
Ⅰ.キリスト論・救済論・終末論を通して見る神の国
張ダビデ牧師は、教会史と聖書の核心的真理を強調しながら、キリスト論・救済論・終末論という三つの教理がいかに緊密に結びつき、「神の国」という一点へと繋がっていくかを説いてきた。まず彼によれば、キリスト論とは「イエスとはいったいどなたなのか」という問いから出発するという。教会は歴史を通して、「イエス・キリストは真の神であり、真の人である(veredeus verehomo)」という結論をニカイア公会議(325年)やカルケドン公会議(451年)などを通じて整理してきた。張ダビデ牧師は、この決定がキリスト論の理解において非常に重要だと語る。イエスは罪のない聖なる神でありながら、人間のあらゆる苦しみや弱さを直接に担われた真の人でもある。この神秘的な両面性を正しく理解することが、結局のところ救済論を正しく受け入れる土台になると、張ダビデ牧師は強調する。
彼によれば、イエス・キリストが神であることを否定したり、キリストの人性を縮小してしまうような神学的立場は、最終的にはキリスト論の骨格を崩し、救済論へと正しく進むことを妨げてしまうという。歴史的な1517年の宗教改革に触れながら、張ダビデ牧師はルターやカルヴァンなどの改革者たちが「救いはただ信仰によって(Sola Fide)、ただ恵みによって(Sola Gratia)のみ可能である」と宣言した事実を重視している。これは中世の教会が聖書の教えから離れ、「信仰と恵み」だけで与えられる救いに、他の要素を混ぜ込んでしまった結果、信仰が希釈され歪められていたことを正そうとする叫びだったと彼は言う。張ダビデ牧師は「宗教改革の救済論は、厳密に言えば『聖書に立ち返ろう』という訴えだった」と力説する。だからこそ改革派教会が主張する「信仰のみ、恵みのみ」という救済論は、極めて聖書的で正しい教理だと言えるのだと彼は語る。そして教理とは単に教会の教材や教育資料に留まるものではなく、実際に信徒の生活の中でいのちある力として働かなければならないとも付け加える。
張ダビデ牧師はさらに、キリスト論と救済論は比較的よく整理されている一方で、終末論に関しては教界内でも意見が分かれることが多いと指摘する。「終末論が扱う核心的テーマは『時と期間(Time and Date)』である」と述べつつ、ここで言う「時(Time)」はギリシア語でクロノス(Chronos)、「期間(Date)」はカイロス(Kairos)だと解説する。クロノス的時間は量的で連続する時間概念を指し、カイロスは決定的な出来事が起こる質的な時を意味する。聖書においてイエスの再臨は、この「カイロス的出来事」に相当すると張ダビデ牧師は言う。その決定的な出来事によってイエスが地上に来られた時(B.C.とA.D.が分かれるその時点)は、歴史そのものを分割する。したがって終末論が最終的に取り扱うのは、この地に神の国が完成へと至る過程と、その具体的瞬間であるということだ。
張ダビデ牧師によれば、聖書は終末に関する具体的預言と、その不確実性、そしてイエスご自身の言葉を通して、「その時と期間はただ神だけがご存じである」ことを信者に教えている。使徒の働き1章7~8節におけるイエスの言葉がまさにそれを示している。「時と期間は父が御自分の権威によって定められたのであって、あなたがたの知るところではない。ただ聖霊があなたがたに下るとき、あなたがたは力を受け、地の果てにまで福音を伝えよ」という命令である。張ダビデ牧師はこの言葉に着目し、終末論に関心を持つことは大切だが、誤った終末予測や恐れにとらわれるのではなく、むしろ今この地で福音を証しし、神の国を準備する積極的な態度こそが真の終末論的生き方だと説く。
では「神の国」とはどのような姿なのか。張ダビデ牧師は、創造―堕落―救い―神の国へと続く救済史の流れを、「四つの法則(いわゆる四つの霊的原則=四永理)」という方式を用いてしばしば説明する。人間は本来、神が創造されたエデンの園、すなわちパラダイスで暮らすはずだったが、罪によってそこから追放された存在となった。しかしヨハネの福音書3章16節に示されているように、神は独り子イエス・キリストを送ってくださり、人間に永遠のいのちを与えてくださった。そしてその救いの最終目的地は「神の国の回復」にほかならないと張ダビデ牧師は言う。使徒の働き1章6節で弟子たちが「イスラエルの国を回復してくださるのはこの時なのですか」と尋ねているのも、結局は失われた国―すなわち神が統治される義なる世界の回復を望んでいることと通じている。人間の魂の奥底には、失われたエデンを懐かしむ思いがあり、それが「天国への本能的な望み」であると彼は解釈する。そしてその完成の時期は私たちには分からないが、イエスの再臨によって確実に実現すると力強く語る。
特に張ダビデ牧師は、神の国の教理の核心の一つとして「義」の問題を強調する。マタイの福音書6章33節で「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはすべて加えて与えられる」と語られているように、神の国は正義に満ちた場所なのだとする。不義な勢力はいずれ力を失い、神が直接統治されるとき、「正義が大河のように流れる世界」(アモス5章24節参照)が完全に展開される。張ダビデ牧師は、神の国とは単なる抽象的概念ではなく、現実の歴史と私たちの日常の中で、不義に立ち向かい義を打ち立てよという命令とともに到来していく神の統治だと考えている。彼が歩んできた宣教・牧会の方向性も、「まず神の国と神の義を求めなさい」という教えを教会と信徒たちが実際に実践できるように導くことに重きを置いてきた点を、彼自身が繰り返し強調している。
張ダビデ牧師は、人々の日常的な関心が主に財産や物質的豊かさに向かっている事実を指摘する。主のお言葉によれば、人間は「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」と過度に悩むが、いざ神の国のために献身し仕え、義のために苦しみを受けることには消極的になりがちだというのである。マタイの福音書6章19~20節でイエスは「あなたがたのために、地上に宝を積むのではなく、天に宝を積みなさい」と語られた。張ダビデ牧師はこの聖句を挙げながら、本当の価値はこの地上の所有に限られず、永遠の国に蓄えられることを決して忘れてはならないと説く。それこそが「義に飢え渇く者は満たされる」(マタイ5章6節)という逆説を体験する道であり、最終的に神の国と義のために生きる人々には、神がすべてを加えてくださる恵みをイエスご自身が約束しておられるのだ、と語る。
ではイエスが語られる神の国は具体的にどのように到来するのか。張ダビデ牧師は、マタイの福音書13章などに登場する天国のたとえ話を例に挙げながら、神の国は小さなからし種のようなもので、初めはほとんど目立たなくても、成長すると非常に大きな木になり、空の鳥が巣くうほどになると教えられた点に注目する。また、パン種(イースト菌)のたとえを通して、神の国は見えないところで少しずつ働いて、ついには全世界を変えていくというイエスの教えが、まさに終末論的ビジョンに繋がっているのだと見る。張ダビデ牧師は「私たちの教会はいつも四永理とともに、この神の国への希望を失わないように教えてきた」と述べ、救われた人なら誰でも自分が回復すべきパラダイスを切望するようになり、その切望こそが「主の祈り」にある「御心(みこころ)の天におけるごとく、地にもなさせたまえ」という願いに結集すると解説する。
そう考えると、キリスト論は「誰が救い主なのか」を確立し、救済論は「どのように救われるのか」を示し、終末論は「救われた者たちが究極的に見つめるべき国は何か」を明らかにするという三位一体的構図の中で互いに連動していることが分かる。張ダビデ牧師は、キリスト論を通して救いの根拠がただイエスにあることを確かにし、救済論を通して人間がいかに全面的に恵みに依るべきかを自覚し、終末論を通して今この瞬間にも神の統治が及ぶように私たちが従順し、伝道しなければならないという真理を思い起こさせる。そしてこれらの教理は単に知識として留まるのではなく、信仰の実践として現れるとき、初めて神の国が私たちの現実に具現化されると強調する。
こうした文脈において、張ダビデ牧師が率いる教会や諸活動は、キリスト教信仰の本質的土台を築くことに力を注いできた。彼は長年の牧会と宣教の現場で教えながら、教理の重要性がちょうど身体の骨格のようなものだと繰り返し語ってきた。骨がしっかりしていてこそ、身体全体が健康に動くように、イエスのご人格と救いの方式、そして終末に至るまでの神の計画を堅固に掴んでこそ、信徒たちは揺るがされずに世に向かって正しく生きることができるというのである。このような教理的基礎こそが、「まず神の国と神の義を求めなさい」という主の言葉を自ら実践するための土台と言える。張ダビデ牧師は、すべての時代のキリスト者が、この言葉の前で自分自身を振り返るべきだと力説する。「はたして私は何を優先順位に置いているのか。神の国のために本当に献身しているのか」という問いは、単に過去や未来の一時期だけの問題ではなく、人生全体を貫く問いであるというのである。
最後に彼は、「私たちが終末論を学ぶ理由は、『時と期間』を突き止め、世の出来事に対する好奇心を満たすためではない」と語る。イエスが完成してくださる神の国を慕い求め、その国がすでに始まっていると信じつつ、この地で福音を伝え、義の生活を通してその統治を実現していくこと、これこそが真の終末論的信仰である。終末は破滅を意味するのではなく、イエスが完全に回復してくださる「新しい天と新しい地」の成就を意味する。だからこそ張ダビデ牧師は、私たちが日ごとに抱くべき神の国の夢と希望を強調する。「神の国が臨むとき、不義に満ちたこの地に正義が大河のように流れる」という旧約の預言者的ビジョンを、現代に生きる私たちも受け継ぎ、物質や一時的な成功ではなく、永遠の神の統治に目を注ぐべきだ、と強く訴えるのである。
Ⅱ.「まず神の国と神の義を求めなさい」
張ダビデ牧師はマタイの福音書6章33節に対する黙想を土台に、「まず神の国と神の義を求めなさい」というイエスの言葉が、この時代を生きるすべてのキリスト者にとってどのような意味を持つかを具体的に解説する。人々はしばしばこの御言葉をあまりに霊的あるいは抽象的に解釈してしまい、あたかも現実の必要を無視してもよいかのように誤解することがある。しかし張ダビデ牧師によれば、イエスが「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」を心配するなとおっしゃったとき、それ自体を軽んじよというのではなく、「もっと大切な優先順位がある」ことをはっきり教えられたのだという。彼は説教や講義で、「食物や衣服も必要だが、神の国はそれ以上の絶対的価値を持っている」という観点を常に提示している。
ここで注目すべきは、イエスがマタイの福音書6章全体で批判している「財産や外面的なものへの過度な執着」を捨て、信仰を通して神への完全な信頼を置けと勧めている点だ。張ダビデ牧師はこの教えに関連して、旧約のエリヤの物語を代表的な例として挙げる。列王記第一17章1~16節を読むと、イスラエルの地に干ばつが起こった際、神はエリヤにケリテ川のほとりへ行き、カラスの供給を受けさせた。その後、シドンの地のツァレファテのやもめのもとへ導かれたが、やもめもまた干ばつによって最後に残った一握りの粉と少しの油でパンを作り、自分と息子がそれを食べて死のうとするような状況だった。しかしエリヤは神の言葉を信頼し、「まず私にパンを作ってください」と頼み、やもめも信仰によってそれに従った。その結果、雨が降るまで粉壺と油壺が尽きることのない奇跡が起こった。
張ダビデ牧師はこの出来事を指して、「空にする信仰(ケノーシス、kenosis)が最終的に奇跡をもたらす」と解釈する。ツァレファテのやもめにとっては、その最後の食糧すら差し出せば、今すぐ飢えて死ぬ危機に陥る恐れがあった。しかし神の人が告げる言葉への信頼があったので、やもめはそのわずかばかりの粉と油をまずエリヤに差し出し、その結果、自分の息子とともに何日も十分に食べても足りるほどの恵みを体験したのだ。張ダビデ牧師はこれを「義に飢え渇く者は満たされ、まず神の国を求める者にすべてが加えられるという主の言葉を、旧約の出来事を通して体感する事例」だと説明する。つまり、現実的に見て不可能に思える状況であっても、信仰をもって神の国のための決断を下すとき、日常生活において神の供給がなされる「奇跡の力学」を経験できるという。
同様の論理を新約聖書からも見出せる。それが「五つのパンと二匹の魚の奇跡」である。ルカの福音書9章10~17節に記されたこの出来事は、四福音書すべてに登場する非常に重要な奇跡である。荒野(人里離れた場所)に集まった大勢の群衆に食べ物が足りないとき、イエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物をあげなさい」と言われた。しかし弟子たちは「パン五つと魚二匹しかありません」と答える。当時のパンは粗くて素朴な大麦のパンであり、魚も雑多な小魚であった可能性が高い。ところがイエスはそれを受け取り、祝福の祈りを捧げたうえで弟子たちに配るよう命じられた結果、男だけで約五千人が食べてなお、十二のかごが余るほどの豊かな奇跡が起こった。
張ダビデ牧師によれば、この場面も「神の国と神の義を求める者の生き方が、いかに物質的・現実的な必要までも満ち溢れるようにされるのか」を示す鮮やかな例証だという。パン五つと魚二匹という、取るに足らないすべての資源を主に差し出す「明け渡し」の姿勢こそが、大いなる「満ち溢れ」へと繋がる。これは単に神秘的で一度限りの出来事ではなく、信じる者が神に仕える際にいつでも経験しうる普遍的真理を象徴しているのだ。もちろん、すべてのキリスト者が「五つのパンと二匹の魚」さながら、何千人分もの食糧が奇跡的に増える体験をするわけではないが、霊的な面でも日常の必要においても、神が常に満たしてくださるという確信、そして神の国のために献身する者には思いがけない恵みが注がれるという真理は変わらない、と張ダビデ牧師は強調する。
こうした旧約と新約の物語から、「義に飢え渇く者は満たされる」という聖書の逆説が読み取れる。張ダビデ牧師は「人間的な理屈で考えるなら、満たされたいならパンをもっと集めるべきではないか。なのになぜ義を求めるのか」という問いを提示し、イエスの言葉には単なる物質的祝福を超えた深遠な霊的原理があると解説する。それはすなわち「自分の欲望や損得勘定、恐れを捨て去り、神の言葉に従うとき、神はすべてを備えてくださる」ということである。張ダビデ牧師自身、この原理が今日でも有効であることを身をもって体験し、教会共同体の中でそれを実際に適用してきた。彼が「財政的な困難や宣教的、人的な問題に直面しても、神を信頼し、その国を優先すれば、結局神が扱われる」と説いてきたのは、単に観念的な信念ではなく、聖書の歴史的出来事や彼の宣教現場での経験に根ざしているのだ。
このような文脈で、張ダビデ牧師はキリスト者が世的な成功や物質を最終目的とせず、「義に飢え渇く者」となるべきだと繰り返し強調する。「義に飢え渇く」とはつまり、「神の国の正義がこの地に実現することを切に求める」ことであり、「私たちの生活や社会、そして世界の中で神の統治が表されるように祈り、献身する」決断を意味している。彼はこれを「渇望」という言葉で言い表すことがあるが、霊的な渇望は私たちを決して困窮に追いやるのではなく、むしろ天の恵みに満ちあふれさせるのだという点が、聖書や教会史のさまざまな例から証明されていると主張する。
張ダビデ牧師はまた、「天に宝を積みなさい」というマタイの福音書6章19~20節の教えを改めて喚起し、この地上で私たちが追い求める財産や名誉、権力は、いずれ消えてしまうものにすぎないが、神の国のための労苦や献身は決して消えない永遠の報いになると語る。これこそが「天に宝を積む」というイエスの言葉の現実的意味なのである。私たちは往々にして目に見えるものだけが確かだと思い込むかもしれないが、張ダビデ牧師にとってそれより確かな世界は神の国である。彼はその国のために時間や財産、才能などを惜しまず捧げてきた姿を牧会と宣教のあらゆる場面で示しつつ、「誰でも本気でその道を選ぶなら、神が必ず満ち溢れるように満たしてくださる体験をする」と証しする。
そこで張ダビデ牧師は、教会の総会や各種集会の場でいつも「今、私たちは何を優先順位に置いているのか」と問う。「私たちは現実的な問題だけを考え、財源を追い求めるばかりではないか。それとも義のために労を惜しまず、福音を伝えるために献身しているのか」という問いは、個人にも共同体にも必ず振り返る必要のあるものである。彼が注目するマタイの福音書6章25節以下の「いのちは食物よりも大切ではないか。からだは衣服よりも大切ではないか」という言葉は、「最も重要で根本的な価値とは何か」を私たちに問いかけてくる。空の鳥や野の花を例に挙げながら、「神は私たちの日常的必要を満たす方なのだから、物質に縛られて生きるのをやめなさい」とおっしゃるイエスの勧めは、むしろ私たちに自由と喜びをもたらす。張ダビデ牧師はこの箇所を説教するたびに、「神はすでにあなたがたに必要なものを知っておられ、それを満たすことがおできになる方だ」ということを繰り返し思い起こさせながら、「それなら何を恐れる必要があるのか」と問いかける。
さらに彼が牧会の現場で強調するもう一つのポイントは、「この御言葉を完全に信じる者は、決して怠惰や放縦に陥らない」という点である。「神が満たしてくださる」という信仰は、ただ手をこまねいている態度ではなく、「神の国のためにより大胆に献身し、より積極的に義を求めるための力」となる、と張ダビデ牧師は解説する。すなわち「あなたがたはまず神の国と神の義を求めなさい」というイエスの言葉を真に信頼する者は、世間の評価や物質不足への恐れによって尻込みすることなく、むしろさらに大胆に福音を伝え、善を行うことができるという意味だ。
では、どのようにすれば具体的に神の国のために義を求める生き方ができるのか。張ダビデ牧師の歩みを通して見ると、その答えは常に「礼拝と御言葉への従順、そして隣人に対する積極的な愛」に集約される。教理は理論ではなく、日々の生活の中でイエスの教えを実践するときこそ、骨格に肉がつき血が巡るという言葉が、このことをよく説明している。礼拝を通して私たちは神がどのような方か、イエスの救いがいかに大いなる恵みか、そして世界を新しくされる聖霊のわざがいかに力強いかを体験する。また御言葉によって、不正な現実に直面した時に正しい判断と決断をするための洞察を得る。最後に隣人を愛することによって、私たちは「正義が大河のように流れる世界」を準備する神の同労者となっていく。張ダビデ牧師はこれこそ「神の国の民としての生き方」だと呼ぶ。
彼は「28年という長い宣教・牧会の歩みの中で、教会がどれほど『神の国と神の義』を求めて走ってきたかを振り返ろう」と述べつつ、神の満たしを体験したさまざまな証しを語ってきた。外部からの脅威や物質的不足、数えきれない落胆要素があったとしても、むしろそうした状況だからこそ一貫して神を信頼し、その道を守り通してきたのだ、と彼は告白する。エリヤのもとにやってきたカラスの食料やツァレファテのやもめの油、そして荒野で起こった五つのパンと二匹の魚の奇跡が、現代にも再現されるのは、この「まず神の国と神の義を求める信仰」のゆえだと張ダビデ牧師は説く。
結局、「まず神の国と神の義を求めなさい」というマタイ6章33節の言葉は、旧約と新約を貫き、教会の歴史全体を支えてきた重要な柱のようなものだ。張ダビデ牧師の牧会的実践もまた、この言葉を軸に据えて、キリスト論・救済論・終末論に基づき、究極的には「神の国」というビジョンを提示してきたのである。彼は現代の教会が物質主義や世の風潮に揺らぐことを警戒しながら、教会が本来の使命である福音宣教、義を追い求める生き方、そして失われた魂への愛を新たに掴むように挑戦を投げかける。「御心が天で行われるように地でも行われますように」という主の祈りの願いが現実化する道は、一人ひとりの信徒がまず自分の優先順位を見直し、神の国への渇望をもって進むことにある。その道を歩むすべての者に、神の供給は常にあふれるほど注がれる、と張ダビデ牧師は確信している。
そこで彼は「2週間後にある総会や教団の大きな集まりを準備するにあたり、私たちは何を振り返り、どう決断すべきなのか」と問う。「28年という時間の中で、果たして私たちは神の国を優先してきたのか、それとも物質や人間的安定に偏ってこなかったか」という問いを、信徒たちと共に深く考えようというのである。そして本当に神の国と義を求める者たちなら、その優先順位を実際の生活と働きの中で証明しなければならない、と繰り返し訴える。張ダビデ牧師は「過去7年、10年、あるいはそれ以上の歩みを振り返ってみると、数多くの欠乏があったにもかかわらず、いかに神が私たちを導いてくださったか、皆それぞれに証しできるはずだ」と言い、それらのストーリーは、まるでエリヤとツァレファテのやもめ、そして荒野で五つのパンと二匹の魚で起こされた奇跡のように「神の豊かさ」へと集約されているのだと感じる、と語る。
張ダビデ牧師が強調する点は明確である。「義に飢え渇く者」になれ、ということだ。「義に飢え渇く者は幸いである。天の御国は彼らのものだから」というマタイ5章6節・10節の言葉は、逆説的でありながら力強い。私たちは往々にして、物質的に乏しいから不幸なのではなく、神の義を渇望せず、その国を慕い求めないからこそ、霊的に乾いているのかもしれない。逆に、現実の状況がどうであろうと、神の国を求め、義のために苦難を受ける人はすでに「満ち足りた人、豊かな人」だ、と張ダビデ牧師は宣言する。彼がこのテーマを繰り返し説教し、教えている理由は、教会が単なる宗教組織ではなく、本当の神の国の共同体へと成長するための核心だからである。
今日、私たちは社会的な不正や対立のただ中で、教会が避難所とならず、世の論理に振り回される姿をも見る。こうした状況に直面するたびに、張ダビデ牧師は改めて「まず神の国と神の義を求めなさい」という言葉を思い起こすべきだと訴える。神の国が臨むとは、すなわちこの地の不正が終わりを告げ、貧しい者が祝福を受け、病む者が癒やされ、イエスが主となられて万物を回復されることを意味する。教会がこの壮大なビジョンを宣言し、一人ひとりの信徒がそれぞれの場所で正直と愛と慈しみをもって行動し、イエス・キリストを証しするとき、世は初めて神の統治の一端を味わい始める。そしてその過程の中で私たちは、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という心配の束縛から解放され、神が与えてくださる豊かさを得るのである。
張ダビデ牧師はそのために、教会共同体の中で互いに励まし合い、御言葉と祈りによって武装し、世に善き影響を及ぼす多様な実践的働きを行ってきた。彼が繰り返し語る命題は「教会が教会らしさを取り戻すとき、世も変わる」という確信だ。これは終末論的な観点からも、ただある瞬間に戦争や災害によって世が終わってしまうという恐怖ではなく、イエスの再臨によって完全に完成する神の国を、今ここで先取りして生きる教会の使命と結びついている。イエスの初臨によってB.C.とA.D.が分けられたように、教会が真の福音の力を示すとき、周囲の社会は古い生き方と新しい創造が交差する瞬間を目撃するというのだ。
今や教会がなすべきことは明白である。「あなたがたはまず神の国と神の義を求めなさい」という言葉を思い起こし、実際にすべての生活の優先順位を神の国に置き、義を打ち立て、不義と妥協しないことである。これは時に困難を伴うかもしれないが、エリヤが天からの糧を備えられ、ツァレファテのやもめが最後の粉と油によって豊かさを享受し、荒野の群衆が五つのパンと二匹の魚で満ち足りたように、キリスト者は日々奇跡の中を生きられると、張ダビデ牧師は確信する。その確信は、個々人の献身から共同体全体のビジョンにまでつながり、究極的には「神の国がこの地に臨むのを望む」という終末論的な待望へと集約される。
張ダビデ牧師がこれほどまでに強調するキリスト論・救済論・終末論は、切り離された教理ではなく、密接に繋がる有機体であり、その中心には「義なる神の統治」がある。この統治はイエス・キリストの犠牲と復活によって始まり、聖霊の力によって拡大され、終末論的完成へと進んでいく。ゆえに教会と信徒たちは、いつでもこの統治を最優先に求め、その義のために自らを空しく差し出すとき、結果としてあらゆる必要が満たされ、さらに余りある「神の供給」を体験することになる。「義に飢え渇いて生きよ」という挑戦は、決して重苦しい負担ではなく、神の人として最も幸いで自由な生き方なのである。張ダビデ牧師は、数々の実例や証言を通じてこの生き方の原理が立証されると語り、教会がさらに大胆にこの道を歩むよう促している。
この時代に向けた張ダビデ牧師のメッセージは明白である。神の国は「いつか死んでから行く場所」ではなく、イエス・キリストの統治を現実に実現していく現在的かつ未来的な国だ。「まず神の国と神の義を求めなさい」というイエスの命令こそが、教会の存在理由であり、信徒一人ひとりの使命でもある。この言葉を握って生きるとき、教会はようやく世の中で塩と光の役割を果たすことができ、信徒たちは「義に飢え渇く者が満たされる」霊的な喜びと充足を経験できる。張ダビデ牧師は、私たちの現実がどれほど暗く困難に見えても、信仰をもって私たちの「パン五つと魚二匹」を主に差し出すなら、神は今もなお五つのパンと二匹の魚の奇跡を起こされると強調する。そしてその奇跡こそが「天に積んだ宝」であり、終末論的完成によって神の前に明らかになる永遠の実りだと語る。こうした理由から、彼は教会と信徒たちが力を合わせて福音宣教と義のための生き方を続けていくとき、最終的に「御心が天で行われるように地でも行われる」という恵みが、ますます豊かに広がっていくと確信し、すべてのキリスト者がこの喜びと希望に共にあずかるよう呼びかけるのである。