
はじめに
十字架の上からイエス・キリストが発せられた最後の言葉の一つとして知られる「すべてが成し遂げられた」(ヨハネ19:30)は、ギリシャ語で「テテレスタイ(Τετέλεσται, tetelestai)」と記されています。この言葉が示す意味は、単なる「終わった」という宣言以上の深さを持っています。商取引の領収書などに押される「完済済み」「支払いが完了した」というスタンプのようなニュアンスを帯び、「完全に支払われた」「すべてが完遂された」といった強い意味合いがあります。張ダビデ牧師は、このイエスの最後の宣言こそ福音の核心を鮮明に示す最も偉大な救いの宣言であると説きます。
しかし、通常の人間の視点からすれば、イエスの十字架の死は悲劇的な結末に見えます。弟子たちは失意の中で散り散りになり、多くの人々は「偉大な預言者」「奇跡の人」と期待していたイエスが、ローマ帝国の非情な処刑法である十字架刑によって最も屈辱的な形で殺された事実に打ちひしがれました。ところが福音書の記者たちは、この悲惨とも言える場面を、「救いのクライマックス」と位置づけるのです。とりわけヨハネの福音書では、イエスの死の瞬間を「勝利宣言」として描き、その言葉を「すべてが成し遂げられた」と明確に示しています。これこそが人間の価値観を超える神の真理の逆説、「敗北のように見える十字架が実は勝利の場所」であるというキリスト教の中心命題といえるでしょう。
以下、本稿では三つの小テーマを通して「すべてが成し遂げられた」の意味を掘り下げていきます。第一に「十字架の絶望の中で宣言された『すべてが成し遂げられた』の意味」と題し、人間的観点では絶望しか見えない場面が、いかに神の救いの完成を告げる瞬間となったのかを探究します。第二に「聖書の預言と救いの完成:ヒソプ、過越の小羊、そして主の血潮」と題して、出エジプト記や旧約における犠牲制度との関連を広げながら、イエスの十字架と血がいかに旧約の預言と一致し、神の救いのドラマを完成させるのかを考察します。第三に「低くなられたことで高くあげられた主と、その道を歩む者の栄光」という視点から、イエスの謙卑と自己犠牲がどのようにして真の栄光となり、またその道を従う私たちにどのような意味と祝福をもたらすのかを見ていきます。最後に総合的なまとめとして、イエスの十字架と復活が示す「すべてが成し遂げられた」の真理をもう一度確認することで、現代に生きる私たちにもなお響いてくる福音の力を再認識する機会としたいと思います。
小テーマ1.十字架の絶望の中で宣言された「すべてが成し遂げられた」の意味
1-1.人間から見た絶望と失敗
イエス・キリストの十字架をめぐる物語は、人間の目から見ると痛ましく、かつ敗北のように映ります。ヨハネ19章をはじめとする福音書全体の証言によると、イエスはローマ帝国に対する政治的反逆者、あるいはユダヤ指導層からは神を冒涜する者として裁かれ、無残にも十字架につけられます。十字架刑は、当時最も過酷で屈辱的とされた刑罰であり、犯罪者や奴隷に適用される形が一般的でした。この刑を執行された者は、公衆の面前で長時間苦しみ、最期は窒息や失血、衰弱によって死に至ります。その姿は「神に祝福されている」とは到底思えず、「呪われた」存在の典型とされました(申命記21:23参照)。
こうした観点からすれば、イエスの十字架上での死は「神の裁きにより見捨てられた証拠」であるかのようにさえ思えます。実際、マタイやマルコの福音書によれば、十字架にかかったイエスを見て、通りすがりの人々や祭司長たちは嘲笑し、「神の子なら自分を救ってみろ」「他人は救ったのに、自分は救えないのか」と言い放ちます(マタイ27:39-42、マルコ15:29-31など)。弟子たちは師を見捨てて逃げ去り、ペテロは三度イエスを知らないと言い、またユダは裏切って銀貨三十枚を受け取った後に後悔し、自ら命を絶ちました。まさに人間的な視点からは、イエスの十字架の物語は絶望しか見いだせないように思われます。
しかし、そのように見えるこの場面を、ヨハネの福音書はあえて「神の救いの完成」として描くのです。張ダビデ牧師が強調する点は、イエスの最期の一言「すべてが成し遂げられた」(ヨハネ19:30)がただの「終わりの合図」ではなく、宇宙的な「成就の宣言」であるということです。たとえ表面的には敗北や死のように映ったとしても、それこそが神の愛の究極的な現れであり、すべての人の罪を贖う力をもつ「完成のとき」だったのです。
1-2.「すべてが成し遂げられた」のギリシャ語と深い意味
ギリシャ語「テテレスタイ(Τετέλεσται, tetelestai)」は、完了形で表される動詞であり、日本語訳で単純に「すべてが終わった」とするよりも、「支払いが完了した」「負債がすべて清算された」といった強いニュアンスを伴うと言われます。商取引の領収や債務の清算時にも用いられる表現であり、「何かが欠けている状態」から「欠けるところが何もない状態」へと移行したことを明白に示す言葉でもあります。
イエスは、ヨハネ19章28節で「すべてのことが成し遂げられたのを知って」と描写され、そこで「渇く」と言われます。そして29節で、人々が酸いぶどう酒をヒソプにつけた海綿をイエスの口もとに差し出し、イエスがそれを受け取ると、「すべてが成し遂げられた」と宣言されます。そしてイエスは頭を垂れて息を引き取られたと記されています。ここでの一連の動作は、旧約の預言(詩編69:21など)が成就されたこと、そしてイエスが神から与えられた使命をすべて完うし終えたことを指し示しています。
張ダビデ牧師が特に説き明かすのは、イエスの十字架上の最期が決して偶発的な悲劇ではなく、神の御心に基づく綿密な計画の頂点だったという点です。「すべてが成し遂げられた」には、イエスご自身の救いの働きがすべて完了したという宣言と同時に、旧約聖書に連なってきた贖罪の象徴や預言の総仕上げという意味も含まれます。すなわち、アブラハムからモーセ、ダビデ、預言者たちへと続く「メシアの到来」と「贖いの完成」を予告してきた一連の言葉が、ここに結実しているのです。
1-3.ヨハネ福音書の独特な描写と「勝利の十字架」
マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書は、イエスが十字架上で最後に大声を上げて息を引き取られたと記しています(マタイ27:50、マルコ15:37、ルカ23:46参照)。それに対しヨハネは、その大声の具体的内容を「すべてが成し遂げられた」の一言で描写する点に特色があります。ヨハネの福音書は全体的に、イエスを「言(ロゴス)」として紹介し(ヨハネ1:1)、地上に下られた神の御子があらゆる奇跡と言葉、そして人々との関わりを通じて「神の栄光」を現わすストーリーとして構成されています。イエスがカナの婚礼で水をぶどう酒に変えた最初の奇跡を「イエスはこれによりその栄光を現された」と説明するように(ヨハネ2:11)、ヨハネにとってイエスの一つ一つの行いや言葉は、単なる歴史的事実以上に「神の栄光の啓示」として位置づけられるのです。
その啓示の最高潮が十字架であり、同時に「栄光の時」でもあるという逆説をヨハネは強調します(ヨハネ12:23「人の子が栄光を受ける時が来た」など)。そして、イエスはヨハネの福音書において、「私が地上から上げられるとき、すべての人を私のもとに引き寄せよう」(ヨハネ12:32)とも語られます。ここに「上げられる」という言葉は、十字架につけられるという意味と同時に、天的な高挙のイメージを重ね合わせている、と多くの解釈者が指摘しています。罪人を呪いの刑罰として処刑する十字架が、神にとっては全世界への救いの招きとなる――ここにこそ神の逆説的な栄光があるわけです。
張ダビデ牧師は、この点を「イエスが十字架の絶望の只中で宣言された『すべてが成し遂げられた』とは、真の勝利宣言である」と呼びます。人々に嘲笑され、弟子たちに見捨てられ、ローマ兵に打たれ、釘付けにされるという悲惨な状態の中で、イエスは「失敗したのではなく、完成した」と語られる。これはキリスト教が古来から「十字架の神学」と呼んできた核心そのものであり、すべての信仰者にとっての希望の源泉なのです。
1-4.エマオ途上の弟子たちと「絶望の解消」
十字架を見て絶望したのは、当時のユダヤ人やローマ兵だけではありませんでした。ルカの福音書24章に記されるエマオ途上の二人の弟子たちは、師として慕っていたイエスが処刑されたことにショックを受け、失意のままエルサレムを離れていきます。彼らは「私たちはこのイエスこそイスラエルを解放してくださると望みをかけていたのに」と語り、イエスをメシアとして信じていた期待が裏切られたと感じていました。
しかし復活されたイエスは、その二人の前に現れ、旧約の律法と預言書を解き明かしながら「キリストが苦しみを受け、栄光に入ることは当然ではなかったのか」(ルカ24:26参照)と問いかけます。つまり、十字架の苦難こそが救いのプロセスに欠かせない要素であり、メシアが民を贖うために流された血が旧約全体の成就であることがここで示唆されるのです。これを理解したとき、弟子たちの心は「燃え上がるようになった」と描かれており(ルカ24:32)、結局彼らは再びエルサレムに戻って「主は確かに復活された」と証しする証人となりました。
このエピソードは、私たちがしばしば人生の試練や失敗において「神はどこにおられるのか」「こんな苦しみは神の御心に反するのではないか」と思うときに、一つの道を示唆します。すなわち、表面的な絶望の背後に、神の壮大な救いの計画が進行していることを信じる信仰です。十字架が最悪の結末に見えたとしても、その十字架が「すべてが成し遂げられた」と宣言された完成の時であったように、神のご計画は私たちの想像を超えて働くことがありうるのです。
小テーマ2.聖書の預言と救いの完成:ヒソプ、過越の小羊、そして主の血潮
2-1.ヒソプと過越の祭りの背景
ヨハネの福音書19章29節には、十字架上のイエスに酸いぶどう酒を含ませるために、「人々は酸いぶどう酒を含ませた海綿をヒソプに付けてイエスの口元に差し出した」という記述があります。ここで登場する「ヒソプ(英語ではHyssop)」は、旧約聖書出エジプト記12章において、イスラエルの民がエジプトから脱出する直前に行われた過越(すぎこし)の祭りの場面で重要な役割を果たした植物として知られています。すなわち、子羊の血を戸口の柱と鴨居に塗るとき、ヒソプの枝が用いられた(出エジプト12:22)という記述があるのです。
過越の祭りは、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民が、モーセに導かれて解放される決定的な出来事において、神がエジプトの全ての長子を撃たれた時、「子羊の血が塗られた家」を過ぎ越したことを記念しています。ここで犠牲とされた子羊は「過越の小羊」と呼ばれ、その血が死の災いを防ぐ守りとなりました。これは旧約聖書全体を通して「神の贖いの象徴」として繰り返し示されるモチーフです。
ヨハネ福音書があえて「ヒソプ」という言葉を用いていることは、単なる偶然ではありません。イエスの死を過越の小羊の死になぞらえ、旧約における「血による救い(死からの解放)」をイエスの血と結びつける意図が明確に読み取れるのです。張ダビデ牧師はこの点を「イエスが流された血は、旧約時代の過越の血の究極的な完成を意味する」と解説します。すなわちイエスこそが真の過越の小羊であり、その血潮によって罪が赦され、死が過ぎ越される道が開かれる――これがヨハネ福音書の神学的構造の核心です。
2-2.過越の小羊としてのイエス
ヨハネ1章29節において、バプテスマのヨハネがイエスを指し示して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊!」と宣言する場面は有名です。ヨハネはイエスを「神の小羊」と呼び、「世の罪」を取り除く存在だと明言します。ここでも「子羊」のイメージは、旧約における犠牲や過越の子羊を連想させます。旧約聖書の贖罪制度では、罪を犯した人々が罪の赦しを得るために、傷のない動物(子羊や山羊など)を祭司にささげ、その血をもって贖罪を行う必要がありました。特にレビ記や民数記には、罪の赦しのための動物犠牲が繰り返し説明されています。
しかし、それらの動物の犠牲はあくまで一時的な措置であり、人間の罪を最終的に取り除くには至りません。預言者イザヤはイザヤ書53章で、「苦しみのしもべ」と呼ばれる存在が、自らの血をもって多くの人の罪を負うメシア的イメージを示唆しました。このメシア的「しもべ」は、屠り場にひかれていく子羊のように口を開かず、彼の打たれた傷によって私たちは癒される(イザヤ53:5-7参照)という、極めて象徴的な預言を残しています。
イエスはこの「子羊」のイメージを完全に身にまとい、人類の罪を代わりに負う究極の犠牲となられた。ヨハネ福音書だけでなく、パウロやペトロの書簡にも「キリストは私たちの過越の小羊」としてほふられた、あるいは「傷も汚れもない子羊のようなキリストの尊い血によって贖われた」という表現が出てきます(1コリント5:7、1ペトロ1:18-19など)。これらはすべてイエスの十字架上の死が、旧約の贖罪制度をはるかに超えた最終的で完全な犠牲として、私たちを罪と死から解放する力を持つことを指し示します。
2-3.血と水:完璧な愛の注ぎ出し
ヨハネ19章34節には、ローマの兵士が死を確かめるためにイエスの脇腹を槍で突いたところ、「血と水が流れ出た」という有名な記述があります。この場面をめぐっては神学的にも医学的にも多くの議論がありますが、古来より多くの教父や解釈者が「血と水」をそれぞれ贖罪の血、または洗礼や聖霊を象徴するものとして捉えてきました。とりわけ、イエスの十字架の死によって流された血が「贖い」の働きを表し、水が「清め」や「再生」を象徴するという解釈がなされることが多いとされます。
張ダビデ牧師は、この血と水が流れ出る描写を「罪人のために最後の一滴までご自分を注ぎ出された神の愛の極み」として受け止めます。キリスト教の伝統においては、イエスが十字架でただ死を迎えただけでなく、あらゆる痛みや苦しみを引き受け、かつ最期の一瞬まで愛のゆえにご自分を惜しみなく注ぎ尽くしたと考えます。それは、ヒソプにつけられた酸いぶどう酒を受け取られた場面とも呼応しますが、イエスは自分のためというよりも、旧約の予言を成就し、すべての義を完全に満たすためにその行為を受け入れたと理解できます。
聖書の他の箇所でも、水と血がキリストの贖いと清め、または聖霊の働きと直接結びつけて言及されることがあります(たとえば1ヨハネ5:6-8など)。神学的には、イエスの死によって流された血こそが罪の代価を支払うものであり、その血を信じる者は罪の赦しと清めを得て、神の子としての新しい命に入るという教えが中心的です。つまりイエスの血は、まさに出エジプト記12章の過越の小羊と同様に、「死を過ぎ越す」ための印となるわけです。
2-4.「一粒の麦」の逆説と十字架の必然性
ヨハネ12章24節でイエスは、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままであるが、もし死ねば多くの実を結ぶ」と語り、ご自分の死が多くの命を生み出すために不可欠だと暗示されます。実際、この箇所ではギリシャ人たちがイエスを訪ねてきた際に、イエスは「人の子が栄光を受けるときが来た」と宣言し、同時に「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者はそれを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12:25)とまで言われます。これは「死を通じてこそ新しい命が誕生する」という逆説的な教えであり、イエスご自身が十字架によって死に渡されることを預言していると読めます。
また張ダビデ牧師は、この「一粒の麦の死と多くの実」という逆説こそが、イエスの十字架を理解する根本の枠組みだと説きます。すなわち、「すべてが成し遂げられた」という言葉は、イエスが人間の罪と死を引き受けるために、そのご自身の命という“種”を「死」に落とされ、やがて復活を通して多くの実(救われる者たち)を生み出すことが成就されたという意味を持ちます。もしイエスが死ななければ、そのまま「偉大な教師」や「奇跡を行う預言者」として記憶されたかもしれませんが、人間の罪を根本的に贖い、死の力を打ち破るためには、十字架による血の犠牲が不可欠だったというわけです。
この原理は、私たちの日常生活や信仰生活にも応用可能です。私たちは多くの場合、自分の成功や幸福を第一に考え、それを失うことに大きな恐れを抱きます。しかしイエスは、「本当に生きるためには、一度自分を捨て、十字架を負う必要がある」と教えられます。これはイエスの弟子としての歩みを示すだけでなく、信仰全体のパラドックスを象徴する教えでもあります。「死によって命が生まれる」という神の逆説は、ヒソプと過越の小羊に表された血の象徴的メッセージと同様に、イエスの福音の核心をなすのです。
小テーマ3.低くなられたことで高くあげられた主と、その道を歩む者の栄光
3-1.イエスの謙卑と自己犠牲の極致
ピリピの信徒への手紙2章6-11節(通称「キリスト賛歌」)は、イエス・キリストの自己卑下とそれに続く高挙について象徴的に描写する重要な箇所です。そこでは、キリストは神の身分でありながらそれに固執することなく、むしろ自らを無にしてしもべの姿を取り、人間の姿をもって世に来られたと語られます。さらにへりくだって死に至るまで従順であり、それも十字架の死にまで従順であられた。そのため神は彼を高くあげ、すべての名にまさる名を与えられた、と続きます。
ここに示されるのは、「神が神としての権威を誇示する」のではなく、「神がへりくだる」という驚くべき逆説の真理です。イエスが十字架で「すべてが成し遂げられた」と宣言されたとき、そこには神の謙遜と愛が究極の形で現れています。張ダビデ牧師が繰り返し強調するのは、イエスの十字架が神の計画の事故的な結果ではなく、イエスご自身が「あえてその道を選ばれた」結果である点です。イエスはゲッセマネの園で祈られ、「この杯を取りのけてください。しかし、わたしの望むようにではなく、みこころのままに」と言われました(マタイ26:39など)。そこに垣間見えるのは、人間的な苦痛や死の恐れを超えて、神のみこころに従うイエスの決断です。
十字架は人間的には「最も卑しい場所」ですが、神にとっては「最も尊い場所」となりました。その意味で「低くなられたことで高くあげられた主」というフレーズは、単に比喩的な表現ではなく、実際に神の力が働いた歴史的かつ超歴史的な出来事を示すものなのです。
3-2.弟子たちへの問い:「その杯を飲めるか」
マタイの福音書20章20節以下には、ゼベダイの息子ヤコブとヨハネの母が登場し、自分の息子たちをイエスの右と左に座らせてくださいと願うシーンがあります。おそらく彼女は、イエスがメシアとして地上の王国を打ち立てるときに高い地位を得させてほしいという野心的な望みを抱いていたのでしょう。しかしイエスは、「あなたがたは、わたしが飲もうとする杯を飲むことができるのか」と問い返されます。ここで言う「杯」とは、十字架の苦難を指すとされています。
人間はしばしば、栄光や名誉を追い求め、その裏にある苦難や犠牲からは目を背けようとします。しかしイエスの教えは、栄光は苦難と表裏一体であること、そして神の国の価値観は人間の功名心とは全く異なる原理に基づいていることを示しています。イエスは「あなたがたの間で偉くなりたい者は、仕える者となりなさい。いちばん上に立ちたい者は、いちばん下のしもべになりなさい」と繰り返し教えられました。イエスが「人の子が仕えられるためではなく、仕えるために来た」と言われたとおり(マタイ20:28)、神の国における偉大さは、自己犠牲と奉仕によって証しされるのです。
張ダビデ牧師は、ゼベダイの息子の母親が最初はこうした世的な栄光を求めたが、最終的には十字架のそばにいた女性たちの一人として名を連ねている点に注目します(マタイ27:56やマルコ15:40などを総合すると、そこにヤコブとヨハネの母らしき人物がいる)。これは人間の野心や名誉欲が砕かれ、イエスの苦難を共有する道へと招かれた結果として理解できる、象徴的な場面です。イエスのそばに最後までいた女性たちは、決して高い地位や称賛を得たわけではありませんが、イエスの最も苦しい時に寄り添い、その死の瞬間を見届ける特権を得ました。ここには「低くなることで本当の意味でイエスと共にいる」という大切なメッセージが込められています。
3-3.「自分を捨てる」とは何か
イエスは、弟子になるために「自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と命じられました(マタイ16:24など)。これは、文字通り身体を痛めつける苦行や、自己嫌悪に陥ることを促すものではありません。むしろ、自らの罪深さや傲慢、自己中心性を認め、神のみこころと他者への愛に生きる姿勢へと方向転換する行為といえます。イエスが示された十字架の道は「自己卑下」で終わるのではなく、そこで「すべてが成し遂げられた」と宣言する勝利への道だからです。
「自分を捨てる」という言葉は、しばしば人々に誤解を与えるかもしれません。何もかも諦め、無我の境地になるとか、自分の一切の欲望を排除することだと捉えられることがあります。しかしキリスト教的な文脈での「自分を捨てる」とは、より正確には「罪に死ぬ」と言い換えることもできます。神に背を向け、自己の栄光を求める“古い人間”のあり方に死んで、イエスが示したように神と隣人への愛に生きる“新しい人”として生き直す――これが「自分を捨てる」本質です。
このプロセスは苦痛を伴う場合もありますが、イエスの十字架を見上げるとき、そこには「神が命じること以上のものをイエスがすでに引き受けてくださった」という安心感、そして「結局はすべてが成し遂げられた」という完全な救いの保証が与えられます。ゆえに、クリスチャンの霊的な歩みには、自己否定や鬱々とした罪悪感よりも、「罪はイエスによって処理された。私は感謝と喜びをもって神に従える」という解放感が勝っているのです。
3-4.低くされた者が受ける栄光
イエスは、「わたしが地上から上げられるとき、人々をすべてわたしのもとに引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と語られました。十字架刑は本来、犯罪者を恥ずかしめ、地面から吊るし上げて晒し者にすることで社会から完全に排除する手段でした。ところが、イエスはその「吊し上げられる」場を、人類救済のための「神の愛の展示」として用いられたのです。まさにへりくだりの極みが、同時に神の栄光を最も高く掲げる場へと転換されたわけです。
このように、イエスにとっては「低くされる=高くされる」という逆説が成り立ちます。これが神の国の法則であり、イエスに従う者にも当てはまる原理です。「最初の者が最後になり、最後の者が最初になる」(マタイ20:16)、「自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされる」(ルカ14:11)といったイエスの言葉は、すべてこの原理を端的に示しています。私たちが自己中心的な誇りや栄光欲を捨て、神と隣人に仕える道を選ぶときに、意図しなくとも神からの高揚、神からの祝福を受け取るようになるのです。
張ダビデ牧師は、「低くなる」とは敗北でも惨めさでもなく、むしろイエスが歩まれた勝利の道にあずかることだと説きます。十字架の下に身を置くとは、世の光のような派手さや世俗的な力を放棄する行為かもしれません。しかし、その姿こそが「神の栄光を宿す器」に変えられる秘訣でもあるのです。イエスの十字架と復活の物語は、この逆説を歴史の上で明確に証明して見せました。
結論:すべてが成し遂げられた――新しい始まりへの招き
ここまで三つの小テーマにわたって、イエス・キリストの「すべてが成し遂げられた」という宣言が持つ意味と、それを取り巻く聖書的背景、そして弟子として歩む上での示唆を詳しく見てきました。最後に、それらを総合しながら改めて結論を整理してみましょう。
- 十字架の絶望の中で宣言された「すべてが成し遂げられた」の意味
人間の目には失敗や絶望としか映らない十字架刑で、イエスは逆説的に「完全な勝利宣言」をされた。ギリシャ語で「テテレスタイ」とは「すべての負債が清算された」「すべての使命が完了した」という強い意味をもつ。ヨハネ福音書は、その場面を神の栄光の頂点として位置づけ、イエスご自身も「地上から上げられるときにすべての人をわたしに引き寄せよう」と語られた。よって、外面的には最も悲惨な死が、内実的には最も偉大な愛と救いの完成として示されている。 - 聖書の預言と救いの完成:ヒソプ、過越の小羊、そして主の血潮
十字架上でイエスに差し出された酸いぶどう酒をヒソプに付けた海綿で与えた場面は、出エジプト記12章の過越の出来事を連想させる。過越の小羊の血で死の災いを免れたイスラエルの民は、ヒソプを用いて戸口にその血を塗った。イエスは真の過越の小羊として、十字架で血を流し、その血によってすべての人が罪と死から解放される道を開かれた。また兵士に突かれたイエスの脇腹から流れ出た血と水は、イエスの自己犠牲と愛の極みを象徴し、旧約の預言が成就したことを劇的に示す。ヨハネの福音書が強調する一粒の麦の原理においても、「死を通してこそ新しい命が多く生まれる」という逆説が十字架において最も明確に示された。 - 低くなられたことで高くあげられた主と、その道を歩む者の栄光
イエスが自らを卑しくされ、しもべの姿をとられたからこそ、神は彼を高くあげ、すべての名にまさる名を与えられた(ピリピ2:9)。マタイの福音書20章などにある「杯を飲めるか」という問いかけは、弟子たちに「十字架の苦難に参与する覚悟があるか」と問いかけるものでもある。人間は地上の栄光を求めがちだが、イエスが示されたのは「仕えること」「自分を捨てること」によってこそ真の高揚を得る道であった。十字架の道を通して、神の愛が完全に注がれ、そこにこそ「すべてが成し遂げられた」という勝利の確信がある。
このように、イエス・キリストの十字架とそこで語られた「すべてが成し遂げられた」という言葉は、単なる歴史的事実や神学上の概念ではなく、私たちの人生そのものに深く関わるメッセージを放っています。現代社会でも、人々は多くの失望や挫折、苦しみを経験します。病や災害、経済的困窮、人間関係の破綻など、さまざまな形の“十字架”を負わされる場面があるでしょう。しかし、もしそこに「神の逆説的な力」が働いていると信じるなら、私たちは絶望の中でも「すべてが成し遂げられた」という視点を持つことが可能になるのです。
張ダビデ牧師が説く「すべてが成し遂げられた」という宣言は、私たちにとって「終わりではなく、新しい始まり」への招きでもあります。イエスの死はそこで完結せず、三日目に復活という形で「新しいいのちの誕生」を証ししました。十字架と復活は一対であり、十字架がなければ復活はなく、復活がなければ十字架もまた単なる悲劇に終わります。しかし、実際にはイエスは死を打ち破り、永遠の命への道を切り開かれました。その結果、私たちは「死が終わりではない」という希望を持つことができるのです。
さらに、イエスの血によって贖われた私たちは、過越の小羊が象徴していたように、神の怒りや裁きから過ぎ越され、罪の束縛から解放されました。これは「行い」による救いではなく、イエスの犠牲と恵みによる救いです。そうであるがゆえに、私たちは日々の歩みの中で失敗や罪を犯しても、そのたびにイエスの十字架を仰ぐことで「すでにすべてが成し遂げられている」という赦しの完成を思い起こし、悔い改めることが許されます。ここにこそ、キリスト教信仰の大いなる解放感と喜びがあります。
最後に、私たちがそれでもなお人生の試練に直面するとき、エマオ途上の弟子たちのように「もう望みはない」「イエスは死んでしまった」と考えてしまう場合があります。しかし復活の主は、今もなお私たちに近づき、「あなたがたは聖書が示す真理を知らないのではないか。キリストが苦しみを通して栄光に入ることは当然ではないか」と教えてくださいます。そして共に食事をする中で、私たちの目を開き、「すべてが成し遂げられた」ことの意味を再確認させ、絶望から希望へと私たちを導かれるのです。
私たちがこの十字架と復活に込められた「すべてが成し遂げられた」という宣言を日々の生活の中で受け取り続けるとき、そこには必ず「神の新しい始まり」が待っています。どんな暗闇や死の影を通るような瞬間でも、イエスが流された血と水は今も有効であり、その犠牲と復活の力は時代を超えて私たちを支え、照らしてくれるのです。
「すべてが成し遂げられた」――それは神が私たちに向かって語る、計り知れないほどの愛のメッセージであり、救いの完成の知らせです。もう私たちは罪の重荷に苦しむ必要はありません。恐れに支配される必要もありません。神の恵みと真理に生きることで、私たちは自分の小さな人生が神の壮大なご計画の一端を担う場所に導かれていることを知るのです。このメッセージに応答して生きるとき、私たちもまたイエスのように「一粒の麦」となって、神の愛の実をこの世に結ぶ器となっていくでしょう。
そして最終的には、人生の終わりに至る瞬間であっても、イエスのように「すべてが成し遂げられた」と、神から与えられた使命をまっとうした確信を持って息を引き取ることができる――それがキリスト教信仰の約束する終極のビジョンです。そこでは、十字架の苦難と復活の喜びを分かち合う者たちが、神の栄光を満ちあふれる姿で仰ぎ見ることになるでしょう。
以上、張ダビデ牧師が説く「すべてが成し遂げられた」という主題を中心に、三つの小テーマ――「十字架の絶望から見る完成の宣言」「旧約の預言と血の贖いの成就」「低くなられた主に倣う者の栄光」――を展開してきました。十字架と復活というキリスト教の最重要真理を改めて見つめ直す中で、「死が終わりではない」という復活の希望と、「罪の負債が完済された」という贖罪の恵みが、いかに大きな力を持っているかが示されます。どのような苦しみも、神の愛のうちでは意味あるプロセスへと変えられ、「すべてが成し遂げられた」と宣言されたキリストの十字架は、私たちを絶望から希望へ、死から命へと導き続けるのです。
願わくは、このメッセージを読むすべての人が、イエスの十字架に示された神の自己犠牲的な愛と、その愛による救いの完成を深く受け取り、日々の人生の中で「すべてが成し遂げられた」恵みの現実を体験していかれますように。アーメン。