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  • 神の国 – 張ダビデ牧師

    Ⅰ.キリスト論・救済論・終末論を通して見る神の国 張ダビデ牧師は、教会史と聖書の核心的真理を強調しながら、キリスト論・救済論・終末論という三つの教理がいかに緊密に結びつき、「神の国」という一点へと繋がっていくかを説いてきた。まず彼によれば、キリスト論とは「イエスとはいったいどなたなのか」という問いから出発するという。教会は歴史を通して、「イエス・キリストは真の神であり、真の人である(veredeus verehomo)」という結論をニカイア公会議(325年)やカルケドン公会議(451年)などを通じて整理してきた。張ダビデ牧師は、この決定がキリスト論の理解において非常に重要だと語る。イエスは罪のない聖なる神でありながら、人間のあらゆる苦しみや弱さを直接に担われた真の人でもある。この神秘的な両面性を正しく理解することが、結局のところ救済論を正しく受け入れる土台になると、張ダビデ牧師は強調する。 彼によれば、イエス・キリストが神であることを否定したり、キリストの人性を縮小してしまうような神学的立場は、最終的にはキリスト論の骨格を崩し、救済論へと正しく進むことを妨げてしまうという。歴史的な1517年の宗教改革に触れながら、張ダビデ牧師はルターやカルヴァンなどの改革者たちが「救いはただ信仰によって(Sola Fide)、ただ恵みによって(Sola Gratia)のみ可能である」と宣言した事実を重視している。これは中世の教会が聖書の教えから離れ、「信仰と恵み」だけで与えられる救いに、他の要素を混ぜ込んでしまった結果、信仰が希釈され歪められていたことを正そうとする叫びだったと彼は言う。張ダビデ牧師は「宗教改革の救済論は、厳密に言えば『聖書に立ち返ろう』という訴えだった」と力説する。だからこそ改革派教会が主張する「信仰のみ、恵みのみ」という救済論は、極めて聖書的で正しい教理だと言えるのだと彼は語る。そして教理とは単に教会の教材や教育資料に留まるものではなく、実際に信徒の生活の中でいのちある力として働かなければならないとも付け加える。 張ダビデ牧師はさらに、キリスト論と救済論は比較的よく整理されている一方で、終末論に関しては教界内でも意見が分かれることが多いと指摘する。「終末論が扱う核心的テーマは『時と期間(Time and Date)』である」と述べつつ、ここで言う「時(Time)」はギリシア語でクロノス(Chronos)、「期間(Date)」はカイロス(Kairos)だと解説する。クロノス的時間は量的で連続する時間概念を指し、カイロスは決定的な出来事が起こる質的な時を意味する。聖書においてイエスの再臨は、この「カイロス的出来事」に相当すると張ダビデ牧師は言う。その決定的な出来事によってイエスが地上に来られた時(B.C.とA.D.が分かれるその時点)は、歴史そのものを分割する。したがって終末論が最終的に取り扱うのは、この地に神の国が完成へと至る過程と、その具体的瞬間であるということだ。 張ダビデ牧師によれば、聖書は終末に関する具体的預言と、その不確実性、そしてイエスご自身の言葉を通して、「その時と期間はただ神だけがご存じである」ことを信者に教えている。使徒の働き1章7~8節におけるイエスの言葉がまさにそれを示している。「時と期間は父が御自分の権威によって定められたのであって、あなたがたの知るところではない。ただ聖霊があなたがたに下るとき、あなたがたは力を受け、地の果てにまで福音を伝えよ」という命令である。張ダビデ牧師はこの言葉に着目し、終末論に関心を持つことは大切だが、誤った終末予測や恐れにとらわれるのではなく、むしろ今この地で福音を証しし、神の国を準備する積極的な態度こそが真の終末論的生き方だと説く。 では「神の国」とはどのような姿なのか。張ダビデ牧師は、創造―堕落―救い―神の国へと続く救済史の流れを、「四つの法則(いわゆる四つの霊的原則=四永理)」という方式を用いてしばしば説明する。人間は本来、神が創造されたエデンの園、すなわちパラダイスで暮らすはずだったが、罪によってそこから追放された存在となった。しかしヨハネの福音書3章16節に示されているように、神は独り子イエス・キリストを送ってくださり、人間に永遠のいのちを与えてくださった。そしてその救いの最終目的地は「神の国の回復」にほかならないと張ダビデ牧師は言う。使徒の働き1章6節で弟子たちが「イスラエルの国を回復してくださるのはこの時なのですか」と尋ねているのも、結局は失われた国―すなわち神が統治される義なる世界の回復を望んでいることと通じている。人間の魂の奥底には、失われたエデンを懐かしむ思いがあり、それが「天国への本能的な望み」であると彼は解釈する。そしてその完成の時期は私たちには分からないが、イエスの再臨によって確実に実現すると力強く語る。 特に張ダビデ牧師は、神の国の教理の核心の一つとして「義」の問題を強調する。マタイの福音書6章33節で「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはすべて加えて与えられる」と語られているように、神の国は正義に満ちた場所なのだとする。不義な勢力はいずれ力を失い、神が直接統治されるとき、「正義が大河のように流れる世界」(アモス5章24節参照)が完全に展開される。張ダビデ牧師は、神の国とは単なる抽象的概念ではなく、現実の歴史と私たちの日常の中で、不義に立ち向かい義を打ち立てよという命令とともに到来していく神の統治だと考えている。彼が歩んできた宣教・牧会の方向性も、「まず神の国と神の義を求めなさい」という教えを教会と信徒たちが実際に実践できるように導くことに重きを置いてきた点を、彼自身が繰り返し強調している。 張ダビデ牧師は、人々の日常的な関心が主に財産や物質的豊かさに向かっている事実を指摘する。主のお言葉によれば、人間は「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」と過度に悩むが、いざ神の国のために献身し仕え、義のために苦しみを受けることには消極的になりがちだというのである。マタイの福音書6章19~20節でイエスは「あなたがたのために、地上に宝を積むのではなく、天に宝を積みなさい」と語られた。張ダビデ牧師はこの聖句を挙げながら、本当の価値はこの地上の所有に限られず、永遠の国に蓄えられることを決して忘れてはならないと説く。それこそが「義に飢え渇く者は満たされる」(マタイ5章6節)という逆説を体験する道であり、最終的に神の国と義のために生きる人々には、神がすべてを加えてくださる恵みをイエスご自身が約束しておられるのだ、と語る。 ではイエスが語られる神の国は具体的にどのように到来するのか。張ダビデ牧師は、マタイの福音書13章などに登場する天国のたとえ話を例に挙げながら、神の国は小さなからし種のようなもので、初めはほとんど目立たなくても、成長すると非常に大きな木になり、空の鳥が巣くうほどになると教えられた点に注目する。また、パン種(イースト菌)のたとえを通して、神の国は見えないところで少しずつ働いて、ついには全世界を変えていくというイエスの教えが、まさに終末論的ビジョンに繋がっているのだと見る。張ダビデ牧師は「私たちの教会はいつも四永理とともに、この神の国への希望を失わないように教えてきた」と述べ、救われた人なら誰でも自分が回復すべきパラダイスを切望するようになり、その切望こそが「主の祈り」にある「御心(みこころ)の天におけるごとく、地にもなさせたまえ」という願いに結集すると解説する。 そう考えると、キリスト論は「誰が救い主なのか」を確立し、救済論は「どのように救われるのか」を示し、終末論は「救われた者たちが究極的に見つめるべき国は何か」を明らかにするという三位一体的構図の中で互いに連動していることが分かる。張ダビデ牧師は、キリスト論を通して救いの根拠がただイエスにあることを確かにし、救済論を通して人間がいかに全面的に恵みに依るべきかを自覚し、終末論を通して今この瞬間にも神の統治が及ぶように私たちが従順し、伝道しなければならないという真理を思い起こさせる。そしてこれらの教理は単に知識として留まるのではなく、信仰の実践として現れるとき、初めて神の国が私たちの現実に具現化されると強調する。 こうした文脈において、張ダビデ牧師が率いる教会や諸活動は、キリスト教信仰の本質的土台を築くことに力を注いできた。彼は長年の牧会と宣教の現場で教えながら、教理の重要性がちょうど身体の骨格のようなものだと繰り返し語ってきた。骨がしっかりしていてこそ、身体全体が健康に動くように、イエスのご人格と救いの方式、そして終末に至るまでの神の計画を堅固に掴んでこそ、信徒たちは揺るがされずに世に向かって正しく生きることができるというのである。このような教理的基礎こそが、「まず神の国と神の義を求めなさい」という主の言葉を自ら実践するための土台と言える。張ダビデ牧師は、すべての時代のキリスト者が、この言葉の前で自分自身を振り返るべきだと力説する。「はたして私は何を優先順位に置いているのか。神の国のために本当に献身しているのか」という問いは、単に過去や未来の一時期だけの問題ではなく、人生全体を貫く問いであるというのである。 最後に彼は、「私たちが終末論を学ぶ理由は、『時と期間』を突き止め、世の出来事に対する好奇心を満たすためではない」と語る。イエスが完成してくださる神の国を慕い求め、その国がすでに始まっていると信じつつ、この地で福音を伝え、義の生活を通してその統治を実現していくこと、これこそが真の終末論的信仰である。終末は破滅を意味するのではなく、イエスが完全に回復してくださる「新しい天と新しい地」の成就を意味する。だからこそ張ダビデ牧師は、私たちが日ごとに抱くべき神の国の夢と希望を強調する。「神の国が臨むとき、不義に満ちたこの地に正義が大河のように流れる」という旧約の預言者的ビジョンを、現代に生きる私たちも受け継ぎ、物質や一時的な成功ではなく、永遠の神の統治に目を注ぐべきだ、と強く訴えるのである。 Ⅱ.「まず神の国と神の義を求めなさい」 張ダビデ牧師はマタイの福音書6章33節に対する黙想を土台に、「まず神の国と神の義を求めなさい」というイエスの言葉が、この時代を生きるすべてのキリスト者にとってどのような意味を持つかを具体的に解説する。人々はしばしばこの御言葉をあまりに霊的あるいは抽象的に解釈してしまい、あたかも現実の必要を無視してもよいかのように誤解することがある。しかし張ダビデ牧師によれば、イエスが「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」を心配するなとおっしゃったとき、それ自体を軽んじよというのではなく、「もっと大切な優先順位がある」ことをはっきり教えられたのだという。彼は説教や講義で、「食物や衣服も必要だが、神の国はそれ以上の絶対的価値を持っている」という観点を常に提示している。 ここで注目すべきは、イエスがマタイの福音書6章全体で批判している「財産や外面的なものへの過度な執着」を捨て、信仰を通して神への完全な信頼を置けと勧めている点だ。張ダビデ牧師はこの教えに関連して、旧約のエリヤの物語を代表的な例として挙げる。列王記第一17章1~16節を読むと、イスラエルの地に干ばつが起こった際、神はエリヤにケリテ川のほとりへ行き、カラスの供給を受けさせた。その後、シドンの地のツァレファテのやもめのもとへ導かれたが、やもめもまた干ばつによって最後に残った一握りの粉と少しの油でパンを作り、自分と息子がそれを食べて死のうとするような状況だった。しかしエリヤは神の言葉を信頼し、「まず私にパンを作ってください」と頼み、やもめも信仰によってそれに従った。その結果、雨が降るまで粉壺と油壺が尽きることのない奇跡が起こった。 張ダビデ牧師はこの出来事を指して、「空にする信仰(ケノーシス、kenosis)が最終的に奇跡をもたらす」と解釈する。ツァレファテのやもめにとっては、その最後の食糧すら差し出せば、今すぐ飢えて死ぬ危機に陥る恐れがあった。しかし神の人が告げる言葉への信頼があったので、やもめはそのわずかばかりの粉と油をまずエリヤに差し出し、その結果、自分の息子とともに何日も十分に食べても足りるほどの恵みを体験したのだ。張ダビデ牧師はこれを「義に飢え渇く者は満たされ、まず神の国を求める者にすべてが加えられるという主の言葉を、旧約の出来事を通して体感する事例」だと説明する。つまり、現実的に見て不可能に思える状況であっても、信仰をもって神の国のための決断を下すとき、日常生活において神の供給がなされる「奇跡の力学」を経験できるという。 同様の論理を新約聖書からも見出せる。それが「五つのパンと二匹の魚の奇跡」である。ルカの福音書9章10~17節に記されたこの出来事は、四福音書すべてに登場する非常に重要な奇跡である。荒野(人里離れた場所)に集まった大勢の群衆に食べ物が足りないとき、イエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物をあげなさい」と言われた。しかし弟子たちは「パン五つと魚二匹しかありません」と答える。当時のパンは粗くて素朴な大麦のパンであり、魚も雑多な小魚であった可能性が高い。ところがイエスはそれを受け取り、祝福の祈りを捧げたうえで弟子たちに配るよう命じられた結果、男だけで約五千人が食べてなお、十二のかごが余るほどの豊かな奇跡が起こった。 張ダビデ牧師によれば、この場面も「神の国と神の義を求める者の生き方が、いかに物質的・現実的な必要までも満ち溢れるようにされるのか」を示す鮮やかな例証だという。パン五つと魚二匹という、取るに足らないすべての資源を主に差し出す「明け渡し」の姿勢こそが、大いなる「満ち溢れ」へと繋がる。これは単に神秘的で一度限りの出来事ではなく、信じる者が神に仕える際にいつでも経験しうる普遍的真理を象徴しているのだ。もちろん、すべてのキリスト者が「五つのパンと二匹の魚」さながら、何千人分もの食糧が奇跡的に増える体験をするわけではないが、霊的な面でも日常の必要においても、神が常に満たしてくださるという確信、そして神の国のために献身する者には思いがけない恵みが注がれるという真理は変わらない、と張ダビデ牧師は強調する。 こうした旧約と新約の物語から、「義に飢え渇く者は満たされる」という聖書の逆説が読み取れる。張ダビデ牧師は「人間的な理屈で考えるなら、満たされたいならパンをもっと集めるべきではないか。なのになぜ義を求めるのか」という問いを提示し、イエスの言葉には単なる物質的祝福を超えた深遠な霊的原理があると解説する。それはすなわち「自分の欲望や損得勘定、恐れを捨て去り、神の言葉に従うとき、神はすべてを備えてくださる」ということである。張ダビデ牧師自身、この原理が今日でも有効であることを身をもって体験し、教会共同体の中でそれを実際に適用してきた。彼が「財政的な困難や宣教的、人的な問題に直面しても、神を信頼し、その国を優先すれば、結局神が扱われる」と説いてきたのは、単に観念的な信念ではなく、聖書の歴史的出来事や彼の宣教現場での経験に根ざしているのだ。 このような文脈で、張ダビデ牧師はキリスト者が世的な成功や物質を最終目的とせず、「義に飢え渇く者」となるべきだと繰り返し強調する。「義に飢え渇く」とはつまり、「神の国の正義がこの地に実現することを切に求める」ことであり、「私たちの生活や社会、そして世界の中で神の統治が表されるように祈り、献身する」決断を意味している。彼はこれを「渇望」という言葉で言い表すことがあるが、霊的な渇望は私たちを決して困窮に追いやるのではなく、むしろ天の恵みに満ちあふれさせるのだという点が、聖書や教会史のさまざまな例から証明されていると主張する。 張ダビデ牧師はまた、「天に宝を積みなさい」というマタイの福音書6章19~20節の教えを改めて喚起し、この地上で私たちが追い求める財産や名誉、権力は、いずれ消えてしまうものにすぎないが、神の国のための労苦や献身は決して消えない永遠の報いになると語る。これこそが「天に宝を積む」というイエスの言葉の現実的意味なのである。私たちは往々にして目に見えるものだけが確かだと思い込むかもしれないが、張ダビデ牧師にとってそれより確かな世界は神の国である。彼はその国のために時間や財産、才能などを惜しまず捧げてきた姿を牧会と宣教のあらゆる場面で示しつつ、「誰でも本気でその道を選ぶなら、神が必ず満ち溢れるように満たしてくださる体験をする」と証しする。 そこで張ダビデ牧師は、教会の総会や各種集会の場でいつも「今、私たちは何を優先順位に置いているのか」と問う。「私たちは現実的な問題だけを考え、財源を追い求めるばかりではないか。それとも義のために労を惜しまず、福音を伝えるために献身しているのか」という問いは、個人にも共同体にも必ず振り返る必要のあるものである。彼が注目するマタイの福音書6章25節以下の「いのちは食物よりも大切ではないか。からだは衣服よりも大切ではないか」という言葉は、「最も重要で根本的な価値とは何か」を私たちに問いかけてくる。空の鳥や野の花を例に挙げながら、「神は私たちの日常的必要を満たす方なのだから、物質に縛られて生きるのをやめなさい」とおっしゃるイエスの勧めは、むしろ私たちに自由と喜びをもたらす。張ダビデ牧師はこの箇所を説教するたびに、「神はすでにあなたがたに必要なものを知っておられ、それを満たすことがおできになる方だ」ということを繰り返し思い起こさせながら、「それなら何を恐れる必要があるのか」と問いかける。 さらに彼が牧会の現場で強調するもう一つのポイントは、「この御言葉を完全に信じる者は、決して怠惰や放縦に陥らない」という点である。「神が満たしてくださる」という信仰は、ただ手をこまねいている態度ではなく、「神の国のためにより大胆に献身し、より積極的に義を求めるための力」となる、と張ダビデ牧師は解説する。すなわち「あなたがたはまず神の国と神の義を求めなさい」というイエスの言葉を真に信頼する者は、世間の評価や物質不足への恐れによって尻込みすることなく、むしろさらに大胆に福音を伝え、善を行うことができるという意味だ。 では、どのようにすれば具体的に神の国のために義を求める生き方ができるのか。張ダビデ牧師の歩みを通して見ると、その答えは常に「礼拝と御言葉への従順、そして隣人に対する積極的な愛」に集約される。教理は理論ではなく、日々の生活の中でイエスの教えを実践するときこそ、骨格に肉がつき血が巡るという言葉が、このことをよく説明している。礼拝を通して私たちは神がどのような方か、イエスの救いがいかに大いなる恵みか、そして世界を新しくされる聖霊のわざがいかに力強いかを体験する。また御言葉によって、不正な現実に直面した時に正しい判断と決断をするための洞察を得る。最後に隣人を愛することによって、私たちは「正義が大河のように流れる世界」を準備する神の同労者となっていく。張ダビデ牧師はこれこそ「神の国の民としての生き方」だと呼ぶ。 彼は「28年という長い宣教・牧会の歩みの中で、教会がどれほど『神の国と神の義』を求めて走ってきたかを振り返ろう」と述べつつ、神の満たしを体験したさまざまな証しを語ってきた。外部からの脅威や物質的不足、数えきれない落胆要素があったとしても、むしろそうした状況だからこそ一貫して神を信頼し、その道を守り通してきたのだ、と彼は告白する。エリヤのもとにやってきたカラスの食料やツァレファテのやもめの油、そして荒野で起こった五つのパンと二匹の魚の奇跡が、現代にも再現されるのは、この「まず神の国と神の義を求める信仰」のゆえだと張ダビデ牧師は説く。 結局、「まず神の国と神の義を求めなさい」というマタイ6章33節の言葉は、旧約と新約を貫き、教会の歴史全体を支えてきた重要な柱のようなものだ。張ダビデ牧師の牧会的実践もまた、この言葉を軸に据えて、キリスト論・救済論・終末論に基づき、究極的には「神の国」というビジョンを提示してきたのである。彼は現代の教会が物質主義や世の風潮に揺らぐことを警戒しながら、教会が本来の使命である福音宣教、義を追い求める生き方、そして失われた魂への愛を新たに掴むように挑戦を投げかける。「御心が天で行われるように地でも行われますように」という主の祈りの願いが現実化する道は、一人ひとりの信徒がまず自分の優先順位を見直し、神の国への渇望をもって進むことにある。その道を歩むすべての者に、神の供給は常にあふれるほど注がれる、と張ダビデ牧師は確信している。 そこで彼は「2週間後にある総会や教団の大きな集まりを準備するにあたり、私たちは何を振り返り、どう決断すべきなのか」と問う。「28年という時間の中で、果たして私たちは神の国を優先してきたのか、それとも物質や人間的安定に偏ってこなかったか」という問いを、信徒たちと共に深く考えようというのである。そして本当に神の国と義を求める者たちなら、その優先順位を実際の生活と働きの中で証明しなければならない、と繰り返し訴える。張ダビデ牧師は「過去7年、10年、あるいはそれ以上の歩みを振り返ってみると、数多くの欠乏があったにもかかわらず、いかに神が私たちを導いてくださったか、皆それぞれに証しできるはずだ」と言い、それらのストーリーは、まるでエリヤとツァレファテのやもめ、そして荒野で五つのパンと二匹の魚で起こされた奇跡のように「神の豊かさ」へと集約されているのだと感じる、と語る。 張ダビデ牧師が強調する点は明確である。「義に飢え渇く者」になれ、ということだ。「義に飢え渇く者は幸いである。天の御国は彼らのものだから」というマタイ5章6節・10節の言葉は、逆説的でありながら力強い。私たちは往々にして、物質的に乏しいから不幸なのではなく、神の義を渇望せず、その国を慕い求めないからこそ、霊的に乾いているのかもしれない。逆に、現実の状況がどうであろうと、神の国を求め、義のために苦難を受ける人はすでに「満ち足りた人、豊かな人」だ、と張ダビデ牧師は宣言する。彼がこのテーマを繰り返し説教し、教えている理由は、教会が単なる宗教組織ではなく、本当の神の国の共同体へと成長するための核心だからである。 今日、私たちは社会的な不正や対立のただ中で、教会が避難所とならず、世の論理に振り回される姿をも見る。こうした状況に直面するたびに、張ダビデ牧師は改めて「まず神の国と神の義を求めなさい」という言葉を思い起こすべきだと訴える。神の国が臨むとは、すなわちこの地の不正が終わりを告げ、貧しい者が祝福を受け、病む者が癒やされ、イエスが主となられて万物を回復されることを意味する。教会がこの壮大なビジョンを宣言し、一人ひとりの信徒がそれぞれの場所で正直と愛と慈しみをもって行動し、イエス・キリストを証しするとき、世は初めて神の統治の一端を味わい始める。そしてその過程の中で私たちは、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という心配の束縛から解放され、神が与えてくださる豊かさを得るのである。 張ダビデ牧師はそのために、教会共同体の中で互いに励まし合い、御言葉と祈りによって武装し、世に善き影響を及ぼす多様な実践的働きを行ってきた。彼が繰り返し語る命題は「教会が教会らしさを取り戻すとき、世も変わる」という確信だ。これは終末論的な観点からも、ただある瞬間に戦争や災害によって世が終わってしまうという恐怖ではなく、イエスの再臨によって完全に完成する神の国を、今ここで先取りして生きる教会の使命と結びついている。イエスの初臨によってB.C.とA.D.が分けられたように、教会が真の福音の力を示すとき、周囲の社会は古い生き方と新しい創造が交差する瞬間を目撃するというのだ。 今や教会がなすべきことは明白である。「あなたがたはまず神の国と神の義を求めなさい」という言葉を思い起こし、実際にすべての生活の優先順位を神の国に置き、義を打ち立て、不義と妥協しないことである。これは時に困難を伴うかもしれないが、エリヤが天からの糧を備えられ、ツァレファテのやもめが最後の粉と油によって豊かさを享受し、荒野の群衆が五つのパンと二匹の魚で満ち足りたように、キリスト者は日々奇跡の中を生きられると、張ダビデ牧師は確信する。その確信は、個々人の献身から共同体全体のビジョンにまでつながり、究極的には「神の国がこの地に臨むのを望む」という終末論的な待望へと集約される。 張ダビデ牧師がこれほどまでに強調するキリスト論・救済論・終末論は、切り離された教理ではなく、密接に繋がる有機体であり、その中心には「義なる神の統治」がある。この統治はイエス・キリストの犠牲と復活によって始まり、聖霊の力によって拡大され、終末論的完成へと進んでいく。ゆえに教会と信徒たちは、いつでもこの統治を最優先に求め、その義のために自らを空しく差し出すとき、結果としてあらゆる必要が満たされ、さらに余りある「神の供給」を体験することになる。「義に飢え渇いて生きよ」という挑戦は、決して重苦しい負担ではなく、神の人として最も幸いで自由な生き方なのである。張ダビデ牧師は、数々の実例や証言を通じてこの生き方の原理が立証されると語り、教会がさらに大胆にこの道を歩むよう促している。 この時代に向けた張ダビデ牧師のメッセージは明白である。神の国は「いつか死んでから行く場所」ではなく、イエス・キリストの統治を現実に実現していく現在的かつ未来的な国だ。「まず神の国と神の義を求めなさい」というイエスの命令こそが、教会の存在理由であり、信徒一人ひとりの使命でもある。この言葉を握って生きるとき、教会はようやく世の中で塩と光の役割を果たすことができ、信徒たちは「義に飢え渇く者が満たされる」霊的な喜びと充足を経験できる。張ダビデ牧師は、私たちの現実がどれほど暗く困難に見えても、信仰をもって私たちの「パン五つと魚二匹」を主に差し出すなら、神は今もなお五つのパンと二匹の魚の奇跡を起こされると強調する。そしてその奇跡こそが「天に積んだ宝」であり、終末論的完成によって神の前に明らかになる永遠の実りだと語る。こうした理由から、彼は教会と信徒たちが力を合わせて福音宣教と義のための生き方を続けていくとき、最終的に「御心が天で行われるように地でも行われる」という恵みが、ますます豊かに広がっていくと確信し、すべてのキリスト者がこの喜びと希望に共にあずかるよう呼びかけるのである。 www.davidjang.org

  • 十字架と救い – 張ダビデ牧師

    1. 十字架に架かられたイエス・キリスト イエス・キリストの十字架の出来事は、キリスト教信仰の中心であり、最も頂点をなす場面といえる。ヨハネの福音書19章18節から続く本文は、イエスがゴルゴダの丘に登られ、二人の強盗と共に十字架に釘打たれて苛烈な苦痛を受けられる姿を具体的に伝えている。本文によれば、イエスは「真ん中の」十字架に架けられたが、これはイエスが世の罪人たちの只中で、彼らの罪を代わりに背負って死なれる贖いのみわざを最も鮮明に示している。強盗たちの間に置かれたイエスの姿は、全能の神の御子が、最も恥辱に満ち悲惨な場所で人間の罪を負われたという点で衝撃的であり、同時に深い霊的含意をもつ。 張ダビデ牧師はこの箇所を解釈し、イエスの十字架の出来事が決して単なる「敗北」や悲劇で終わらない事実に注目する。本文でピラトが書いた「ユダヤ人の王」という札がヘブライ語・ギリシア語・ラテン語で掲げられたことは、当時ユダヤ人だけでなく、ギリシア人やローマ人にもこの知らせが伝わるよう、主権的な摂理が働いていたことを示す。これはイエスが単にユダヤ人だけの王ではなく、全人類を救うメシアであることを明らかにする象徴的な出来事と解釈できる。張ダビデ牧師はこの点を強調し、イエスの救いのみわざが特定の民族や特定の階層だけに限られていないことを力説する。イエスが万王の王であることを告知したピラトの判決文は、皮肉にもピラト自身の意図とは反して、イエスの威厳と真の正体を宣言する結果をもたらした。 ピラトの判決文は、イエスを政治犯または暴動罪として十字架刑に渡すという重大な罪を犯したにもかかわらず、彼がどうにか固執しようとした「ユダヤ人の王」という主張が、実はイエスの本当の正体を暴露していたことを示している。「私が書いたものは書いたままにしておけ」と言い切ったピラトの態度は、歴史の車輪の中で、彼自身が知らなかった神の救済のご計画をあぶり出すために用いられた、一種の「道具」であったとも考えられる。張ダビデ牧師は、こうしたアイロニーの中に神の摂理が隠されていると語る。人間の歴史において、偶然のように見える瞬間や権力者の高慢な決定でさえも、結局は神の意図した方向へ帰結せざるを得ないという事実が、ここで明白に示されるのだ。 このように「ユダヤ人の王」と公表されたイエスは、十字架の上で激しい侮辱と苦痛を受けながら、世の罪を代わりに担われた。弟子たちでさえ大半が逃げ去り、そこに残ったのはわずかな女性たちと愛する弟子ヨハネだけであった。それに対して、ローマの兵士たちは十字架に架けられた者の所持品を略奪するかのように分け合い、特にイエスの最後の所有物だった「一続きに織られた服(下着)」さえも、くじを引いて手に入れようとした。これは表面的には死刑囚に残された最後の物まで奪い取る行為に見えるが、霊的な観点から見ると、世にあるあらゆる「貪欲」を映し出す典型的な姿だといえよう。主は罪人である私たちのためにすべてを放棄してくださったが、それに反して世はイエスの最後の服さえも分け取りたいと争う愚かな姿をさらけ出したのだ。 張ダビデ牧師は、この場面が教会の現実やキリスト者の内面を省みさせる「鏡」のような役割を果たすと言う。教会や信徒だからといって、いつも十字架の前で謙遜と自己否定を実践しているわけではない。教会共同体の中でも、ときに世のやり方そのままに、より多くを所有しようとし、より高い地位や名誉を得ようとする競争心をあらわにするときがある。ゆえにヨハネの福音書19章に登場するローマ兵たちの貪欲な姿は、古代の話ではなく、今日の教会にも繰り返され得る警告として聞くべきだ、というのである。張ダビデ牧師は私たちに自己を省察するよう促す。果たして私たちは、キリストの十字架の下で主の苦難と慈しみを深く黙想するよりも、いまだに世俗的な目的を満たすために信仰を利用してはいないだろうか、と問いかけるのだ。 十字架のそばに立っていた四人の女性は、恐れて逃げ出さず、最後まで主の苦痛を見守り、共にいた。主の母マリア、彼女の姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアである。その現場は、単なる悲しみを超え、ローマ兵たちが見張り、無慈悲に人を処刑していた恐ろしい場所であった。しかし、この女性たちは十字架にしっかりと寄り添い、イエスを愛をもって見つめた。ペテロのように恐れに駆られて逃げることもできたはずだが、彼女たちの愛は恐れに勝ったのである。これは今日の信徒にも重要な手本となる。十字架の道は苦しみを伴うが、キリストの愛を知るならば、その道から退くことはない。張ダビデ牧師は、この女性たちの献身こそ教会が見習うべき勇気と愛の象徴だと語る。彼女たちは男性の弟子たちが逃げ去った場に残り、最も悲惨な瞬間まで同行したからである。 この本文を黙想するとき、王でありながら同時に祭司でもあるイエスが、いかにして最も低いところへと降りてこられたかを、さらに深く理解することができる。ヨハネの福音書でイエスは何度もご自分の正体を「羊のために命を捨てる良い牧者」とほのめかしておられる(ヨハネ10章参照)。実際にイエスはすべてを差し出し、最後に身につけていた下着さえも奪われる状態にまで至った。世の罪を背負って十字架にかけられたイエスが示された愛は、単なるこの世の道徳的善行をはるかに超えている。それは罪人に与えられた完全な犠牲であり、神がイエスを通して直接示された、最も劇的な救済史的出来事である。張ダビデ牧師は、イエスが最も偉大な王であると同時に、最も低いところでご自分を完全に空にされたしもべであるという、この「アイロニー」を深く黙想するよう私たちを招いている。 ここでさらに注目すべきは、イエスが着ておられた下着について、ヨハネが「上から下まで一続きに織ったもの」と特筆している点である。これは当時、大祭司が着用した衣服の形式を想起させる。古代イスラエルの大祭司は聖なることを象徴する特別な衣服を身につけたが、その衣服が示す意味は「神にささげられる完全な奉仕」であった。イエスの下着が一続きに織られていたと記されているのは、イエスが真の大祭司として完全な贖いを成就するために死なれたことを暗示すると、張ダビデ牧師は説く。これはイエスが外見上は惨めで虚しい死を迎えられたように見えても、霊的次元においては、最も尊い使命を完成する荘厳な瞬間であったことを示している。一方、その衣服をくじ引きで手に入れようとするローマ兵たちの姿は、人間の卑劣な欲望と無関心を対照的に映し出す。 このように十字架の上で行われた兵士たちのくじ引きは、イエスに対する頑なな無関心と世俗的欲望の極みを見せつける。貪欲に染まった人々はイエスを真の王と認めることができず、その方の最後の衣さえもただの利益としか見なさない。これは、恵みを最も必要な瞬間に拒む行為であり、神を冒涜するのと変わらない。しかし、主の十字架の出来事を正しく黙想する者にとって、この場面は限りなく衝撃的であると同時に、自らの現実を振り返るきっかけとなる徴でもある。イエスは私たちが奪われることを恐れるような何ものに対しても、すでにすべてをご自身が与え尽くすことで救いを成し遂げられた。ゆえにイエスこそが、貪欲や所有欲の問題を克服する鍵であり、聖なる模範そのものである。 ポンテオ・ピラトの法廷で下された「ユダヤ人の王」という公的名称と、十字架の上ですべてを奪われたイエスの姿は、不思議な逆説を形作る。王でありながらすべてを捨てられた方、聖なる大祭司でありながら最も恥ずべき罪人の死を受けられた方、あらゆる権威をお持ちながら自ら人々の間に入って嘲られた方、それがイエスなのである。張ダビデ牧師は、この霊的逆説こそ十字架の出来事を通して私たちがつかむべき福音の真髄だと説く。十字架はイエスの敗北ではなく、究極の勝利であり、同時に全人類に対する最大の愛の表現であったことを、私たちは決して忘れてはならない。 かくして、張ダビデ牧師が強調する十字架神学の核心は、イエスが罪を知らないお方でありながら罪人の座に降り、完全な犠牲のいけにえとなって神と人間を和解させてくださったという点にある。ヨハネの福音書に示される「The Crucified God(十字架にかけられた神)」というイメージは、宣教や牧会の現場でクリスチャンたちが抱くべき中心的価値とアイデンティティを反映している。より多くのもの、より良いもの、より快適な生活を追い求める世の中で、教会と信徒はまったく逆の道を進むというメッセージが、ここには込められている。それは主がたどられた「十字架の道」であり、まさにその道において私たちは、自分の欲と傲慢、世の虚しい欲望を捨て、ただ主の恵みと愛に頼って生きることを学ぶのだ。 したがって張ダビデ牧師は、私たちが常に十字架の下へ立ち返り、その現場を生々しく見つめなければならないと教える。イエスの最後の下着をめぐりローマ兵たちがくじ引きをする光景は、私たちと無縁の過去の野蛮な行為ではなく、今日の教会や信徒にも起こり得る出来事だと自覚させる。十字架を「所有と貪欲」の道具に堕落させようとする世俗的企みに、自らが染まってはいないかを点検すべきだというのである。同時に、何一つ残さずすべてを与えてくださるイエスの姿は、私たちの信仰を奮い立たせ、主に倣いたいと願う気持ちを呼び覚ましてくれる。張ダビデ牧師は、この箇所で教会が世の中に生々しく示すべきことは「無所有」や「禁欲」を通り越して、必要とされる場所に喜んで自分を捧げ、苦難に同伴する愛の実践だと解釈する。 十字架の現場には、「強盗たちの間に置かれた神の御子」「最も汚れた場所で最も清らかな方が死なれた」というアイロニーが満ちている。このアイロニーの中で、罪人であった私たちがイエスの恵みによって救われたことを、改めて思い起こさずにはいられない。本文に登場するこの矛盾に満ちた光景は、かえってイエスの絶対的主権と愛をいっそう際立たせる。そしてその愛は、十字架の下に最後までとどまっていた女性たちの姿と重なり、真の献身と勇気を示すのである。張ダビデ牧師は、この女性たちの純粋な信仰と犠牲的な愛を、教会が学ぶべきだと力説する。愛だけが恐れを追い出し、愛だけが十字架の深い苦しみの中でも私たちを主のそばから離れないようにしてくれるのだ。 ヨハネの福音書19章の記録は、イエスの十字架の出来事がどのように聖書の預言(詩篇22篇など)を成就し、同時に神の聖なるみこころの中で完全な救いを成し遂げたのかを劇的に示している。張ダビデ牧師がこの本文で強調する中心点は、キリストがご自分で下り、捨て、すべてを献げられた道こそが真の勝利であり、私たちに与えられた聖なる召しであるということだ。ピラトの強引で政治的な処分も、ローマ兵の欲にまみれたくじ引きも、ユダヤの指導者たちの冷酷な叫びも、結局はイエスが歩まれた贖いの道の前に無力となる。イエスが「ユダヤ人の王」として掲げられた木の十字架こそ、どんな政治的策謀や世俗的欲望よりも力強い真理の象徴だからである。 このように、十字架にかかられたイエスを仰ぎ見るとき、私たちはイエスの絶対的な献身と神の国の価値を悟る。そしてその道を自分も歩むべきことを自覚する。張ダビデ牧師は、イエスの十字架の道こそ教会を生かす恵みの源だと宣言する。依然として世は私たちの注意をそらし、貪欲や利己心を煽ってくるが、十字架を見上げる者には主の愛とへりくだり、犠牲と献身の霊が注がれる。罪を知らない神の御子が強盗たちの真ん中で苦しみに遭われたのは、私たち全員を強盗のような罪人の状態から救い出すための、主の深い愛のゆえであった。この愛は今日においても変わらず有効な福音のメッセージである。私たちはこの福音を握りしめて十字架の下へ進み、張ダビデ牧師は、この福音を通して教会が世に与えられる最大の贈り物は、イエスの聖なる犠牲を伝えることだと強調する。 2. 十字架 イエスの十字架の死は2,000年前の歴史的出来事ではあるが、今の時代の教会とキリスト者にもなお深い影響を及ぼしている。現代社会は物質主義と個人主義が蔓延し、教会さえも世俗化の波に揺さぶられることが多い。このような状況の中で、張ダビデ牧師はヨハネの福音書19章18節から続く十字架の場面を通し、教会と信徒がしっかりと握るべき核心価値を強調する。彼は十字架の出来事がもつ霊的教訓を二つに要約する。第一に、私たちに対する神の自己放棄と犠牲の愛こそが救いの本質だという事実、第二に、その愛が具体的な生活の実践につながらなければならないという事実である。 まず十字架の出来事は、「神の御子が強盗たちと共に架けられた」という姿から、劇的な逆説を肌で感じさせる。イエスは罪人として死刑宣告を受けられたが、実はその罪人たちの罪を引き受けてくださる代償のみわざを行われている場面なのである。この矛盾した状況を現代教会の視点で捉えるなら、しばしば教会共同体も世の中で誹謗中傷を受け、嘲られることがあるが、それでもなお真の福音の核心を示さなければならないという挑戦を得ることができる。張ダビデ牧師は、教会が世のただ中で「十字架神学」を体現するとき、むしろ世の「強盗のような罪人たち」が救いの門へ招かれるのだと説く。 しかし問題は、教会がときとして「十字架の精神」を忘れ、物質的豊かさや対外的影響力、権力との結託といった誘惑に陥ることである。これは、ローマ兵が十字架の下でイエスの服を分けるために賭博まがいのくじ引きをした姿と大きく異ならない。私たちも主の恵みを求めて信仰生活を送ると口では言いながら、実際には「どうすればもう少し多くの得を得られるか」「どうすれば自分の所有や権威を拡張できるか」を考えてしまうことがある。イエスが最後に残した一着の服を手に入れるためにくじを引いた兵士たちの姿は、現代の教会においても他人事ではないと悟らねばならない、と張ダビデ牧師は指摘する。 張ダビデ牧師は、この点でイエスが決して世俗的な方法でご自分の王権を行使したり、物質的富を追求したりされなかったことを思い起こさせる。むしろ主は世の王たちとは違い、へりくだって仕えるしもべの姿で働かれ、ついには何も持たないまま、最も恥ずかしい方法で死なれることによって、神の救いのみわざを完成なさったのである。この点で、教会と信徒は「十字架の霊性」を回復すべきだという強い挑戦を受ける。私たちはイエスの弟子であることを誇りつつも、実際の生活では世の成功法則や富と栄華を追う二重の態度をとりがちである。しかしイエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)とおっしゃった。これこそ教会と信徒に求められる生き方である。 このように、十字架は恥辱と屈辱、さらには死の象徴であると同時に、キリスト者の生を新たにする復活の希望の出発点でもある。張ダビデ牧師は、十字架なしには決して復活はなく、自己否定なしには新しい命を味わうことはできないと強調する。だからこそイエスを信じて従う信仰共同体は、常に十字架の愛を黙想し、それを生活の中で実践しなければならない。そうしてこそ、教会は世の中で真の光と塩の役割を果たすことができるのだ。イエスは強盗たちとともに架けられ、ローマ兵の侮辱を受け、民衆から「自称ユダヤ人の王だ」と嘲られた。しかし、このすべての屈辱の中にあっても、主は神の力で報復したり反撃したりすることなく、終わりまで沈黙のうちに赦しを宣言された。「父よ、彼らをお赦しください」という祈りは、人間の視点からすれば理解し難い愛の極みである。 これを再び現代の信仰現場に当てはめてみると、教会は些細な問題で紛争を起こし、赦すよりも報復し合い、イエスが教えられた愛の戒めを顧みないことがいかに多いかを振り返らせる。張ダビデ牧師は、十字架が教会の真ん中に高く立てられているべき理由はまさにそこにあると説く。十字架が飾り物で終わったり、宗教的象徴として利用されるだけでなく、私たちの生活と信仰、そして共同体の中で実際の変化や和解、赦しをもたらす力として働かなければならない。それこそが真の十字架のパワーであり、教会が世に善い影響を及ぼす方法なのである。 さらに十字架のもとで最後まで主を見守っていた女性たちの姿から、教会は「結局は愛が残る」という真理を学ぶべきである。危険な状況下でも主のそばを離れなかったこの四人、すなわちイエスの母とその姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアの存在は、イエスへの深い愛が恐れを超えた具体例である。人間的な合理的計算で考えれば、十字架の処刑場に残ることは無用な危険を招く行為かもしれない。だがイエスへの愛が彼女たちを離れないようにし、最終的には復活の朝にも誰より早く主と出会う祝福へとつながった。教会がこの愛の精神を失わないとき、世から嘲られ迫害されても、復活の証人となれるのだと張ダビデ牧師は見る。 張ダビデ牧師は「愛が恐れに打ち勝つ」という原理を強調し、教会が世俗的誘惑に勝ち、福音の真髄を守り抜く道は、十字架の愛にしっかりと立つしかないと説く。どんなに教会の礼拝や活動が規模が大きく派手でも、その中に十字架の精神が生きていなければ、結局人々の心を動かすことはできず、神の力も現れない。世は今も教会が誇る強大な財政力や壮大な建築物ではなく、「本物の愛」を探している。そしてその愛は、ただ十字架の上ですべてを差し出されたイエスの姿にこそある。 このように、十字架の出来事は単に昔の痛ましい死の物語ではない。教会が存在する限り、十字架は絶えず私たちの罪を省みさせ、同時に赦しと愛の道を歩めと招く。イエスが罪なく死なれたにもかかわらず、兵士や宗教指導者たちがその方をあざ笑い、その服さえも奪い取ったように、現代でも教会や信徒は不当な扱いや嘲笑を受けることがある。だがまさにそのときこそ、世とは異なる道を見せるチャンスでもある。私たちはローマ兵たちのように、より多くの利益を得るために騒ぎ立てる「くじ引き」に夢中になるのではなく、イエスの歩まれた道を黙々と追いながら愛を分かち合い、痛みに寄り添わねばならない。 張ダビデ牧師は、これを「十字架型の弟子道」と呼ぶ。すなわち、弟子道とは王として君臨し世を支配するあり方ではなく、自分を捨て、世の罪や傷に共にあずかりながらも、他者への愛を実践することにある。そういう意味で十字架は弟子道の究極のモデルである。ここには「自分を否定し自分の利己心を下ろす苦難の過程」が必然的に伴うが、その苦難の先には復活の栄光がある。この過程に参加することこそが「聖なる道」であり、教会が担うべき本分なのだ。 張ダビデ牧師は説教や著作を通じ、教会が十字架のメッセージを現代的文脈にどのように適用できるかを具体的に提示する。たとえば、物質至上主義と競争構造が激化する社会にあって、教会が物質的に豊かな行事や施設投資ばかりに注力するのではなく、社会的弱者や苦しむ人々のために進んで自分たちの資源を使うべきだと勧める。また、政治権力に寄り添ったり、世俗的影響力を行使しようと努める代わりに、イエスのように低いところで仕え、他者を尊重する文化を築いていかなければならないと主張する。これこそ十字架の精神を実践的に体現することだというのである。 今日、教会が直面する挑戦は多岐にわたる。若者が教会を離れ、ポストモダン思想や多元主義、価値相対主義が氾濫する中で、教会の影響力は弱まっている。しかし張ダビデ牧師は、教会の真の影響力は華々しいスローガンやプログラム、あるいは現実の権力との提携から出てくるものではないと強調する。むしろ純粋な福音を握り、十字架の前で自らを低くし、キリストの愛を実践する教会がこそ、世に本物の変化をもたらし得るのだと力説する。これは歴史を振り返ってみても、十字架中心の霊性と実践を大切にしてきた教会こそが、世の中で光と塩の役割を担ってきた前例からも裏付けられる。 したがって、教会と信徒が日々の生活の中で十字架を見つめる訓練が必要である。十字架はすなわち「自分が罪人であることを認め、イエスがその代わりに死んでくださった」ことを告白する場である。同時に、その愛によって私たちも人を赦し、愛することができる力を受ける場でもある。現代教会の諸問題は、実はこの十字架の霊的本質を捉えられなくなったときに起こるのだ、と張ダビデ牧師は指摘する。礼拝スタイルの変化やプログラムの刷新、組織改革より前に、最も根本的に回復すべきは十字架神学なのである。 十字架のそばに最後まで残っていた女性たちの行動が、現代のキリスト者にとって「教会のアイデンティティ」を思い出させるという点も見逃せない。女性の弟子たちは当時、社会的弱者であり、法的地位も保障されていない立場にあった。だが、彼女たちの献身と勇気はむしろ十字架の核心的証人となった。今日においても、教会は社会的弱者や疎外された人々、声を上げにくい人々と連帯し、その側に立つとき、十字架の精神を具現できる。張ダビデ牧師は、教会が単に建物の中で集まって礼拝を捧げる共同体にとどまらず、「涙する人々と共に泣き、疎外された人々を積極的に顧みる開かれた共同体」となるべきだと、繰り返し強調している。 十字架の出来事が現代教会に投げかけるメッセージは明確である。教会は十字架の精神、すなわちイエスが示された自己犠牲と愛のモデルに倣わねばならない。教会の内に争いや分裂があっても、十字架を仰ぎ見て互いに赦しと和解の道を探らねばならない。社会が教会を非難し嘲笑するとしても、主が背負われた十字架の道こそが命の道であると信じ、いっそう謙虚に身を低くすべきなのである。そして教会のそのへりくだりこそが、世に仕え、愛を届ける通路となるとき、かえって多くの魂が福音のもとに立ち返ることになる。張ダビデ牧師は、これこそ「十字架に架かられたイエスの道が今日も生き生きと展開される姿」だと結論づける。 ゆえに、ヨハネの福音書19章に描かれたイエスの苦難と死を黙想する際、自分の中にある世俗的欲望や利己心を捨て、主の御心を宿すことがいかに大切かを切実に悟らなければならない。イエスの弟子の多くは苦難の前に散り散りになったが、十字架のそばに残った者たち、特に女性たちは最後までその愛を手放さなかった。同様に、現代教会が「十字架の愛」を最後まで捨てないならば、世の非難や迫害の中にあっても、主が備えてくださる復活の栄光を味わうことができるだろうと、張ダビデ牧師は語る。 十字架の出来事は、キリスト教福音の核心を余すところなく包み込み、イエス・キリストの王としてのご性質と大祭司としてのご性質を同時に表わしている。しかし、この驚くべき救いの完成は、ローマ兵やユダヤ指導者たちの残酷さと無情さの真っ只中で起こったという事実が逆説的である。これは、教会と信徒が罪に満ちた世の中でいかに聖と愛を実行すべきかを示す重大なヒントとなっている。私たちは世と妥協したり、不当な嘲笑を恐れて身を隠すのではなく、十字架のもとでイエスの足跡をたどり、強盗のようであった罪人をも生かされたその恵みを伝えなければならないのだ。張ダビデ牧師は、このように「十字架の霊性に武装した教会だけが、最終的に世を変えることができる」と宣言する。 十字架は涙と苦しみ、さらには死を意味するが、同時に復活と希望、救いの門を開く鍵でもある。キリスト者になるということは、この十字架を仰ぎ見て生きると決断することであり、教会が教会らしくあるということは、この十字架の精神ですべての働きと生活の優先順位を再び整えることにかかっている。十字架の前に立つ私たちは、もはや兵士のようにくじを引いて些細な所有を争ったり、権力者のように政治的損得を勘定したりはしない。私たちは神の愛にとらえられ、主がその血によって買い取られた魂たちを尊く思い、痛みの中でも主を見放さない者となる。 張ダビデ牧師の教えによれば、十字架の出来事は教会と信徒の「霊的出発点」であり、同時に「継続的帰依点」でもある。出発点とは、私たちがイエスの死によって罪赦され、救われたからであり、継続的帰依点とは、日々自分を捨ててイエスの道を歩もうと決意しながらもしばしば失敗する私たちを、再び立ち上がらせる力が十字架のうちにあるからである。世はいまだに強盗や貪欲な兵士たちであふれ、自称王を名乗る者たちが跋扈している。しかしイエスが示された贖いの愛は、今も生きて働き、罪人たちを救いの場へと導いておられる。 ゆえに教会は十字架中心へと立ち戻り、この愛を宣言し、自ら実践し、復活の希望を失わない共同体であるべきだ。イエスがローマ兵の手によって奪われた「あの一続きに織られた服」は、ある意味、すでに裂かれたイエスの身体を象徴しているともいえる。主の身体が裂かれ血を流されたからこそ、私たちは救いにあずかることができるのだ。この事実の前で、教会はもはや自分のために何かをつかもうとすることはできない。主がすべてを与えてくださったなら、私たちもまた喜んで分かち合い、献身し、愛するのが当然である。 張ダビデ牧師によると、十字架の出来事を通した教会の霊的成熟は、大きく二つの軸に集約される。第一に、イエスの徹底的な犠牲が私たちの罪をあがなったという事実を信じる「恵み」の次元。ここでは私たちはもはや罪悪感や無力感に縛られることなく、自由と喜びをもって礼拝し仕えることができる。第二に、その恵みが私たちをして世の中で「十字架の愛」を実践させる「弟子道」の次元である。恵みを受けた者は、結局、自分も誰かに恵みを流し出さなければならないことを悟る。それこそが教会の本質的な使命だ。 このように十字架の出来事は、私たちの信仰をしっかりと支え、教会が世のただ中でどのような価値観をもって生きるべきかを明確に指し示す。張ダビデ牧師は、十字架に含まれたこの重大なメッセージを見失わないよう、日々黙想し、実践していくことを強調する。そうするとき、教会は単なる宗教組織以上の存在意義をもつようになり、現実に世の中を癒し、生かす神の力の通路となる。イエスが強盗たちの間で弁明ひとつせず死なれたあの場面が示す衝撃的な愛、そして最後に残った服さえも奪われて初めて完成した救いの歴史こそ、今日も私たちを回復させ、新たに生まれ変わらせる福音の源泉なのである。 http://www.davidjang.org

  • 苦難の中で見出す救いと和解への道 – 張ダビデ牧師

    1. 苦難の中での信仰的態度 張ダビデ牧師は、これまで何度もの説教や講演を通じて、信仰者が困難や苦難のただ中でどのように生きるべきかを強調してきた。彼が語る核心は、「苦難の時期や厳しい状況は必ず訪れる」という事実と、「イエスを信じる者は世の人々とは異なる姿勢を示さねばならない」という点である。イエス様がマタイ6章17節で「断食する時には頭に油を塗り、顔を洗いなさい」とおっしゃったのも、苦難の時にただみすぼらしい姿ばかりしているのではなく、むしろさらに毅然として聖く立つべきことを示す例だと理解される。これは、ただ外面で暗い顔をして悲しみを強調するのではなく、内面において神を頼り、しっかりと立っていなければならないという意味である。 張ダビデ牧師は、このみ言葉を通して「イエスを信じる人は、苦難に対する態度からして違う」と力説する。世の人々にとっては恐れや心配が支配的になりがちだが、イエスを信じる者であるならば、この恐れを追い払う力を持っていなければならないというのだ。したがって、苦難は必ず過ぎ去るという事実を覚えつつ、その期間をどのように生きるかが、その後に大きな差を生むと教えている。 新型コロナウイルス(COVID-19)をはじめ、世界的に「ソーシャルディスタンス(社会的距離の確保)」が実施されていた時期を例に取り上げながら、私たちがどれほど「神様よりも人と近く結びついて生きてきたか」を振り返る契機となるという。人々が自由に動き回りにくく、顔を合わせて交わりにくい状況は、逆説的に神様にさらに近づく時間とすることができる。 張ダビデ牧師は、このように制限された環境こそが、私たちに与えられた「チャンス」だと捉えている。人との物理的距離をとらねばならない時点で、その代わりに神様との距離だけはより近づける必要があるというわけだ。世の中で感じる不安、孤独、もどかしさは、神の御前で回復され得るものであり、とりわけこの時期にこそ聖書の言葉をより深く読み聞きし、黙想すべきだと力説する。彼が四旬節(サシュンセツ)の期間の例を挙げるのもこのためだ。四旬節はイエス様の苦難を記念し、十字架の意味を深く味わう期間である。ここで言う40日の意味は、私たち自身がイエス様の苦難に共にあずかり、その苦難を通じて与えられた救いの恵みを体験することにある。 さらに張ダビデ牧師は、牛の胃が4つあるという事実に言及し、「一度食べたものを夜にもう一度取り出して反芻する」ように、私たちも一度目を通した聖書の言葉を再び反芻しなければならないと説く。つまり、ただ何度か読んで通り過ぎるレベルではなく、心の奥底に深く刻み、毎日のようにもう一度取り出して黙想し、実践せよという意味である。そうすることで私たちの霊と心が御言葉によって豊かにされる。彼は「天の牛(ハネルソ)」という表現を使い、ちょうど胃が4つある牛が何度も反芻するように、聖書の御言葉を繰り返し味わい、その意味を反芻し、深く受け入れる習慣を持つべきだと重ねて強調する。 こうした文脈の中で、彼が特にローマ書の学びを勧めるのは、使徒パウロの福音神学が集約されたローマ書にこそ、福音の本質や神の義、人間の罪と救い、義と認められること、聖霊の働き、教会の生き方など、キリスト教信仰の核心が体系的に込められているからである。張ダビデ牧師は、「今回の苦難のおかげでローマ書を極めたと言えるほど集中して学んでみなさい」と勧める。また、かつて自分が各地でローマ書を講義した資料があるから、それを家で義務的にでも学習し、子どもたちにも分かりやすく教えてほしいと促している。子どもたちは既に知的能力が高くなっているので、その核心をよくまとめ、四つの法則(サ영리)に代表されるような救いの教理の基本を正しく植えつけねばならないというわけだ。 張ダビデ牧師は「基本姿勢が重要であるように、子どもたちにも福音と救いの核心を“基本”としてしっかりと教え込むことが絶対に大切だ」と語る。外出が自由にできない時期こそ、こうした信仰の基本を再び学び、御言葉を洞察する絶好の機会だというのだ。エレミヤ21章8節にあるように「主はこう仰せられる。見よ、わたしはあなたがたの前に命の道と死の道を置く」とある。この聖句は、まさにこの期間が命の道と死の道が同時に置かれた時になり得ることを示唆している。魂だけでなく肉体も損なわれる危険があり、世的にも社会的にもより深刻な状態が訪れる可能性もある。しかしそうした環境が私たちを追い込むほど、私たちの視線はますます神へと向かうべきだというのが、張ダビデ牧師の勧めである。 では、どのようにして神を知り、イエス様を親しく知ることができるのだろうか。張ダビデ牧師は、その道こそ「御言葉」によってであると語る。ローマ10章6節から8節を引用しながら、イエス・キリストを知るためにわざわざ天に上る必要も、よみ(無底坑)に下る必要もないという事実を思い起こさせる。イエス様は既に私たちのそばに来てくださっており、聖書こそがその方を知るための「最も近い道」なのだという。 「御言葉はあなたに近く、あなたの口にあり、あなたの心にある」(ローマ10:8)というこの聖句は、イエス様が直接そばに来てご自身を示されなくても、聖書を通して十分にイエス様を知り、信仰の道へ進むことができることを示唆している。だからこそ、私たちは自分の口で聖書を声に出して読み、耳で聞き、心に刻みながら、同時に口を通してそれを伝える。この行為こそ、私たちがイエス様を「見る」道であり、この世に福音を伝える道となる。伝道者の書5章2節の御言葉のように、私たちは神のみ前で軽々しく口を開くのではなく、むしろ神の御言葉にいっそう耳を傾けるべきなのだ。 張ダビデ牧師はこれを「暗い時代、苦難の時代に憂鬱に過ごすのではなく、この孤独な期間を神が与えてくださった退修(リトリート)の時間として活用せよ」という言葉でまとめる。サウロ(パウロ)がダマスコ途上で主に出会い、3日間断食し、目から鱗のようなものが落ちたことも重要だが、それ以上に、その後アラビヤで3年を過ごした期間こそ、パウロの神学と宣教活動の土台が築かれたことを思い起こさせる(ガラテヤ1:15-17)。同様に一定期間、世の活動から離れて、ひたすら御言葉と祈りに集中し、深い孤独の中で神に出会う時間こそが、霊的深みを育み、新たなビジョンを得る機会なのだと説明する。 このように家に留まらなければならない期間、社会的距離を保たなければならない時期は、インターネットなどの誘惑に陥って時間を浪費してしまう危険もある。張ダビデ牧師は「ゴミ箱をあさってはならない」と強く警告する。このゴミ箱はすなわちゲヘナ(地獄)のようなものであり、淫らなものや無駄なオンライン情報、人をそそのかすような刺激的コンテンツに溺れてはならないというのだ。むしろこの時間を通して聖さを追い求め、心と霊と体をきよくせよと勧める(第二コリント7:1)。パウロがコリントの信徒たちに「すべての汚れから自分を清め、聖潔を完全なものにしよう」と勧告したように、信者はこの世俗的誘惑から逃れる訓練が必要だ。 結論として、張ダビデ牧師が提示する「苦難の中での信仰的態度」は明快である。 苦難はやがて過ぎ去るが、その期間に積んだ御言葉の養分と霊的な筋力は決して無駄にならないと、張ダビデ牧師は語る。四旬節やその他特定の節期も、単に「義務的な断食と自制」の時間ではなく、イエス様の苦難にあずかり、福音の本質を深く悟る時間となるとき、私たちは一段と霊的に成長できる。 また、健康管理にも言及し、家の中にいる時間が増えた分、腕立て伏せやスクワット、ドアに固定する鉄棒などを活用して毎日運動すべきだと付け加える。信仰生活は、霊と肉体が互いにつながっていることを認識する生活でもある。霊的健康は肉体的健康とも密接に関連しており、肉体が活力を得るとき、霊的生活にも助けとなるという意味だ。この観点から、個人の身体と心の両方が同時に頑丈になることは、神の前でより豊かな礼拝と奉仕をささげるための基盤となる。 最終的に張ダビデ牧師は、苦難の中で「恐れるな」と語るイザヤ43章の御言葉を常にそばに置き、黙想せよと勧める。ヤコブとイスラエルに与えられたみ言葉だが、今日の信者にも同様に有効だという。「ヤコブよ、あなたを創造された主は今こう仰せられる。イスラエルよ、あなたを形造られた方がこう仰せられる。恐れるな。わたしはあなたを贖った。わたしはあなたを名をもって呼んだ。あなたはわたしのものだ。」(イザヤ43:1)という約束は、神の絶対的主権の中で、私たちが既に贖われた存在であることを思い起こさせる。たとえ水の中を通り、火をくぐる状況に直面しても、決して沈まず焼かれることはないという信仰の根拠となる。 さらに「あなたはわたしの目に尊く、尊い」(イザヤ43:4)というみ言葉まで合わせて記憶するならば、苦難の最中でも神が私たちを支え、私たちに対する大きな愛を決して手放さないという事実を、胸の奥深くに刻むことができる。こうした確信があるとき、信者は世の恐れや心配を振り払い、ただ主にだけ目を注いで生きることができる。張ダビデ牧師はこれを「アイデンティティ(本来の自己認識)の問題」と解釈する。私たちが信仰の力を失うとき、最初に消えてしまうのは「神の中における自分のアイデンティティ」だと言う。しかし私たちは既に「主のもの」であり、「インマヌエルなる神」が共におられると信じる瞬間、どのような環境も私たちを根本的に揺さぶることはできない。 このように苦難に臨む信仰的態度は、あくまでもイエス・キリストの十字架と復活に基づいている。もしイエス様が苦難を通して成し遂げてくださった救いがなければ、苦難の中で希望を見いだすという言葉自体が空疎になりうる。しかし私たちがイエスの苦難を黙想し、十字架を見上げるとき、そこに復活の希望が宿り、その希望によって恐れから信仰へと切り替えることが可能になる。張ダビデ牧師はこれを、さまざまな集会や説教で強調しており、特に復活祭を迎えるにあたって「オリベット談話(Olivet discourse)」を通し、キリストが直接弟子たちに与えられた教えを分かち合うと予告したこともある。 彼にとって「オリベット」とは、主のみ言葉が宣言された聖なる場所であり、山上の説教が与えられた場所と同じ意味を持つ。実際の修養会が開けない環境にあっても、水曜礼拝や主日礼拝、そして各人の個人的黙想を通じてその真理に向き合うことは可能だという。こうした一連の勧めは、張ダビデ牧師が苦難の時期に信者が取るべき態度について絶えず悩み、研究してきた結果でもある。結局、私たちの信仰がいっそう輝くのは平穏な時ではなく、まさに苦難のただ中で神をつかみ、御言葉に集中する瞬間であることを示しているのだ。 2. 御言葉に基づく霊的成長 張ダビデ牧師は「私たちが神を知るにはどうすればよいのか。イエス様をどのように知ることができるのか」という根源的な問いに対し、その道はまさしく「神の御言葉」によるのだと繰り返し強調する。信仰生活はただ感情的・神秘的体験だけで成り立つのではなく、キリスト教の聖典である聖書を通して神とイエス・キリストの御心を正確に理解することから始まるというわけだ。 彼がとりわけローマ書を強調する理由は、ローマ書が福音の本質や神の義、人間の罪性、そしてキリストによる救いの過程を体系的に説明しているからである。使徒パウロによって書かれたローマ書は、キリスト教信仰全体を貫く核心的教えが盛り込まれており、イエスを信じる者なら誰しも深く熟知すべき宝のような書だと言える。張ダビデ牧師は2003年にアメリカでローマ書の講義を行ったことがあり、その講義録を最近改めて読んだところ、大きな恵みを受けたと告白する。そこで多くの人にもその講義内容を学んでみるよう勧め、子どもにも分かりやすく解説してあげるよう励ましている。 彼がこのようにローマ書を強調するのは、現代社会が抱えるさまざまな問題、たとえば淫乱、暴力、貪欲、偶像崇拝などが、すでにローマ書1章に指摘された人間の罪悪と直結しているからだ。パウロはローマ書1章18節以下で、なぜ神の怒りが下るのか、人間がいかに腐敗し堕落していくのかをありのまま描写する。張ダビデ牧師は、この箇所から「私たちはもともと神の怒りの的となる存在だった」ことを悟らねばならないと述べる。 神は罪を憎まれ、罪が蔓延する世を裁かれる方であるが、同時にキリストを通じて私たちに救いの道を開いてくださった。これを知らないままでは、世に起こるあらゆる悲劇や問題がなぜ生じるのか理解しづらい。しかしローマ書を通じて「神の怒り」と「人間の罪」、そして「イエス・キリストによる救い」の筋道を把握すると、現代社会の混沌も御言葉の視点から解釈できるようになるというのが張ダビデ牧師の説明である。 また彼は詩編(詩篇)を読むことも勧める。詩編は人間の実存におけるあらゆる感情が込められた書であり、人生で遭遇する喜びや悲しみ、絶望や希望、孤独と慰めが多彩に表現されているからだ。年を重ねるにつれ、信者は詩編を頻繁に読むようになるとも付け加える。詩篇150編は、1日2〜3編ずつ少しずつ読んでいけば1か月ほどで全部読み終えることができ、その中で自分の置かれた状況と似た詩人の心情に出会うことができる。 張ダビデ牧師は、詩編を読み、暗唱し、深く黙想することで「自分の位置」を取り戻すよう勧める。「堕落」とは本来あるべき位置から逸脱することであり、すなわち神との正しい関係から外れることを意味する。だからこそ私たちはキリストの救いを必要とする。イエス様は神と私たちを結ぶ唯一の仲介者(第一テモテ2:5)として、私たちが本来いるべき場所に戻れるよう道を開いてくださったのだ。 このような御言葉中心の信仰生活は、単に知識を蓄えるだけで終わらない。張ダビデ牧師は、御言葉には私たちの霊と魂、さらには肉体さえも変える力があると力説する。結局、神を恐れ敬い、御言葉にしっかりととどまる人は、聖さと清さを追い求めるようになり、その結果、霊的健康だけでなく肉体的健康も同時に追求できるというわけだ。イエスを信じる人は祈りだけをする存在ではなく、神の創造秩序に従って自分の体もよく管理せねばならない。張ダビデ牧師が腕立て伏せを200回、スクワット、ドアに取り付ける鉄棒での運動などを具体的に勧めているのは、霊と肉が密接につながっていることを実感する実践を促すためである。 さらに彼は、教会共同体の中で御言葉を共に学び合い、互いに教え合い、伝え合う文化を作るよう呼びかける。子どもたちはすでに高い知的可能性を持っているため、ただ教会学校で形式的に学ぶ以上の体系的でしっかりとした福音教育が必要だと強調する。そこで四つの法則(サ영リ)や救いの基本教理をはっきりと伝え、子どもたち自身が御言葉を通じてイエス様と出会えるよう助けることが重要だと語る。 張ダビデ牧師は「インターネット時代のゴミ箱」から自分と子どもを守れという警告も欠かさない。ゴミ箱をあさるように、世的な刺激や淫乱、暴力的コンテンツを消費することは魂に致命的だというのだ。第二コリント7章1節の「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清めよう」というみ言葉を思い起こし、パウロがコリントの信徒たちに伝えたこの聖潔の命令は、今日においても緊急に適用すべきだと強調する。 結局、御言葉に基づく霊的成長とは、人間が堕落した本性を脱ぎ捨て、聖さを完成していく過程を包含している。ローマ書を通じて福音の核心を押さえ、詩編を通じて人間の感情の深みを知り、聖書全体を読む中で神の主権と救いの秩序を悟る。そうするうちに私たちは、自分が神の被造物であり、神の所有であること(イザヤ43:1参照)を知り、いつの時代も変わらない真理のうちに平安を得るのである。 特に張ダビデ牧師は、イザヤ43章にある「わたしがあなたを創造し、名をもって呼んだのだから、あなたはわたしのものだ」というみ言葉を深く心に留めるよう重ねて強調する。これは単に歴史上のイスラエル民族だけにとどまる約束ではなく、イエス・キリストを通して救われたすべての信者に該当するみ言葉でもある。神が直接「恐れるな」とおっしゃり、「わたしがあなたを贖った、あなたはわたしのものだ」と宣言されたゆえに、私たちのアイデンティティと存在価値は神の主権によって決定されるのだ。 その主権を認める瞬間、私たちは火の中を通っても焼かれず、水の流れをくぐり抜けても沈むことのないという確信を得る(イザヤ43:2)。イザヤ43章3節以下で神は「わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主である」とご自身のことを明かされる。私たちが恐れなく生きられる理由は、まさにその方が救い主として私たちを守ってくださるからだ。 要するに、張ダビデ牧師が提示する「御言葉に基づく霊的成長」とは、ローマ書を丹念に読み込み、詩編を黙想しつつ、聖書全体の文脈の中で神の救いのご計画を悟っていく過程だと言える。それはまた、個人の次元にとどまらず、家庭や教会共同体の中で御言葉を分かち合い、祈り、実践しながら互いを築き上げる文化が生まれるとき、信仰はさらに深まり盤石になると彼は語る。 3. 救いと和解の道 張ダビデ牧師が伝えるメッセージの最終的な指向点は「救いと和解の道」である。この道は、人間が罪を悔い改めてイエス・キリストを信じることにより、神との正しい関係を回復していく旅路である。キリスト教信仰の要は、人が神に背を向け、罪ゆえに滅びの道を進んでいたところ、イエス・キリストの十字架と復活によって新しい命の道へと招かれる点にある。 この過程で最も重要なのは、自分たちのアイデンティティである。私たちは本来、神の怒りを招かざるを得ない罪人であったが、イエス様が罪の代価を負ってくださったことにより、義と認められ、神の子として回復されることができた。ローマ書がこの事実を具体的に説明し、詩編はこの救いの体験を詩人の言葉で時に切々と、時に荘厳に歌い上げ、イザヤの預言はバビロン捕囚のように絶望的な状況下にあっても、神は依然として「あなたはわたしのものだ」と宣言される姿を示し、救いが歴史の中でいかに実現するかを教えてくれる。 張ダビデ牧師は、これを神の「主権」と解釈する。万物を創造された神は、その被造物に対する正当な所有権、すなわち主権をもっておられる。だからこそ、人間が罪を犯して別の道に逸れようとしても、神はその人間を絶えず引き戻す摂理を行使される。イエス・キリストは神と人との唯一の仲介者(第一テモテ2:5)として、既に途絶えていた道を再びつないでくださったのだ。「こういうわけで、私たちは神との平和を持とう」(ローマ5:1)というパウロの宣言は、イエス様を信じる者が最終的に得る状態が「神との和解」であることを示している。 この「和解の道」はもちろん、信者一人ひとりの救いを意味するが、同時に教会共同体、さらには世全体をも視野に入れた救いへの招きでもある。張ダビデ牧師は、世のあらゆる領域が腐敗し、罪悪が極みに達しているように見えても、福音の中で「新しい被造物」となる可能性があるという希望を繰り返し強調する。ローマ書1章で人間の罪が徹底的に腐敗した姿を描いているにもかかわらず、その結末が絶望で終わらないのは、「神の義が現れた」(ローマ1:17)と宣言し、イエス・キリストによる福音の力を示しているからだ。 したがって、聖書に基づく救いと和解は単なる「宗教的儀式」ではなく、歴史と現実を洞察する視点を提供する。世のあらゆる事柄がなぜこれほどこじれ、なぜ罪と腐敗が絶えないのか、そしてそれがどう解決されるのかを、聖書ははっきりと明かしているからだ。張ダビデ牧師は「世の秘密を解くバーコードは御言葉だ」という表現でこれを説明する。いくら複雑に見える問題も、聖書的な観点から見れば罪の起源が明確になり、それに対する解決策であるイエス・キリストの十字架の出来事がはっきりと浮かび上がるというのである。 ゆえに私たちの責任は、「神との和解」を個人的に体験するだけでなく、その福音をあまねく伝えていくところにまで及ぶ。イエス様が私たち一人ひとりに与えられた命令も、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)という大宣教命令である。張ダビデ牧師は、ローマ書を理解し、詩編を黙想し、聖書全体の救済史に関する洞察を得れば、おのずと福音を伝えずにはいられなくなると語る。 その過程で私たちはまず「罪から離れなければならない」。イエス様をお迎えすべき場所が、自分自身を高くする高慢や世への欲望、淫らな思い、偽りによって埋まっているままではならない。張ダビデ牧師はこれを「ゴミ箱あさり」と指摘し、多くの現代人がインターネットやメディアを通して、不要な情報や刺激を絶えず取り込み続ける実態を憂慮する。そのように闇に浸食されやすい時代だからこそ、御言葉によって霊魂を明るく照らし聖別することが急務だというのだ。 結局、救いと和解の道は、イエス・キリストへの信仰告白と御言葉への従順を通じて開かれ、私たちの生活の中で絶えず証しされていく。これについて張ダビデ牧師は多くの礼拝や説教、講演で繰り返し強調している。個人の敬虔生活、家庭の信仰教育、教会共同体の礼拝と奉仕、そして社会や世界への宣教に至るまで、すべての領域が「救いと和解」というキリスト教信仰の本質とつながっているのだ。 彼はイザヤ43章を例に挙げ、バビロン捕囚となったイスラエルの民に向かって神が「わたしがあなたを贖い、あなたを名をもって呼んだのだから、あなたはわたしのものだ」とおっしゃった事実に注目する。その状況で民は深い絶望の中にあったが、神は彼らを「尊く、たっとい」(イザヤ43:4)とみなしておられる。この場面は、神が罪と捕囚の状態で苦しむ人類に向かって救いと解放を宣言される具体的な実例である。かつて神がエジプトからイスラエルを救い出されたように、また今バビロン捕囚の只中にあっても救いを約束される。ここからわかるのは、どの時代であっても神の民が経験する苦難の中には神の救いのご計画が秘められており、その約束は決して消えないという事実である。 イエス・キリストの出来事こそ、このすべての救いの歴史に頂点を打つものであり、主が私たちと共におられる「インマヌエル」の奥義を完成させた。張ダビデ牧師は「なぜ私たちにイエスが必要なのか?」という問いに対し、「神を知るためであり、永遠の命と救いを得るためであり、天国の約束にあずかるためだ」と語る。つまり、イエス抜きには私たちは永遠の滅びと破滅の道を免れず、しかしイエスによって神の前に大胆に進み、本来の位置(アイデンティティ)を回復できるということである。 結局、張ダビデ牧師が説く核心メッセージは、「自らのアイデンティティと位置を点検せよ」という呼びかけに集約される。苦難の時期や困難な時、社会的距離を取らざるを得ない状況が訪れたとしても、それをむしろ「霊的退修(リトリート)」の時間とみなし、イエス様のみ前に自分の人生をおささげし、御言葉と祈りによって自分を省みようというわけだ。パウロがアラビヤで過ごした3年間に人生の進路が決定づけられ、宣教のための神学が確立されたように(ガラテヤ1:15-17)、私たちもまた孤独の時間を通じて、より深い神体験をすることができると語る。 このメッセージは決して抽象的ではない。張ダビデ牧師は絶えず聖書本文を引用し、自らが教え、研究してきたローマ書の講義を共有し、詩編黙想の必要性を説くことで、具体的な実践指針を示している。また、家庭の中で子どもに福音を伝え、一緒に聖書を読む方法(たとえば、毎日家族で詩編を数編ずつ読み分かち合うなど)も提案している。 さらに進んで、張ダビデ牧師は個人の健康も大切にするよう助言する。霊魂は肉体から切り離されてはおらず、家にこもる環境下でも規則的に運動し、身を整えながら聖さと節制を実践するようにと言う。このような姿勢を通じて、信者は苦難が過ぎ去った後も、健やかな肉体とゆとりのある信仰をもって世に福音を伝える備えを持つことができる。 結論として、張ダビデ牧師の語る「救いと和解の道」は決して漠然とした希望ではない。イザヤ書から新約の福音書、そしてローマ書やヨハネの黙示録に至るまで、聖書全体に流れている神の国の核心テーマであり、イエス・キリストが身をもって示してくださった命の道である。私たちはその道の上で、「あなたはわたしのものだ」(イザヤ43:1)「あなたはわたしの目に尊く、尊い」(イザヤ43:4)「わたしはあなたを名をもって呼んだのだから、あなたはわたしのものだ」という神の声を聞く。その声を信じる瞬間、私たちの存在は既に神に属するものとなり、キリストにあって新生した者として新しい命を得ることになる。 張ダビデ牧師は、この道こそを「和解」と呼ぶ。人間が罪によって断ち切っていた神との関係が修復され、その結果、個人の内面には真の平安と喜びが生まれる。この和解が拡大して家族や教会、社会全体の和合へとつながっていくとき、キリスト教信仰の社会的・歴史的意義が現れるというのだ。最終的に、すべての人がキリストを知り、信仰のうちに救いを体験するよう導くこと、そしてその中で栄光を受けられる神を賛美することこそが、張ダビデ牧師の願う「救いと和解」の究極的目標だといえる。 彼のメッセージを要約すると、 最終的には「イスラエルよ、恐れるな。あなたはわたしのものだ」という神の宣言や、「見よ、わたしはあなたがたの前に命の道と死の道を置く」(エレミヤ21:8)という警告、そして「御言葉はあなたに近く、あなたの口にあり、あなたの心にある」(ローマ10:8)という福音の宣言が、現代の信者にとっても切実な呼びかけとなる。張ダビデ牧師が繰り返し強調してきたのはまさにこれだ。私たちに与えられた道は命の道であり、その道を行く者は苦難の前にも恐れを払い、御言葉に満たされ、イエスの救いを確信し、神との和解を享受できる。 このように張ダビデ牧師のメッセージは一つに帰結する。それは、苦難の中でも恐れず、神に近づき、御言葉によって自らを武装し、イエス・キリストによる救いと和解を通して新しい命を生きることである。いかに世が混乱し、多様な危機が押し寄せようとも、神は「わたしはあなたを名をもって呼んだ。あなたはわたしのものだ」という救いの約束を取り消されない。むしろ困難なときだからこそ、私たちは自らを省み、御言葉と祈りを通じてさらに成熟し、隣人と社会において光と塩となる存在へと立ち上がるべきなのだ。これこそが、張ダビデ牧師が一貫して訴えてきた福音の核心であり、苦難の時代にぜひとも必要とされる霊的ガイドラインだと言える。

  • 恩恵と内なる闘い– 張ダビデ牧師

    以下の文は、張ダビデ牧師がローマ書7章全般について説教した内容を整理したものである。ローマ書7章を研究し黙想する際、また信徒が実際の信仰生活で直面する「律法と福音」「罪と恩恵」「内的葛藤と勝利」などのテーマをより深く理解する助けとなることを願う。 1) 律法と私たちの新しい関係 ローマ書7章は、パウロが律法について非常に独特な“婚姻”の比喩を提示するところから始まる。パウロはまず「夫のある女は、その夫が生きている間は法によって縛られているが、夫が死ねば自由になる」という事実を語る。こうした結婚と死の例を用いて、「律法の支配とキリストとの新しい結合」を説明しようとするのだ。人は律法が生きている間、正確に言えば自分がその律法の下に縛られている間は、律法の効力と統制の中に置かれる。しかしキリストの十字架によって信じる者が「キリストと共に死んだ」と宣言されるとき、以前には律法が持っていた支配は効力を失い、代わりに新しい関係が成立するという論理である。 興味深い点は、パウロが「夫が死んだ」とは言わず、「私が死んだ」と語ることによって、律法が消滅したとか、もはや存在しなくなったと言っているわけではないことだ。律法そのものが無効化されたのではなく、イエス・キリストと連合して十字架で死んだ者となったので、“私”が律法に対して死んだというのである。「私が死んだから、以前の関係はもはや効力をもたない」という視点は、キリスト教信仰の核心となる福音のメッセージと直結している。イエスが十字架で死なれ、その功労と代償(代贖)を成し遂げられたとき、信じる者もまた共に死んだと宣言され、律法が持っていた罪の罪定めの機能から解放されたのだ。 しかし、ユダヤ人出身の多くのキリスト者たちはパウロに「それでは律法を廃棄しても良いということか」と問いかけた。彼らは一方でローマ帝国に離散(ディアスポラ)していながらも律法の伝統を尊重しており、他方ではイエスを通して救われたという福音を受け入れていた。その過程で、律法と福音がどのように調和して結びつくのかという疑問が絶えず提起されていたのである。これに対してパウロは、「私は決して律法廃棄論者ではない」と明確に答える。律法は神の聖なる御言葉であり、一点一画たりとも消え去ることはないからだ。キリストご自身も「律法や預言者を廃棄しに来たのではない。廃棄ではなく完成するために来たのだ」と言われたように、パウロもまた律法を無価値なものとしてはいない。むしろ、キリストの十字架の出来事によって「私」という存在が以前とは変わったのであり、律法との関係が新しく再編されたのだと強調するのである。 パウロはローマ書7章4節で、この点を明確に総括している。 「あなたがたもキリストの体によって律法に対して死んだ者とされたのです。それは、ほかの人、すなわち死者の中からよみがえられた方に属するようになり、私たちが神のために実を結ぶためです。」 ここで「神のために実を結ぶためです」という目的語が重要である。律法の下にとどまったままでは決して結ぶことのできない、より豊かで満ち溢れる実をキリストのうちにおいて結べというのだ。主はぶどうの木であり、私たちはその枝であるゆえ、ヨハネ15章で明言されたように、キリストにつながっていなければ多くの実を結ぶことはできない。枝がどれほど努力しても、木を離れては実を結べないのと同じように、律法の下だけにとどまる生き方は実を結ばない生き方になりやすい。律法には罪を明らかにし、規制する効力があるが、「究極的ないのちの実」、すなわち恵みによる救いと聖霊の力による霊的成熟をもたらすことはできないからだ。 さらに7章6節には「霊の新しき方式によって仕えるのであって、律法の文字の古い方式によるのではありません」という御言葉が出てくる。これはただ戒めを文字どおり守るだけの律法主義的な信仰ではなく、聖霊の内的な導きに従う生き方へと移行せよという招きである。イエスが別れの説教(ヨハネ13~17章)で教えられたように、私たちは主の愛にとどまることで真の自由を得、より多くの実を結び、喜びが満ち溢れる恵みを味わえるのだ。 実際、キリスト教の2千年の歴史において、恵みと律法のバランスを取れなくなったとき、大きな問題が生じてきた。律法主義と律法廃棄論という二つの極端は、教会を弱体化させてきたのである。律法主義は過度の罪定めと裁きを生み、互いに慈しみや赦しがなくなり、信仰生活が枯渇してしまう。一方、律法廃棄論に陥ると、罪を軽く考えて安易な放縦へと流れがちになる。どれほど恩恵の福音が強調されようとも、神は今もなお義と正義の神であられ、私たちが守るべき法があることを忘れてはならない。この二つのどちらか一方が完全に崩れてしまえば、信仰のバランスは崩壊するのである。 このように、ローマ書7章は「キリストと結婚した人」という比喩を通して、一見するとかなり難解に見えるが、その結論は非常に明快である。過去には律法がまるで「夫」のように私たちを支配し罪定めを下していたが、今やキリストと結合して「私が死んだ」のだから、律法はもはや私を縛ることはできないということだ。もちろん、律法が消滅したわけではない。律法は今でも依然として神の義を示し、私たちが罪を認識する助けとなる聖なる機能を果たしている。しかしもはや、私たちは律法の呪いの下に縛られていないということが核心である。イエスが十字架において代償(代贖)として私たちの罪を身に負われたゆえ、私たちは罪と死の権勢から解放された。その結果、私は「霊の新しき律法」、すなわち聖霊の導きに従い、神を喜ばせる自発的な従順の道を歩むことができるようになったのだ。 これをさらに実際的に適用するなら、信仰生活で「これは罪だからやめよう」という“恐れ”による従順ではなく、「主を愛するがゆえに、主の御心なら喜んで従いたい」という次元の能動的な仕え方へと進むことを意味する。パウロはこの過程をローマ書やガラテヤ書、そして他の書簡でも繰り返し強調している。特にガラテヤ2章20節で、 「私はキリストと共に十字架につけられました。それゆえ、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」 と述べ、律法的な古い人が死に、キリストが私の内に生きておられるという新しい創造の御業を説明してくれる。 一方、この教理を日常生活の中で具体的に実践するためには、霊的な省察や祈り、そして御言葉の黙想が欠かせない。たとえば、張ダビデ牧師はローマ書7章の婚姻の比喩を解き明かす際に、「律法に対して死んだ者はキリストの花嫁として、以前とはまったく異なる次元の実、すなわち霊的な実を結ぶようになる」と強調する。すなわち、律法の下にあったときはただ「禁止」されることで罪を抑える程度にとどまっていたが、今や聖霊のうちにあって罪を超克する新しい喜びと実を結ぶようになるという視点だ。この観点は多くの信徒にとって実際的な慰めと確信を与える。なぜなら、律法の枠の中で信仰生活をすると、自分の罪深さと常に衝突し、「私はなぜこんなにもだめなのか」と自己嫌悪に陥りやすいからである。しかしキリストとの連合を知る者、聖霊の内なる導きを信頼する者は失望に陥らない。むしろその愛に感激して次第に神の善き御心を行うようになり、それこそがパウロの言う「神におささげする実」となるのだ。 要するに、第一の小テーマでは「律法と私たちの新しい関係」がいかに再定義されたかに焦点を当てる。死によって、もはや律法に縛られず、キリストと連合して豊かな実を結ぶ「信仰の自由」が強調され、律法が決して廃棄されたのではなく、より高い次元、すなわち恵みの支配の下で真の従順が可能になったという事実が核心といえるだろう。 2) 律法の機能と人間の限界 ローマ書7章の中盤に移ると、パウロは「それでは律法自体が悪いのか」という疑問に答えている。パウロの宣言によれば、律法は罪を罪として露わにする機能をもつ。言い換えると、律法がなければ罪を“罪”として認識することはできないということだ。たとえば、「隣人のものをむさぼってはならない」という戒めがなければ、人は心でむさぼりを抱くことが罪だとは少しも思わなかっただろう。この点からすれば、律法は実に有益である。律法は鏡のようなものであり、自分の顔についた汚れを映し出す役割を果たす。その鏡があって初めて、自分自身の姿を正確に知ることができるのだ。 ところが問題は「罪の狡猾さ」である。律法が教えてくれる、すなわち「これは罪だから行ってはならない」と教わるほど、人間はかえって好奇心を刺激され、やってみたいという内的欲望が芽生えてしまうという。子どもに「絶対にこのおもちゃには触れないで」と言えば、むしろそのおもちゃにますます触れたくなるのと似ている。これこそが罪が戒めを利用して私たちの内に入り込む姿なのだ。パウロはローマ書7章8節で、「罪が機会をとらえて戒めによってあらゆるむさぼりを私に起こさせた」と告白している。律法自体は善で聖なるものなのに、罪がそれを利用して人間を堕落させる状況が起こるゆえ、人間の惨めさがありのままに露呈されるのである。 これは創世記3章を見れば分かる。神は「善悪の知識の木の実を食べてはならない。食べれば必ず死ぬ」と言われたが、サタン(蛇)はそれをきっかけにエバを誘惑し「本当に神はそう言われたのか。これを食べれば神のようになることを恐れて隠しているのではないか」とそそのかした。冷静に考えれば、その律法(「食べてはならない」)は人間を守るためのものであったのに、罪はそれを逆手に取り、アダムとエバを誘惑したのだ。そうして彼らはわずかな疑いと欲望に囚われ、ついに禁じられた実を食べてしまった。パウロは、この世界がいかに狡猾で複雑かを解き明かしつつ、律法には「罪を露わにする」善なる機能があるものの、罪に陥った人間の実存があまりにも弱いために、むしろ罪に振り回される危険性があることを指摘している。 しかしパウロはこれを「だから律法が罪なのだ」と結論づけたいわけではない。「律法は聖なるものであり、戒めは聖であり正しく善なのだ」とローマ書7章12節ではっきりと断言する。ここに示される神学的メッセージは明快である。神から与えられた戒めは善であるが、罪に汚染された人類がその戒めを完全に守るのは不可能だということだ。そして、この不可能性こそが、人間に「恩恵」を渇望させる要因となる。つまり、律法は大きく聖なる基準を提示することによって、人間が自らを義とすることはできないと悟らせ、最終的に人間に「私はどうしようもない罪人です」と認めさせて神の救いを仰ぎ見るように仕向ける教師(師)の役割を担っているのである。ガラテヤ書でもパウロは「律法は私たちをキリストへ導く養育係(モンハペダゴゴス)」だと言わなかっただろうか。 パウロはこうした論旨を展開しながら、さらに重要な事実を明らかにする。「律法によらなければ罪を知らなかった」という言葉は、律法が罪を抑制しさらけ出す機能を持っているものの、その罪の問題を根本的に解決してくれるわけではない、という限界を示唆しているのである。この点について、張ダビデ牧師もローマ書の説教で「人間の根本的な罪性は、律法の教えだけでは抜本的に取り除かれない。むしろ律法が強調されればされるほど、人間の欲望は別の方向へ発散しようとする傾向を見せる」と説明している。これはどういうことか。律法の順機能は罪を示すことだが、その罪を除去する根源的な力は福音、すなわちイエス・キリストの十字架の出来事にあるということだ。言い換えれば、律法は「罪がいかに深刻か」を教えてくれ、その結果、人間は「私はもう望みがない。唯一キリストの恵みしか道はない」という結論に至る、というわけだ。 では、そもそも律法はなぜ必要なのか。パウロの言い分を簡潔に整理すると、次のとおりである。まず、律法は罪を認識する第一段階として不可欠である。誰かが自分を正しい人だと思っているなら、その人は律法の基準の前に立ったとき、初めて自分がいかに大きな罪人であるかを知らされるのだ。この事実を通過していない者は、決して「私は罪人です」と告白することはできない。最終的に律法は一種の「懐中電灯」「フラッシュライト」とも言え、闇の中に隠されていた罪を照らし出す。光があることで罪の実態が露呈し、信じる者は「ああ、私はこんなにも罪深い者だったのか」と嘆きつつ悔い改めに進むことができるのである。しかし、それで終わりではない。律法は罪の正体をさらけ出して抑制することができるかもしれないが、罪を根底から消し去る力は持っていない。その時点で必ずキリストのもとへ移らなければならない。そうしてこそ贖罪の恵みが与えられ、聖霊の力によって罪との戦いにおいて実際的な勝利を味わうことができるのだ。 パウロがこの章で言う「苦悩(곤고함)」とは、律法がいかに善いものであるかを知りながら、それを守る力が自分にはないと痛感する時に訪れる苦しみである。果てしなく高く美しい基準の前で、自分はとても達することができないという絶望感がそのままに伝わってくる。しかし、これは決してパウロだけの問題ではなく、すべての誠実な信徒にも共通する告白である。「神の御心が善いと知っていて、それが正しいと分かっているのに、なぜ私はこんな有様なのか」という嘆きは、私たちが福音の前で自分をへりくだらせなければ、究極の絶望へとつながってしまう。 しかしパウロはそこで終わらず、7章の最後の部分に至ると、解決策を賛美で宣言する。「この死の体から、だれが私を救い出してくれるのか。私たちの主イエス・キリストによって神に感謝します!」という結論の言葉である。律法が罪を露わにし私たちを絶望させたが、その絶望の真っただ中で十字架の贖い(救贖)を見上げるとき、私たちは初めて希望を得ることができる。それこそが、「律法の機能と人間の限界」という第二の小テーマの核心なのだ。いかに律法が精妙で完璧であろうとも、罪の中に陥った人間にはその法を完全に成就することはできない。結果として、人の内には「ああ、私はなんと惨めな人間なのだろう」という嘆きがわき上がるが、その嘆きはキリストにあって救いの希望へとつながる。律法は私たちをキリストへ導く門番であり、私たちの無力さと限界を暴露しつつ、同時にキリストの恵みがいかに絶対的に必要かを示す役割を忠実に果たしているのである。 3) 聖徒の内的葛藤と恩恵の勝利 ローマ書7章の後半には、パウロの有名な告白である「願っている善を行わず、かえって望まない悪を行ってしまう」という嘆きの言葉が登場する。この箇所は、真剣に信仰生活をしてきた人なら誰しも共感せずにはいられないだろう。すでにイエス・キリストを信じ、義と認められた信徒であっても、依然として罪の性質や肉的本性が残っており、ときにはつまずいて罪を犯してしまう。「自分がやりたいことは行わず、むしろ憎んでいることを行ってしまう」というパウロの嘆きが、そのまま心に響いてくる。 この問題は単に「信徒が罪を犯せば再び罪定めを受けるのか、それともそうではないのか」という表面的な問いに終始するのではなく、パウロはより深い霊的な実存の葛藤を語っている。彼は一方で「私は内なる人としては神の律法を喜んでいる」と言う。これが、いわゆる「新生した内面」、「新しい被造物」としての自己である。同時に「私の肢体の中にはもう一つの法、すなわち罪の法があって私を捕えようとする」とも告白する。これは肉的本性、アダム的な罪の性質がまだ完全に消え去らずに残っているということだ。このように二つの法が対立するため、聖徒の内面では日々霊的戦いが起こり、その過程で「ああ、私はなんと惨めな人間なのか!」という嘆きがほとばしるのである。 しかしここで重要なのは、パウロがこの告白をしているからといって、自分が完全に敗北主義に陥っているわけではないという点だ。彼は当時、最も情熱的な使徒の一人であり、福音のために生涯を捧げた人物である。それにもかかわらず、「私は不十分で、願っている善を行えず、私の内なる罪が私を打ち負かす」と言うのだ。これは、キリスト教の霊性が示す美しい逆説を表している。すなわち、「自分の弱さを自覚する者こそ恩恵をつかむことができ、自分を強いと思っている者は恩恵の必要性を感じない」ということである。パウロがしばしば引用した御言葉のように、神の力は「弱さのうちに完全に現れる」のだ。 それにもかかわらず、パウロがローマ書6章や8章などで繰り返し強調するように、「罪はもはやあなたがたを支配できない。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのだから」という宣言がある。聖徒は罪と死の権勢の下に置かれた者ではなく、たとえ罪の誘惑や習慣的な弱さによってつまずくことはあっても、最終的には罪が私たちの“主人”となり得ないのだ。理由ははっきりしている。私たちはすでにキリストの血によって「贖い」され、神の子どもとされた者であり、聖霊が私たちの内に住んでくださるがゆえ、「アバ、父よ」と大胆に近づくことができるからである。まだ肉の性質が残っているゆえに葛藤はあっても、罪の支配は終わったというわけだ。 ローマ書7章24節の「私はなんと惨めな人間でしょう。この死の体から誰が私を救い出してくれるのでしょうか」という痛切な絶叫に、すぐ続く25節こそが頂点である。「私たちの主イエス・キリストによって、神に感謝します!」。最終的にこの戦いで勝利させてくださる方はイエス・キリストであり、その恵みこそが聖徒の希望なのだ。パウロは、自身の弱さと葛藤、繰り返される失敗と罪の苦悩のただ中においても、「イエス・キリスト」を仰ぎ見るとき、感謝と賛美が湧き上がる。それはすなわち「死からいのちへと救い出してくださる方」への確かな信頼に基づくものであり、同時に救いの完成が私たちの力や義ではなく、純粋に神の恵みにかかっていることを逆説的に証する場面でもある。 こうした内的葛藤と恩恵による勝利について、張ダビデ牧師もまた信仰相談や説教でしばしば触れている。イエス・キリストを信じ罪の赦しを受けたからといって、一瞬ですべての悪習や罪がなくなるわけではない。むしろキリストを真実に経験した信徒であれば、以前は鈍感だった罪がより鮮明に見え始め、それゆえ余計につらく感じることもある。しかしそれは、恵みの中で「霊的な成熟」へ向かうプロセスであり、より深い悔い改めと真の聖さを渇望する心を呼び起こす。そのときこそ、聖霊の助けを求め、御言葉と祈りにより自らを武装するとき、私たちは次第に罪の勢力に打ち勝つという実際的な経験を得るようになる。たとえ完全無欠の“罪なき”境地に達するのは困難だとしても、罪がもはや私を支配できないようにする聖霊の力が共にあるという確信の中で生きられるのだ。 ローマ書8章に入ると、パウロは「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は決して罪定めされることはありません」という有名な宣言をする。この文脈を正しく理解するためには、7章でパウロが痛烈に告白した内的な分裂と挫折、そしてキリストによる究極的勝利をまず押さえておく必要がある。「私は罪人の頭であるが、イエス様が私を救ってくださったゆえ、私は決して罪定めされることがない」という逆説こそ、パウロの書簡全体を貫く恩恵の福音なのである。 それでは私たちは実際の生活で、このローマ書7章の“闘い”をどのように扱うべきだろうか。第一に、自分の罪を正直に認めること。第二に、その罪から逃れたいという切実な渇望を持つこと。第三に、その渇望を実現させる道は、結局イエス・キリストの恵みであり、聖霊の助けに他ならないということだ。パウロが言うとおり、神の前で「私はなんと惨めな人間だろう」と叫ぶとき、主の声が聞こえてくる。「わたしの恵みはあなたに十分である」。この恵みをつかむ者は、律法の罪悪感に押しつぶされ、死の恐怖に閉じ込められて生きることはない。むしろ罪と最後まで戦いつつも、つまずいて倒れても、主の贖いを仰ぎ見て立ち上がり、最終的には神に感謝と賛美をささげる方向へと進む。パウロが7章の終わりで示した態度がまさにそうである。 このようにローマ書7章は、救いの教理と聖化の教理が交差する実存的な現場を示している。信じる者が「すでに義と認められたのに、なぜ私はこれほど罪に苦しむのか」という問いに真正面から答えてくれる章といえるだろう。すでに救いは成就したが、まだこの地上に生きる間は霊的な戦いが続く。ゆえに信者は毎日十字架の前で自分を省み、聖霊に従って歩む訓練を休んではならない。この過程で、律法は私たちの足かせというよりは、むしろ「私の内に残る罪」を照らし出す役割を担い、同時に「神の義」を示す標識にもなる。とはいえ私たちがどれほど努力しても自力で自分を救うことはできないと悟るとき、キリストの恵みはいっそう輝くのである。 最後に、パウロはローマ教会のユダヤ人出身信徒と異邦人出身信徒が共に聞いている状況を意識しながら、律法に関する誤解を解こうとした。律法を与えられたイスラエルの民が、それを完全に守りきれず、むしろ律法が罪を暴露した結果として死が入り込んだが、それは決して律法自体が悪であるとか無価値だからではなく、罪が戒めを利用して人間に入り込んだからだと説く。そして恩恵の福音が豊かに宣べ伝えられる時、それは律法を完全に無視または廃止するのではなく、より完全な次元へと高めるのだと納得させる。「私はなんと惨めな人間だが、今はイエス・キリストによって自由になった」というのが結論なのである。 実際、長年信仰生活を送ってきた人ならわかることだが、最初は感動と喜びで歩み始めても、ある時点で自分の内にいまだ暗い影が存在し、その影が罪の本性によって再び頭をもたげてくる現実を目の当たりにする。そうなると「こんな罪人の私にいったい何の資格が…」と落胆しやすい。しかしパウロはそのような時こそ「神に感謝する」と宣言するのだ。一見すると逆説的に見えるが、これこそが福音の逆説である。罪が深く明らかになるほど、十字架の恩恵はさらに強く際立ち、結果として信仰へと踏み出す道が開かれるのである。このように、内なる葛藤と闘いは決して無駄な苦痛ではなく、むしろ恩恵の勝利を体験するための通路だという事実を教えてくれるのが、ローマ書7章が持つ深遠な意味なのである。 まとめると、全体を3つの小テーマだけでまとめた場合、第一は「律法と私たちの新しい関係」である。パウロは結婚と死というメタファーを用い、律法がもはや私たちを束縛できないことを説く。これはすなわち、キリストと結合した者が得る霊的自由であり、その自由のうちで私たちは神のために豊かな実を結ぶようになる。第二は「律法の機能と人間の限界」である。律法は確かに聖で善なるものだが、罪の狡猾さと私たちの弱さによって、かえって死に至ることがありうると指摘する。そして律法は人間に自分の罪を直視させ、キリストの恵みなしには救われないことを痛感させる。第三は「聖徒の内的葛藤と恩恵の勝利」である。救いを受けた後も、私たちの内には肉的本性や罪の習慣が残っているため、繰り返される葛藤が起こるが、イエス・キリストの力と愛に焦点を合わせるとき、究極的な勝利を経験できることが強調されている。 このようにローマ書7章は、私たちが「義と認められた」後にも依然として戦わなければならないことがあると説く。それは、神のかたちへと本来の姿が回復されつつある中で、なおも過去の罪の性質と戦いをやめることができないという意味である。しかし恩恵の面から見るなら、その戦いですら神の愛のうちで意味をなし、やがて実を結ぶものとなる。律法は決して廃棄されてはいないが、それはもはや罪定めの機能として私たちを死に閉じ込めておくことはできず、代わりに罪を示す有益性をもたらすのである。私たちは自分の限界を知ったときにこそ、「私を救い出してくださったイエス・キリストによって感謝します」との信仰の歌をうたうことができる。これこそローマ書7章を貫く核心的な真理であり、張ダビデ牧師も繰り返し強調してきたメッセージである。結果として、罪との闘いを抱える私たちの実存は決して絶望で終わることなく、キリストの恵みによって感謝と賛美へと導かれる。そしてその過程において聖霊の助けを通じて、私たちは実際の成長と内なる自由を経験していくのである。信仰の道を歩むすべての人にとって、ローマ書7章は「救いの聖化の段階で不可避に直面する闘い」を正直に見つめさせると同時に、「その闘いが最終的には恩恵の勝利に帰結する」ことを教えてくれる貴重な章である。

  • すべてが成し遂げられた―張ダビデ牧師

    はじめに 十字架の上からイエス・キリストが発せられた最後の言葉の一つとして知られる「すべてが成し遂げられた」(ヨハネ19:30)は、ギリシャ語で「テテレスタイ(Τετέλεσται, tetelestai)」と記されています。この言葉が示す意味は、単なる「終わった」という宣言以上の深さを持っています。商取引の領収書などに押される「完済済み」「支払いが完了した」というスタンプのようなニュアンスを帯び、「完全に支払われた」「すべてが完遂された」といった強い意味合いがあります。張ダビデ牧師は、このイエスの最後の宣言こそ福音の核心を鮮明に示す最も偉大な救いの宣言であると説きます。 しかし、通常の人間の視点からすれば、イエスの十字架の死は悲劇的な結末に見えます。弟子たちは失意の中で散り散りになり、多くの人々は「偉大な預言者」「奇跡の人」と期待していたイエスが、ローマ帝国の非情な処刑法である十字架刑によって最も屈辱的な形で殺された事実に打ちひしがれました。ところが福音書の記者たちは、この悲惨とも言える場面を、「救いのクライマックス」と位置づけるのです。とりわけヨハネの福音書では、イエスの死の瞬間を「勝利宣言」として描き、その言葉を「すべてが成し遂げられた」と明確に示しています。これこそが人間の価値観を超える神の真理の逆説、「敗北のように見える十字架が実は勝利の場所」であるというキリスト教の中心命題といえるでしょう。 以下、本稿では三つの小テーマを通して「すべてが成し遂げられた」の意味を掘り下げていきます。第一に「十字架の絶望の中で宣言された『すべてが成し遂げられた』の意味」と題し、人間的観点では絶望しか見えない場面が、いかに神の救いの完成を告げる瞬間となったのかを探究します。第二に「聖書の預言と救いの完成:ヒソプ、過越の小羊、そして主の血潮」と題して、出エジプト記や旧約における犠牲制度との関連を広げながら、イエスの十字架と血がいかに旧約の預言と一致し、神の救いのドラマを完成させるのかを考察します。第三に「低くなられたことで高くあげられた主と、その道を歩む者の栄光」という視点から、イエスの謙卑と自己犠牲がどのようにして真の栄光となり、またその道を従う私たちにどのような意味と祝福をもたらすのかを見ていきます。最後に総合的なまとめとして、イエスの十字架と復活が示す「すべてが成し遂げられた」の真理をもう一度確認することで、現代に生きる私たちにもなお響いてくる福音の力を再認識する機会としたいと思います。 小テーマ1.十字架の絶望の中で宣言された「すべてが成し遂げられた」の意味 1-1.人間から見た絶望と失敗 イエス・キリストの十字架をめぐる物語は、人間の目から見ると痛ましく、かつ敗北のように映ります。ヨハネ19章をはじめとする福音書全体の証言によると、イエスはローマ帝国に対する政治的反逆者、あるいはユダヤ指導層からは神を冒涜する者として裁かれ、無残にも十字架につけられます。十字架刑は、当時最も過酷で屈辱的とされた刑罰であり、犯罪者や奴隷に適用される形が一般的でした。この刑を執行された者は、公衆の面前で長時間苦しみ、最期は窒息や失血、衰弱によって死に至ります。その姿は「神に祝福されている」とは到底思えず、「呪われた」存在の典型とされました(申命記21:23参照)。 こうした観点からすれば、イエスの十字架上での死は「神の裁きにより見捨てられた証拠」であるかのようにさえ思えます。実際、マタイやマルコの福音書によれば、十字架にかかったイエスを見て、通りすがりの人々や祭司長たちは嘲笑し、「神の子なら自分を救ってみろ」「他人は救ったのに、自分は救えないのか」と言い放ちます(マタイ27:39-42、マルコ15:29-31など)。弟子たちは師を見捨てて逃げ去り、ペテロは三度イエスを知らないと言い、またユダは裏切って銀貨三十枚を受け取った後に後悔し、自ら命を絶ちました。まさに人間的な視点からは、イエスの十字架の物語は絶望しか見いだせないように思われます。 しかし、そのように見えるこの場面を、ヨハネの福音書はあえて「神の救いの完成」として描くのです。張ダビデ牧師が強調する点は、イエスの最期の一言「すべてが成し遂げられた」(ヨハネ19:30)がただの「終わりの合図」ではなく、宇宙的な「成就の宣言」であるということです。たとえ表面的には敗北や死のように映ったとしても、それこそが神の愛の究極的な現れであり、すべての人の罪を贖う力をもつ「完成のとき」だったのです。 1-2.「すべてが成し遂げられた」のギリシャ語と深い意味 ギリシャ語「テテレスタイ(Τετέλεσται, tetelestai)」は、完了形で表される動詞であり、日本語訳で単純に「すべてが終わった」とするよりも、「支払いが完了した」「負債がすべて清算された」といった強いニュアンスを伴うと言われます。商取引の領収や債務の清算時にも用いられる表現であり、「何かが欠けている状態」から「欠けるところが何もない状態」へと移行したことを明白に示す言葉でもあります。 イエスは、ヨハネ19章28節で「すべてのことが成し遂げられたのを知って」と描写され、そこで「渇く」と言われます。そして29節で、人々が酸いぶどう酒をヒソプにつけた海綿をイエスの口もとに差し出し、イエスがそれを受け取ると、「すべてが成し遂げられた」と宣言されます。そしてイエスは頭を垂れて息を引き取られたと記されています。ここでの一連の動作は、旧約の預言(詩編69:21など)が成就されたこと、そしてイエスが神から与えられた使命をすべて完うし終えたことを指し示しています。 張ダビデ牧師が特に説き明かすのは、イエスの十字架上の最期が決して偶発的な悲劇ではなく、神の御心に基づく綿密な計画の頂点だったという点です。「すべてが成し遂げられた」には、イエスご自身の救いの働きがすべて完了したという宣言と同時に、旧約聖書に連なってきた贖罪の象徴や預言の総仕上げという意味も含まれます。すなわち、アブラハムからモーセ、ダビデ、預言者たちへと続く「メシアの到来」と「贖いの完成」を予告してきた一連の言葉が、ここに結実しているのです。 1-3.ヨハネ福音書の独特な描写と「勝利の十字架」 マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書は、イエスが十字架上で最後に大声を上げて息を引き取られたと記しています(マタイ27:50、マルコ15:37、ルカ23:46参照)。それに対しヨハネは、その大声の具体的内容を「すべてが成し遂げられた」の一言で描写する点に特色があります。ヨハネの福音書は全体的に、イエスを「言(ロゴス)」として紹介し(ヨハネ1:1)、地上に下られた神の御子があらゆる奇跡と言葉、そして人々との関わりを通じて「神の栄光」を現わすストーリーとして構成されています。イエスがカナの婚礼で水をぶどう酒に変えた最初の奇跡を「イエスはこれによりその栄光を現された」と説明するように(ヨハネ2:11)、ヨハネにとってイエスの一つ一つの行いや言葉は、単なる歴史的事実以上に「神の栄光の啓示」として位置づけられるのです。 その啓示の最高潮が十字架であり、同時に「栄光の時」でもあるという逆説をヨハネは強調します(ヨハネ12:23「人の子が栄光を受ける時が来た」など)。そして、イエスはヨハネの福音書において、「私が地上から上げられるとき、すべての人を私のもとに引き寄せよう」(ヨハネ12:32)とも語られます。ここに「上げられる」という言葉は、十字架につけられるという意味と同時に、天的な高挙のイメージを重ね合わせている、と多くの解釈者が指摘しています。罪人を呪いの刑罰として処刑する十字架が、神にとっては全世界への救いの招きとなる――ここにこそ神の逆説的な栄光があるわけです。 張ダビデ牧師は、この点を「イエスが十字架の絶望の只中で宣言された『すべてが成し遂げられた』とは、真の勝利宣言である」と呼びます。人々に嘲笑され、弟子たちに見捨てられ、ローマ兵に打たれ、釘付けにされるという悲惨な状態の中で、イエスは「失敗したのではなく、完成した」と語られる。これはキリスト教が古来から「十字架の神学」と呼んできた核心そのものであり、すべての信仰者にとっての希望の源泉なのです。 1-4.エマオ途上の弟子たちと「絶望の解消」 十字架を見て絶望したのは、当時のユダヤ人やローマ兵だけではありませんでした。ルカの福音書24章に記されるエマオ途上の二人の弟子たちは、師として慕っていたイエスが処刑されたことにショックを受け、失意のままエルサレムを離れていきます。彼らは「私たちはこのイエスこそイスラエルを解放してくださると望みをかけていたのに」と語り、イエスをメシアとして信じていた期待が裏切られたと感じていました。 しかし復活されたイエスは、その二人の前に現れ、旧約の律法と預言書を解き明かしながら「キリストが苦しみを受け、栄光に入ることは当然ではなかったのか」(ルカ24:26参照)と問いかけます。つまり、十字架の苦難こそが救いのプロセスに欠かせない要素であり、メシアが民を贖うために流された血が旧約全体の成就であることがここで示唆されるのです。これを理解したとき、弟子たちの心は「燃え上がるようになった」と描かれており(ルカ24:32)、結局彼らは再びエルサレムに戻って「主は確かに復活された」と証しする証人となりました。 このエピソードは、私たちがしばしば人生の試練や失敗において「神はどこにおられるのか」「こんな苦しみは神の御心に反するのではないか」と思うときに、一つの道を示唆します。すなわち、表面的な絶望の背後に、神の壮大な救いの計画が進行していることを信じる信仰です。十字架が最悪の結末に見えたとしても、その十字架が「すべてが成し遂げられた」と宣言された完成の時であったように、神のご計画は私たちの想像を超えて働くことがありうるのです。 小テーマ2.聖書の預言と救いの完成:ヒソプ、過越の小羊、そして主の血潮 2-1.ヒソプと過越の祭りの背景 ヨハネの福音書19章29節には、十字架上のイエスに酸いぶどう酒を含ませるために、「人々は酸いぶどう酒を含ませた海綿をヒソプに付けてイエスの口元に差し出した」という記述があります。ここで登場する「ヒソプ(英語ではHyssop)」は、旧約聖書出エジプト記12章において、イスラエルの民がエジプトから脱出する直前に行われた過越(すぎこし)の祭りの場面で重要な役割を果たした植物として知られています。すなわち、子羊の血を戸口の柱と鴨居に塗るとき、ヒソプの枝が用いられた(出エジプト12:22)という記述があるのです。 過越の祭りは、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民が、モーセに導かれて解放される決定的な出来事において、神がエジプトの全ての長子を撃たれた時、「子羊の血が塗られた家」を過ぎ越したことを記念しています。ここで犠牲とされた子羊は「過越の小羊」と呼ばれ、その血が死の災いを防ぐ守りとなりました。これは旧約聖書全体を通して「神の贖いの象徴」として繰り返し示されるモチーフです。 ヨハネ福音書があえて「ヒソプ」という言葉を用いていることは、単なる偶然ではありません。イエスの死を過越の小羊の死になぞらえ、旧約における「血による救い(死からの解放)」をイエスの血と結びつける意図が明確に読み取れるのです。張ダビデ牧師はこの点を「イエスが流された血は、旧約時代の過越の血の究極的な完成を意味する」と解説します。すなわちイエスこそが真の過越の小羊であり、その血潮によって罪が赦され、死が過ぎ越される道が開かれる――これがヨハネ福音書の神学的構造の核心です。 2-2.過越の小羊としてのイエス ヨハネ1章29節において、バプテスマのヨハネがイエスを指し示して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊!」と宣言する場面は有名です。ヨハネはイエスを「神の小羊」と呼び、「世の罪」を取り除く存在だと明言します。ここでも「子羊」のイメージは、旧約における犠牲や過越の子羊を連想させます。旧約聖書の贖罪制度では、罪を犯した人々が罪の赦しを得るために、傷のない動物(子羊や山羊など)を祭司にささげ、その血をもって贖罪を行う必要がありました。特にレビ記や民数記には、罪の赦しのための動物犠牲が繰り返し説明されています。 しかし、それらの動物の犠牲はあくまで一時的な措置であり、人間の罪を最終的に取り除くには至りません。預言者イザヤはイザヤ書53章で、「苦しみのしもべ」と呼ばれる存在が、自らの血をもって多くの人の罪を負うメシア的イメージを示唆しました。このメシア的「しもべ」は、屠り場にひかれていく子羊のように口を開かず、彼の打たれた傷によって私たちは癒される(イザヤ53:5-7参照)という、極めて象徴的な預言を残しています。 イエスはこの「子羊」のイメージを完全に身にまとい、人類の罪を代わりに負う究極の犠牲となられた。ヨハネ福音書だけでなく、パウロやペトロの書簡にも「キリストは私たちの過越の小羊」としてほふられた、あるいは「傷も汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によって贖われた」という表現が出てきます(1コリント5:7、1ペトロ1:18-19など)。これらはすべてイエスの十字架上の死が、旧約の贖罪制度をはるかに超えた最終的で完全な犠牲として、私たちを罪と死から解放する力を持つことを指し示します。 2-3.血と水:完璧な愛の注ぎ出し ヨハネ19章34節には、ローマの兵士が死を確かめるためにイエスの脇腹を槍で突いたところ、「血と水が流れ出た」という有名な記述があります。この場面をめぐっては神学的にも医学的にも多くの議論がありますが、古来より多くの教父や解釈者が「血と水」をそれぞれ贖罪の血、または洗礼や聖霊を象徴するものとして捉えてきました。とりわけ、イエスの十字架の死によって流された血が「贖い」の働きを表し、水が「清め」や「再生」を象徴するという解釈がなされることが多いとされます。 張ダビデ牧師は、この血と水が流れ出る描写を「罪人のために最後の一滴までご自分を注ぎ出された神の愛の極み」として受け止めます。キリスト教の伝統においては、イエスが十字架でただ死を迎えただけでなく、あらゆる痛みや苦しみを引き受け、かつ最期の一瞬まで愛のゆえにご自分を惜しみなく注ぎ尽くしたと考えます。それは、ヒソプにつけられた酸いぶどう酒を受け取られた場面とも呼応しますが、イエスは自分のためというよりも、旧約の予言を成就し、すべての義を完全に満たすためにその行為を受け入れたと理解できます。 聖書の他の箇所でも、水と血がキリストの贖いと清め、または聖霊の働きと直接結びつけて言及されることがあります(たとえば1ヨハネ5:6-8など)。神学的には、イエスの死によって流された血こそが罪の代価を支払うものであり、その血を信じる者は罪の赦しと清めを得て、神の子としての新しい命に入るという教えが中心的です。つまりイエスの血は、まさに出エジプト記12章の過越の小羊と同様に、「死を過ぎ越す」ための印となるわけです。 2-4.「一粒の麦」の逆説と十字架の必然性 ヨハネ12章24節でイエスは、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままであるが、もし死ねば多くの実を結ぶ」と語り、ご自分の死が多くの命を生み出すために不可欠だと暗示されます。実際、この箇所ではギリシャ人たちがイエスを訪ねてきた際に、イエスは「人の子が栄光を受けるときが来た」と宣言し、同時に「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者はそれを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12:25)とまで言われます。これは「死を通じてこそ新しい命が誕生する」という逆説的な教えであり、イエスご自身が十字架によって死に渡されることを預言していると読めます。 また張ダビデ牧師は、この「一粒の麦の死と多くの実」という逆説こそが、イエスの十字架を理解する根本の枠組みだと説きます。すなわち、「すべてが成し遂げられた」という言葉は、イエスが人間の罪と死を引き受けるために、そのご自身の命という“種”を「死」に落とされ、やがて復活を通して多くの実(救われる者たち)を生み出すことが成就されたという意味を持ちます。もしイエスが死ななければ、そのまま「偉大な教師」や「奇跡を行う預言者」として記憶されたかもしれませんが、人間の罪を根本的に贖い、死の力を打ち破るためには、十字架による血の犠牲が不可欠だったというわけです。 この原理は、私たちの日常生活や信仰生活にも応用可能です。私たちは多くの場合、自分の成功や幸福を第一に考え、それを失うことに大きな恐れを抱きます。しかしイエスは、「本当に生きるためには、一度自分を捨て、十字架を負う必要がある」と教えられます。これはイエスの弟子としての歩みを示すだけでなく、信仰全体のパラドックスを象徴する教えでもあります。「死によって命が生まれる」という神の逆説は、ヒソプと過越の小羊に表された血の象徴的メッセージと同様に、イエスの福音の核心をなすのです。 小テーマ3.低くなられたことで高くあげられた主と、その道を歩む者の栄光 3-1.イエスの謙卑と自己犠牲の極致 ピリピの信徒への手紙2章6-11節(通称「キリスト賛歌」)は、イエス・キリストの自己卑下とそれに続く高挙について象徴的に描写する重要な箇所です。そこでは、キリストは神の身分でありながらそれに固執することなく、むしろ自らを無にしてしもべの姿を取り、人間の姿をもって世に来られたと語られます。さらにへりくだって死に至るまで従順であり、それも十字架の死にまで従順であられた。そのため神は彼を高くあげ、すべての名にまさる名を与えられた、と続きます。 ここに示されるのは、「神が神としての権威を誇示する」のではなく、「神がへりくだる」という驚くべき逆説の真理です。イエスが十字架で「すべてが成し遂げられた」と宣言されたとき、そこには神の謙遜と愛が究極の形で現れています。張ダビデ牧師が繰り返し強調するのは、イエスの十字架が神の計画の事故的な結果ではなく、イエスご自身が「あえてその道を選ばれた」結果である点です。イエスはゲッセマネの園で祈られ、「この杯を取りのけてください。しかし、わたしの望むようにではなく、みこころのままに」と言われました(マタイ26:39など)。そこに垣間見えるのは、人間的な苦痛や死の恐れを超えて、神のみこころに従うイエスの決断です。 十字架は人間的には「最も卑しい場所」ですが、神にとっては「最も尊い場所」となりました。その意味で「低くなられたことで高くあげられた主」というフレーズは、単に比喩的な表現ではなく、実際に神の力が働いた歴史的かつ超歴史的な出来事を示すものなのです。 3-2.弟子たちへの問い:「その杯を飲めるか」 マタイの福音書20章20節以下には、ゼベダイの息子ヤコブとヨハネの母が登場し、自分の息子たちをイエスの右と左に座らせてくださいと願うシーンがあります。おそらく彼女は、イエスがメシアとして地上の王国を打ち立てるときに高い地位を得させてほしいという野心的な望みを抱いていたのでしょう。しかしイエスは、「あなたがたは、わたしが飲もうとする杯を飲むことができるのか」と問い返されます。ここで言う「杯」とは、十字架の苦難を指すとされています。 人間はしばしば、栄光や名誉を追い求め、その裏にある苦難や犠牲からは目を背けようとします。しかしイエスの教えは、栄光は苦難と表裏一体であること、そして神の国の価値観は人間の功名心とは全く異なる原理に基づいていることを示しています。イエスは「あなたがたの間で偉くなりたい者は、仕える者となりなさい。いちばん上に立ちたい者は、いちばん下のしもべになりなさい」と繰り返し教えられました。イエスが「人の子が仕えられるためではなく、仕えるために来た」と言われたとおり(マタイ20:28)、神の国における偉大さは、自己犠牲と奉仕によって証しされるのです。 張ダビデ牧師は、ゼベダイの息子の母親が最初はこうした世的な栄光を求めたが、最終的には十字架のそばにいた女性たちの一人として名を連ねている点に注目します(マタイ27:56やマルコ15:40などを総合すると、そこにヤコブとヨハネの母らしき人物がいる)。これは人間の野心や名誉欲が砕かれ、イエスの苦難を共有する道へと招かれた結果として理解できる、象徴的な場面です。イエスのそばに最後までいた女性たちは、決して高い地位や称賛を得たわけではありませんが、イエスの最も苦しい時に寄り添い、その死の瞬間を見届ける特権を得ました。ここには「低くなることで本当の意味でイエスと共にいる」という大切なメッセージが込められています。 3-3.「自分を捨てる」とは何か イエスは、弟子になるために「自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と命じられました(マタイ16:24など)。これは、文字通り身体を痛めつける苦行や、自己嫌悪に陥ることを促すものではありません。むしろ、自らの罪深さや傲慢、自己中心性を認め、神のみこころと他者への愛に生きる姿勢へと方向転換する行為といえます。イエスが示された十字架の道は「自己卑下」で終わるのではなく、そこで「すべてが成し遂げられた」と宣言する勝利への道だからです。 「自分を捨てる」という言葉は、しばしば人々に誤解を与えるかもしれません。何もかも諦め、無我の境地になるとか、自分の一切の欲望を排除することだと捉えられることがあります。しかしキリスト教的な文脈での「自分を捨てる」とは、より正確には「罪に死ぬ」と言い換えることもできます。神に背を向け、自己の栄光を求める“古い人間”のあり方に死んで、イエスが示したように神と隣人への愛に生きる“新しい人”として生き直す――これが「自分を捨てる」本質です。 このプロセスは苦痛を伴う場合もありますが、イエスの十字架を見上げるとき、そこには「神が命じること以上のものをイエスがすでに引き受けてくださった」という安心感、そして「結局はすべてが成し遂げられた」という完全な救いの保証が与えられます。ゆえに、クリスチャンの霊的な歩みには、自己否定や鬱々とした罪悪感よりも、「罪はイエスによって処理された。私は感謝と喜びをもって神に従える」という解放感が勝っているのです。 3-4.低くされた者が受ける栄光 イエスは、「わたしが地上から上げられるとき、人々をすべてわたしのもとに引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と語られました。十字架刑は本来、犯罪者を恥ずかしめ、地面から吊るし上げて晒し者にすることで社会から完全に排除する手段でした。ところが、イエスはその「吊し上げられる」場を、人類救済のための「神の愛の展示」として用いられたのです。まさにへりくだりの極みが、同時に神の栄光を最も高く掲げる場へと転換されたわけです。…