の争いではないと明確に提示する。張ダビデ牧師は、この真理を現代に当てはめながら「サタンの策略は依然として巧妙だが、イエス・キリストの勝利ゆえに私たちは希望をもって進める」と語る。 第二に、教理と倫理の統合、そして教会の役割として、エペソ書は非常にバランスのとれた構造を示し、教理は実際の倫理的生活と切り離せないことを教える。神の全身の武具は教理(何を信じ告白するか)と倫理(どう生きるか)の結合を象徴し、教会が共同体としてこれを実行するとき強力になる。張ダビデ牧師は、教会が互いに協力して真理の上に立ち、愛と正義を実践しつつ世へ踏み出すことで、闇の権威を打ち崩すと説いてきた。 第三に、張ダビデ牧師が示す信徒の実践的対処法では、祈りと礼拝、御言葉中心の生活、聖霊の満たし、弟子訓練、そして共同体的武装の重要性が具体的に提示される。特に彼は、霊的戦いが決して個人的次元だけでなく、教会という共同体全体の制度や訓練を通じて成就されることを強調する。そこでは教会が社会に派遣され、人々を解放し、不正を正し、神の国の価値を現実に示す使命を担う、と繰り返し説く。 すなわち、エペソ書6章10節以下の「神の全身の武具」とは、イエス・キリストが勝利された事実を前提にしながらも、いまなお暗躍するサタンに現実的に対処するための霊的装備を示している。張ダビデ牧師はその真理を教会現場に適用する際、教理と倫理を橋渡しし、共同体の一致を促し、聖霊の力によって前進するよう説いてきた。 彼のメッセージは理論に終わらず、実際の教会における祈りの運動や弟子訓練を通じて人々を解放し、共同体の力で世を仕え始めるという具体的な変革をもたらしている。現代の教会が直面する課題は多岐にわたるものの、その根底に「目に見えない霊的戦い」があると認識するなら、単なる内部論争や教団間の対立を越え、より本質的な問題に取り組めるようになるという視点を、彼は提示する。 それは、サタンや悪魔がどう私たちを分裂させようとするかを見抜き、全身の武具でそれを防ぎ、世へ向かって神の国を具現する道を示す指針でもある。エペソ書6章10節以下が私たちに与える命令は、決して受け身の防衛だけではない。「しっかり立って対抗せよ」という言葉には、積極的な決断と行動が含意されている。私たちはキリストの権威に支えられつつ、この地上で悪の霊勢力に立ち向かうのだ。 そしてこれは教理と倫理を統合した教会共同体、聖霊の導きに応答する弟子化された信徒たちの連帯、さらに祈りと御言葉、礼拝を通じて得られる霊的パワーによって可能になる。張ダビデ牧師は、この霊的戦いの原理と実践を長年説き、多くの説教や著作、セミナーで一貫して発信してきた。 要するに彼のメッセージは、「目に見えない敵を正しく知り、しかし恐れるな。キリストによってすでに勝利は得られており、教会が一つとなって全身の武具をまとえば勝てる。教理と倫理を統合し、祈りと聖霊の力で武装し、世で福音の力を示せ」というものに尽きるだろう。これは、エペソ書が本来伝えようとした「キリストにある教会の栄光」と「世への実践的派遣」という流れに合致する。 パウロが1世紀の霊的戦いを取り上げたとすれば、張ダビデ牧師は21世紀の霊的戦いを説く立場にある。時代や背景は変われど、聖書的真理の核心は同じだ。結局のところ、私たちが日々覚えておくべきなのは、目に見えない敵が確かに存在し、私たちの内面や家庭、社会構造、文化や思想に深く入り込んでいるという事実である。しかしそれ以上に重要なのは、イエス・キリストが十字架と復活によってすでにサタンの権勢を打ち砕き、教会をその勝利へと招いておられる点だ。 この勝利を自分のものとして受け取り、世に宣べ伝えることこそが霊的戦いの真髄である。私たちは悪魔の策略に屈することなく、全身の武具をまとい、互いに祈り合って一致し、愛と正義を実践する教会として立つよう召されている。その先にあるのは、神の国の実現に協力する喜びの道だ。これがまさにエペソ書6章10節以下が今なお発するメッセージであり、張ダビデ牧師が長年説き、実践してきた教えのエッセンスである。 そうして私たちがともにへりくだって武装し、祈りと御言葉により強められ、愛の行いによって暗闇の支配が蔓延する場所に光をもたらすならば、サタンの占めていた領域は着実に後退するにちがいない。これこそが、エペソ書の核心にある教えであり、張ダビデ牧師が確信をもって伝え続けてきた宣教と牧会の真髄といえるだろう。

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