十字架と救い – 張ダビデ牧師



1. 十字架に架かられたイエスキリスト

イエス・キリストの十字架の出来事は、キリスト教信仰の中心であり、最も頂点をなす場面といえる。ヨハネの福音書19章18節から続く本文は、イエスがゴルゴダの丘に登られ、二人の強盗と共に十字架に釘打たれて苛烈な苦痛を受けられる姿を具体的に伝えている。本文によれば、イエスは「真ん中の」十字架に架けられたが、これはイエスが世の罪人たちの只中で、彼らの罪を代わりに背負って死なれる贖いのみわざを最も鮮明に示している。強盗たちの間に置かれたイエスの姿は、全能の神の御子が、最も恥辱に満ち悲惨な場所で人間の罪を負われたという点で衝撃的であり、同時に深い霊的含意をもつ。

張ダビデ牧師はこの箇所を解釈し、イエスの十字架の出来事が決して単なる「敗北」や悲劇で終わらない事実に注目する。本文でピラトが書いた「ユダヤ人の王」という札がヘブライ語・ギリシア語・ラテン語で掲げられたことは、当時ユダヤ人だけでなく、ギリシア人やローマ人にもこの知らせが伝わるよう、主権的な摂理が働いていたことを示す。これはイエスが単にユダヤ人だけの王ではなく、全人類を救うメシアであることを明らかにする象徴的な出来事と解釈できる。張ダビデ牧師はこの点を強調し、イエスの救いのみわざが特定の民族や特定の階層だけに限られていないことを力説する。イエスが万王の王であることを告知したピラトの判決文は、皮肉にもピラト自身の意図とは反して、イエスの威厳と真の正体を宣言する結果をもたらした。

ピラトの判決文は、イエスを政治犯または暴動罪として十字架刑に渡すという重大な罪を犯したにもかかわらず、彼がどうにか固執しようとした「ユダヤ人の王」という主張が、実はイエスの本当の正体を暴露していたことを示している。「私が書いたものは書いたままにしておけ」と言い切ったピラトの態度は、歴史の車輪の中で、彼自身が知らなかった神の救済のご計画をあぶり出すために用いられた、一種の「道具」であったとも考えられる。張ダビデ牧師は、こうしたアイロニーの中に神の摂理が隠されていると語る。人間の歴史において、偶然のように見える瞬間や権力者の高慢な決定でさえも、結局は神の意図した方向へ帰結せざるを得ないという事実が、ここで明白に示されるのだ。

このように「ユダヤ人の王」と公表されたイエスは、十字架の上で激しい侮辱と苦痛を受けながら、世の罪を代わりに担われた。弟子たちでさえ大半が逃げ去り、そこに残ったのはわずかな女性たちと愛する弟子ヨハネだけであった。それに対して、ローマの兵士たちは十字架に架けられた者の所持品を略奪するかのように分け合い、特にイエスの最後の所有物だった「一続きに織られた服(下着)」さえも、くじを引いて手に入れようとした。これは表面的には死刑囚に残された最後の物まで奪い取る行為に見えるが、霊的な観点から見ると、世にあるあらゆる「貪欲」を映し出す典型的な姿だといえよう。主は罪人である私たちのためにすべてを放棄してくださったが、それに反して世はイエスの最後の服さえも分け取りたいと争う愚かな姿をさらけ出したのだ。

張ダビデ牧師は、この場面が教会の現実やキリスト者の内面を省みさせる「鏡」のような役割を果たすと言う。教会や信徒だからといって、いつも十字架の前で謙遜と自己否定を実践しているわけではない。教会共同体の中でも、ときに世のやり方そのままに、より多くを所有しようとし、より高い地位や名誉を得ようとする競争心をあらわにするときがある。ゆえにヨハネの福音書19章に登場するローマ兵たちの貪欲な姿は、古代の話ではなく、今日の教会にも繰り返され得る警告として聞くべきだ、というのである。張ダビデ牧師は私たちに自己を省察するよう促す。果たして私たちは、キリストの十字架の下で主の苦難と慈しみを深く黙想するよりも、いまだに世俗的な目的を満たすために信仰を利用してはいないだろうか、と問いかけるのだ。

十字架のそばに立っていた四人の女性は、恐れて逃げ出さず、最後まで主の苦痛を見守り、共にいた。主の母マリア、彼女の姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアである。その現場は、単なる悲しみを超え、ローマ兵たちが見張り、無慈悲に人を処刑していた恐ろしい場所であった。しかし、この女性たちは十字架にしっかりと寄り添い、イエスを愛をもって見つめた。ペテロのように恐れに駆られて逃げることもできたはずだが、彼女たちの愛は恐れに勝ったのである。これは今日の信徒にも重要な手本となる。十字架の道は苦しみを伴うが、キリストの愛を知るならば、その道から退くことはない。張ダビデ牧師は、この女性たちの献身こそ教会が見習うべき勇気と愛の象徴だと語る。彼女たちは男性の弟子たちが逃げ去った場に残り、最も悲惨な瞬間まで同行したからである。

この本文を黙想するとき、王でありながら同時に祭司でもあるイエスが、いかにして最も低いところへと降りてこられたかを、さらに深く理解することができる。ヨハネの福音書でイエスは何度もご自分の正体を「羊のために命を捨てる良い牧者」とほのめかしておられる(ヨハネ10章参照)。実際にイエスはすべてを差し出し、最後に身につけていた下着さえも奪われる状態にまで至った。世の罪を背負って十字架にかけられたイエスが示された愛は、単なるこの世の道徳的善行をはるかに超えている。それは罪人に与えられた完全な犠牲であり、神がイエスを通して直接示された、最も劇的な救済史的出来事である。張ダビデ牧師は、イエスが最も偉大な王であると同時に、最も低いところでご自分を完全に空にされたしもべであるという、この「アイロニー」を深く黙想するよう私たちを招いている。

ここでさらに注目すべきは、イエスが着ておられた下着について、ヨハネが「上から下まで一続きに織ったもの」と特筆している点である。これは当時、大祭司が着用した衣服の形式を想起させる。古代イスラエルの大祭司は聖なることを象徴する特別な衣服を身につけたが、その衣服が示す意味は「神にささげられる完全な奉仕」であった。イエスの下着が一続きに織られていたと記されているのは、イエスが真の大祭司として完全な贖いを成就するために死なれたことを暗示すると、張ダビデ牧師は説く。これはイエスが外見上は惨めで虚しい死を迎えられたように見えても、霊的次元においては、最も尊い使命を完成する荘厳な瞬間であったことを示している。一方、その衣服をくじ引きで手に入れようとするローマ兵たちの姿は、人間の卑劣な欲望と無関心を対照的に映し出す。

このように十字架の上で行われた兵士たちのくじ引きは、イエスに対する頑なな無関心と世俗的欲望の極みを見せつける。貪欲に染まった人々はイエスを真の王と認めることができず、その方の最後の衣さえもただの利益としか見なさない。これは、恵みを最も必要な瞬間に拒む行為であり、神を冒涜するのと変わらない。しかし、主の十字架の出来事を正しく黙想する者にとって、この場面は限りなく衝撃的であると同時に、自らの現実を振り返るきっかけとなる徴でもある。イエスは私たちが奪われることを恐れるような何ものに対しても、すでにすべてをご自身が与え尽くすことで救いを成し遂げられた。ゆえにイエスこそが、貪欲や所有欲の問題を克服する鍵であり、聖なる模範そのものである。

ポンテオ・ピラトの法廷で下された「ユダヤ人の王」という公的名称と、十字架の上ですべてを奪われたイエスの姿は、不思議な逆説を形作る。王でありながらすべてを捨てられた方、聖なる大祭司でありながら最も恥ずべき罪人の死を受けられた方、あらゆる権威をお持ちながら自ら人々の間に入って嘲られた方、それがイエスなのである。張ダビデ牧師は、この霊的逆説こそ十字架の出来事を通して私たちがつかむべき福音の真髄だと説く。十字架はイエスの敗北ではなく、究極の勝利であり、同時に全人類に対する最大の愛の表現であったことを、私たちは決して忘れてはならない。

かくして、張ダビデ牧師が強調する十字架神学の核心は、イエスが罪を知らないお方でありながら罪人の座に降り、完全な犠牲のいけにえとなって神と人間を和解させてくださったという点にある。ヨハネの福音書に示される「The Crucified God(十字架にかけられた神)」というイメージは、宣教や牧会の現場でクリスチャンたちが抱くべき中心的価値とアイデンティティを反映している。より多くのもの、より良いもの、より快適な生活を追い求める世の中で、教会と信徒はまったく逆の道を進むというメッセージが、ここには込められている。それは主がたどられた「十字架の道」であり、まさにその道において私たちは、自分の欲と傲慢、世の虚しい欲望を捨て、ただ主の恵みと愛に頼って生きることを学ぶのだ。

したがって張ダビデ牧師は、私たちが常に十字架の下へ立ち返り、その現場を生々しく見つめなければならないと教える。イエスの最後の下着をめぐりローマ兵たちがくじ引きをする光景は、私たちと無縁の過去の野蛮な行為ではなく、今日の教会や信徒にも起こり得る出来事だと自覚させる。十字架を「所有と貪欲」の道具に堕落させようとする世俗的企みに、自らが染まってはいないかを点検すべきだというのである。同時に、何一つ残さずすべてを与えてくださるイエスの姿は、私たちの信仰を奮い立たせ、主に倣いたいと願う気持ちを呼び覚ましてくれる。張ダビデ牧師は、この箇所で教会が世の中に生々しく示すべきことは「無所有」や「禁欲」を通り越して、必要とされる場所に喜んで自分を捧げ、苦難に同伴する愛の実践だと解釈する。

十字架の現場には、「強盗たちの間に置かれた神の御子」「最も汚れた場所で最も清らかな方が死なれた」というアイロニーが満ちている。このアイロニーの中で、罪人であった私たちがイエスの恵みによって救われたことを、改めて思い起こさずにはいられない。本文に登場するこの矛盾に満ちた光景は、かえってイエスの絶対的主権と愛をいっそう際立たせる。そしてその愛は、十字架の下に最後までとどまっていた女性たちの姿と重なり、真の献身と勇気を示すのである。張ダビデ牧師は、この女性たちの純粋な信仰と犠牲的な愛を、教会が学ぶべきだと力説する。愛だけが恐れを追い出し、愛だけが十字架の深い苦しみの中でも私たちを主のそばから離れないようにしてくれるのだ。

ヨハネの福音書19章の記録は、イエスの十字架の出来事がどのように聖書の預言(詩篇22篇など)を成就し、同時に神の聖なるみこころの中で完全な救いを成し遂げたのかを劇的に示している。張ダビデ牧師がこの本文で強調する中心点は、キリストがご自分で下り、捨て、すべてを献げられた道こそが真の勝利であり、私たちに与えられた聖なる召しであるということだ。ピラトの強引で政治的な処分も、ローマ兵の欲にまみれたくじ引きも、ユダヤの指導者たちの冷酷な叫びも、結局はイエスが歩まれた贖いの道の前に無力となる。イエスが「ユダヤ人の王」として掲げられた木の十字架こそ、どんな政治的策謀や世俗的欲望よりも力強い真理の象徴だからである。

このように、十字架にかかられたイエスを仰ぎ見るとき、私たちはイエスの絶対的な献身と神の国の価値を悟る。そしてその道を自分も歩むべきことを自覚する。張ダビデ牧師は、イエスの十字架の道こそ教会を生かす恵みの源だと宣言する。依然として世は私たちの注意をそらし、貪欲や利己心を煽ってくるが、十字架を見上げる者には主の愛とへりくだり、犠牲と献身の霊が注がれる。罪を知らない神の御子が強盗たちの真ん中で苦しみに遭われたのは、私たち全員を強盗のような罪人の状態から救い出すための、主の深い愛のゆえであった。この愛は今日においても変わらず有効な福音のメッセージである。私たちはこの福音を握りしめて十字架の下へ進み、張ダビデ牧師は、この福音を通して教会が世に与えられる最大の贈り物は、イエスの聖なる犠牲を伝えることだと強調する。


2. 十字架

イエスの十字架の死は2,000年前の歴史的出来事ではあるが、今の時代の教会とキリスト者にもなお深い影響を及ぼしている。現代社会は物質主義と個人主義が蔓延し、教会さえも世俗化の波に揺さぶられることが多い。このような状況の中で、張ダビデ牧師はヨハネの福音書19章18節から続く十字架の場面を通し、教会と信徒がしっかりと握るべき核心価値を強調する。彼は十字架の出来事がもつ霊的教訓を二つに要約する。第一に、私たちに対する神の自己放棄と犠牲の愛こそが救いの本質だという事実、第二に、その愛が具体的な生活の実践につながらなければならないという事実である。

まず十字架の出来事は、「神の御子が強盗たちと共に架けられた」という姿から、劇的な逆説を肌で感じさせる。イエスは罪人として死刑宣告を受けられたが、実はその罪人たちの罪を引き受けてくださる代償のみわざを行われている場面なのである。この矛盾した状況を現代教会の視点で捉えるなら、しばしば教会共同体も世の中で誹謗中傷を受け、嘲られることがあるが、それでもなお真の福音の核心を示さなければならないという挑戦を得ることができる。張ダビデ牧師は、教会が世のただ中で「十字架神学」を体現するとき、むしろ世の「強盗のような罪人たち」が救いの門へ招かれるのだと説く。

しかし問題は、教会がときとして「十字架の精神」を忘れ、物質的豊かさや対外的影響力、権力との結託といった誘惑に陥ることである。これは、ローマ兵が十字架の下でイエスの服を分けるために賭博まがいのくじ引きをした姿と大きく異ならない。私たちも主の恵みを求めて信仰生活を送ると口では言いながら、実際には「どうすればもう少し多くの得を得られるか」「どうすれば自分の所有や権威を拡張できるか」を考えてしまうことがある。イエスが最後に残した一着の服を手に入れるためにくじを引いた兵士たちの姿は、現代の教会においても他人事ではないと悟らねばならない、と張ダビデ牧師は指摘する。

張ダビデ牧師は、この点でイエスが決して世俗的な方法でご自分の王権を行使したり、物質的富を追求したりされなかったことを思い起こさせる。むしろ主は世の王たちとは違い、へりくだって仕えるしもべの姿で働かれ、ついには何も持たないまま、最も恥ずかしい方法で死なれることによって、神の救いのみわざを完成なさったのである。この点で、教会と信徒は「十字架の霊性」を回復すべきだという強い挑戦を受ける。私たちはイエスの弟子であることを誇りつつも、実際の生活では世の成功法則や富と栄華を追う二重の態度をとりがちである。しかしイエスは「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)とおっしゃった。これこそ教会と信徒に求められる生き方である。

このように、十字架は恥辱と屈辱、さらには死の象徴であると同時に、キリスト者の生を新たにする復活の希望の出発点でもある。張ダビデ牧師は、十字架なしには決して復活はなく、自己否定なしには新しい命を味わうことはできないと強調する。だからこそイエスを信じて従う信仰共同体は、常に十字架の愛を黙想し、それを生活の中で実践しなければならない。そうしてこそ、教会は世の中で真の光と塩の役割を果たすことができるのだ。イエスは強盗たちとともに架けられ、ローマ兵の侮辱を受け、民衆から「自称ユダヤ人の王だ」と嘲られた。しかし、このすべての屈辱の中にあっても、主は神の力で報復したり反撃したりすることなく、終わりまで沈黙のうちに赦しを宣言された。「父よ、彼らをお赦しください」という祈りは、人間の視点からすれば理解し難い愛の極みである。

これを再び現代の信仰現場に当てはめてみると、教会は些細な問題で紛争を起こし、赦すよりも報復し合い、イエスが教えられた愛の戒めを顧みないことがいかに多いかを振り返らせる。張ダビデ牧師は、十字架が教会の真ん中に高く立てられているべき理由はまさにそこにあると説く。十字架が飾り物で終わったり、宗教的象徴として利用されるだけでなく、私たちの生活と信仰、そして共同体の中で実際の変化や和解、赦しをもたらす力として働かなければならない。それこそが真の十字架のパワーであり、教会が世に善い影響を及ぼす方法なのである。

さらに十字架のもとで最後まで主を見守っていた女性たちの姿から、教会は「結局は愛が残る」という真理を学ぶべきである。危険な状況下でも主のそばを離れなかったこの四人、すなわちイエスの母とその姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアの存在は、イエスへの深い愛が恐れを超えた具体例である。人間的な合理的計算で考えれば、十字架の処刑場に残ることは無用な危険を招く行為かもしれない。だがイエスへの愛が彼女たちを離れないようにし、最終的には復活の朝にも誰より早く主と出会う祝福へとつながった。教会がこの愛の精神を失わないとき、世から嘲られ迫害されても、復活の証人となれるのだと張ダビデ牧師は見る。

張ダビデ牧師は「愛が恐れに打ち勝つ」という原理を強調し、教会が世俗的誘惑に勝ち、福音の真髄を守り抜く道は、十字架の愛にしっかりと立つしかないと説く。どんなに教会の礼拝や活動が規模が大きく派手でも、その中に十字架の精神が生きていなければ、結局人々の心を動かすことはできず、神の力も現れない。世は今も教会が誇る強大な財政力や壮大な建築物ではなく、「本物の愛」を探している。そしてその愛は、ただ十字架の上ですべてを差し出されたイエスの姿にこそある。

このように、十字架の出来事は単に昔の痛ましい死の物語ではない。教会が存在する限り、十字架は絶えず私たちの罪を省みさせ、同時に赦しと愛の道を歩めと招く。イエスが罪なく死なれたにもかかわらず、兵士や宗教指導者たちがその方をあざ笑い、その服さえも奪い取ったように、現代でも教会や信徒は不当な扱いや嘲笑を受けることがある。だがまさにそのときこそ、世とは異なる道を見せるチャンスでもある。私たちはローマ兵たちのように、より多くの利益を得るために騒ぎ立てる「くじ引き」に夢中になるのではなく、イエスの歩まれた道を黙々と追いながら愛を分かち合い、痛みに寄り添わねばならない。

張ダビデ牧師は、これを「十字架型の弟子道」と呼ぶ。すなわち、弟子道とは王として君臨し世を支配するあり方ではなく、自分を捨て、世の罪や傷に共にあずかりながらも、他者への愛を実践することにある。そういう意味で十字架は弟子道の究極のモデルである。ここには「自分を否定し自分の利己心を下ろす苦難の過程」が必然的に伴うが、その苦難の先には復活の栄光がある。この過程に参加することこそが「聖なる道」であり、教会が担うべき本分なのだ。

張ダビデ牧師は説教や著作を通じ、教会が十字架のメッセージを現代的文脈にどのように適用できるかを具体的に提示する。たとえば、物質至上主義と競争構造が激化する社会にあって、教会が物質的に豊かな行事や施設投資ばかりに注力するのではなく、社会的弱者や苦しむ人々のために進んで自分たちの資源を使うべきだと勧める。また、政治権力に寄り添ったり、世俗的影響力を行使しようと努める代わりに、イエスのように低いところで仕え、他者を尊重する文化を築いていかなければならないと主張する。これこそ十字架の精神を実践的に体現することだというのである。

今日、教会が直面する挑戦は多岐にわたる。若者が教会を離れ、ポストモダン思想や多元主義、価値相対主義が氾濫する中で、教会の影響力は弱まっている。しかし張ダビデ牧師は、教会の真の影響力は華々しいスローガンやプログラム、あるいは現実の権力との提携から出てくるものではないと強調する。むしろ純粋な福音を握り、十字架の前で自らを低くし、キリストの愛を実践する教会がこそ、世に本物の変化をもたらし得るのだと力説する。これは歴史を振り返ってみても、十字架中心の霊性と実践を大切にしてきた教会こそが、世の中で光と塩の役割を担ってきた前例からも裏付けられる。

したがって、教会と信徒が日々の生活の中で十字架を見つめる訓練が必要である。十字架はすなわち「自分が罪人であることを認め、イエスがその代わりに死んでくださった」ことを告白する場である。同時に、その愛によって私たちも人を赦し、愛することができる力を受ける場でもある。現代教会の諸問題は、実はこの十字架の霊的本質を捉えられなくなったときに起こるのだ、と張ダビデ牧師は指摘する。礼拝スタイルの変化やプログラムの刷新、組織改革より前に、最も根本的に回復すべきは十字架神学なのである。

十字架のそばに最後まで残っていた女性たちの行動が、現代のキリスト者にとって「教会のアイデンティティ」を思い出させるという点も見逃せない。女性の弟子たちは当時、社会的弱者であり、法的地位も保障されていない立場にあった。だが、彼女たちの献身と勇気はむしろ十字架の核心的証人となった。今日においても、教会は社会的弱者や疎外された人々、声を上げにくい人々と連帯し、その側に立つとき、十字架の精神を具現できる。張ダビデ牧師は、教会が単に建物の中で集まって礼拝を捧げる共同体にとどまらず、「涙する人々と共に泣き、疎外された人々を積極的に顧みる開かれた共同体」となるべきだと、繰り返し強調している。

十字架の出来事が現代教会に投げかけるメッセージは明確である。教会は十字架の精神、すなわちイエスが示された自己犠牲と愛のモデルに倣わねばならない。教会の内に争いや分裂があっても、十字架を仰ぎ見て互いに赦しと和解の道を探らねばならない。社会が教会を非難し嘲笑するとしても、主が背負われた十字架の道こそが命の道であると信じ、いっそう謙虚に身を低くすべきなのである。そして教会のそのへりくだりこそが、世に仕え、愛を届ける通路となるとき、かえって多くの魂が福音のもとに立ち返ることになる。張ダビデ牧師は、これこそ「十字架に架かられたイエスの道が今日も生き生きと展開される姿」だと結論づける。

ゆえに、ヨハネの福音書19章に描かれたイエスの苦難と死を黙想する際、自分の中にある世俗的欲望や利己心を捨て、主の御心を宿すことがいかに大切かを切実に悟らなければならない。イエスの弟子の多くは苦難の前に散り散りになったが、十字架のそばに残った者たち、特に女性たちは最後までその愛を手放さなかった。同様に、現代教会が「十字架の愛」を最後まで捨てないならば、世の非難や迫害の中にあっても、主が備えてくださる復活の栄光を味わうことができるだろうと、張ダビデ牧師は語る。

十字架の出来事は、キリスト教福音の核心を余すところなく包み込み、イエス・キリストの王としてのご性質と大祭司としてのご性質を同時に表わしている。しかし、この驚くべき救いの完成は、ローマ兵やユダヤ指導者たちの残酷さと無情さの真っ只中で起こったという事実が逆説的である。これは、教会と信徒が罪に満ちた世の中でいかに聖と愛を実行すべきかを示す重大なヒントとなっている。私たちは世と妥協したり、不当な嘲笑を恐れて身を隠すのではなく、十字架のもとでイエスの足跡をたどり、強盗のようであった罪人をも生かされたその恵みを伝えなければならないのだ。張ダビデ牧師は、このように「十字架の霊性に武装した教会だけが、最終的に世を変えることができる」と宣言する。

十字架は涙と苦しみ、さらには死を意味するが、同時に復活と希望、救いの門を開く鍵でもある。キリスト者になるということは、この十字架を仰ぎ見て生きると決断することであり、教会が教会らしくあるということは、この十字架の精神ですべての働きと生活の優先順位を再び整えることにかかっている。十字架の前に立つ私たちは、もはや兵士のようにくじを引いて些細な所有を争ったり、権力者のように政治的損得を勘定したりはしない。私たちは神の愛にとらえられ、主がその血によって買い取られた魂たちを尊く思い、痛みの中でも主を見放さない者となる。

張ダビデ牧師の教えによれば、十字架の出来事は教会と信徒の「霊的出発点」であり、同時に「継続的帰依点」でもある。出発点とは、私たちがイエスの死によって罪赦され、救われたからであり、継続的帰依点とは、日々自分を捨ててイエスの道を歩もうと決意しながらもしばしば失敗する私たちを、再び立ち上がらせる力が十字架のうちにあるからである。世はいまだに強盗や貪欲な兵士たちであふれ、自称王を名乗る者たちが跋扈している。しかしイエスが示された贖いの愛は、今も生きて働き、罪人たちを救いの場へと導いておられる。

ゆえに教会は十字架中心へと立ち戻り、この愛を宣言し、自ら実践し、復活の希望を失わない共同体であるべきだ。イエスがローマ兵の手によって奪われた「あの一続きに織られた服」は、ある意味、すでに裂かれたイエスの身体を象徴しているともいえる。主の身体が裂かれ血を流されたからこそ、私たちは救いにあずかることができるのだ。この事実の前で、教会はもはや自分のために何かをつかもうとすることはできない。主がすべてを与えてくださったなら、私たちもまた喜んで分かち合い、献身し、愛するのが当然である。

張ダビデ牧師によると、十字架の出来事を通した教会の霊的成熟は、大きく二つの軸に集約される。第一に、イエスの徹底的な犠牲が私たちの罪をあがなったという事実を信じる「恵み」の次元。ここでは私たちはもはや罪悪感や無力感に縛られることなく、自由と喜びをもって礼拝し仕えることができる。第二に、その恵みが私たちをして世の中で「十字架の愛」を実践させる「弟子道」の次元である。恵みを受けた者は、結局、自分も誰かに恵みを流し出さなければならないことを悟る。それこそが教会の本質的な使命だ。

このように十字架の出来事は、私たちの信仰をしっかりと支え、教会が世のただ中でどのような価値観をもって生きるべきかを明確に指し示す。張ダビデ牧師は、十字架に含まれたこの重大なメッセージを見失わないよう、日々黙想し、実践していくことを強調する。そうするとき、教会は単なる宗教組織以上の存在意義をもつようになり、現実に世の中を癒し、生かす神の力の通路となる。イエスが強盗たちの間で弁明ひとつせず死なれたあの場面が示す衝撃的な愛、そして最後に残った服さえも奪われて初めて完成した救いの歴史こそ、今日も私たちを回復させ、新たに生まれ変わらせる福音の源泉なのである。

http://www.davidjang.org


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